平瀬 智行(ひらせ ともゆき、1977年5月23日 - )は、鹿児島県出身 のプロサッカー選手である。ポジションはFW。元日本代表。1993年、鹿児島実高に入学。3年時の第74回高校サッカー選手権で優勝(静岡学園高と両校優勝)を果たすと、1996年に鹿島アントラーズへ入団。同期に柳沢敦や池内友彦がいる。1998年にはブラジルのCFZ・ド・リオへ留学を果たし、1999年、当時の代表監督フィリップ・トルシエに見込まれ、シドニーオリンピック予選の代表に選出された。アジア予選ではゴールを量産し、チーム最多の17得点を挙げる活躍を見せ、本戦出場の原動力となった。しかしシドニーオリンピック本大会では、メンバー入りしたものの高原直泰、柳沢に次ぐ3番手の扱いとなり、チーム戦術も試合後半にFWを減らし1トップにシフトする戦術を取ったため出番は限られ、見せ場を作ることは出来なかった。一方、鹿島ではJリーグ初の三冠(J1、ナビスコ杯、天皇杯)制覇を経験し、フル代表にも選出された。2002年7月に横浜F・マリノスへ半年間レンタル移籍。翌年に鹿島へ復帰を果たすが、2004年8月に今度はヴィッセル神戸へ完全移籍。神戸では、サポーターから「平瀬様」「14番様」などと神様的存在で慕われていたものの、股関節の怪我に悩まされ、2007年シーズン終了を以て戦力外となり退団。一時は引退も考えたが、旧知の仲でベガルタ仙台監督に就任したばかりの手倉森誠に請われる形で仙台へ完全移籍。仙台ではエースストライカーとして活躍し、鹿島に在籍していた2000年シーズン以来、8シーズンぶりの二桁得点を記録。チームはJ1・J2入れ替え戦(対ジュビロ磐田)に回るが、第1戦は体調不良で欠場、第2戦は後半から途中出場するが、満足な結果を残すことはできず。結局、1分1敗でJ1昇格を果たすことはできなかった。2009年はリーグ戦40試合に出場し8得点。FWとしては満足な仕事はできなかったものの、チームのJ1復帰並びにJ2初優勝に貢献。同年の天皇杯準々決勝(対川崎フロンターレ)では延長後半に決勝ゴールを挙げ、チームを初のベスト4へ導いた。2010年11月30日、同年シーズン限りでの現役引退を発表。12月4日のJ1最終節(対川崎フロンターレ)では控え選手としてベンチ入りしたもののチームが残留争いの渦中にあった上にビハインドを背負っていたために出場機会はなく、15年間の現役生活に終止符を打った。2011年、岩本輝雄の後任として仙台の第2代アンバサダーに就任。2013年7月、東北社会人リーグ2部のブランデュー弘前FCに入団。当初は9月22日に開催されたラインメール青森戦限定の契約だったが、その後も引き続き選手としてプレーしている。180||32||33||8||19||3||232||43108||22||colspan="2"|-||2||2||110||24その他の公式戦|2002-03||鹿島||19||2||1!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|-!通算
出典:wikipedia
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