養賢堂(ようけんどう)は、仙台藩の藩校。別名明倫館。養賢堂は、幕末には額兵隊の宿舎としても使用された。額兵隊隊長の星恂太郎も養賢堂の出身である。仙台藩廃藩後、養賢堂は明治政府に接収されて宮城県庁として使用された。正門だけは移され、現在では泰心院の山門として残っている。その後、隣接地に新しく宮城県庁舎が出来、養賢堂の県庁舎としての役割は終わった。建物は、第二次世界大戦における仙台空襲で焼失した。当初、正門は北一番丁にあったが、1817年(文化14年)、勾当台通・表小路に講堂と共に完成した。造りは、一間一戸の四脚門であり、屋根は切妻造、棧瓦葺であり、また伊達家の家紋「三引両」と「九曜」を配した漆喰塗の棟や細部の装飾などで重厚な外観となっているのが特徴である。戊辰戦争後の1869年(明治2年)に正門は1両2分で払い下げられ、泰心院(現在の住所は仙台市若林区南鍛冶町100)の山門になった。1871年8月29日(明治4年7月14日)に開始された廃藩置県により仙台藩は仙台県に移行し、仙台県庁が仙台城内に設置された。しかし、間も無く仙台城が兵部省管轄となって東北鎮台が移転してくることになったため、仙台県庁は養賢堂に移転した。このとき、養賢堂正門跡に洋風の門が新たに設置された。養賢堂は仙台空襲で焼失したため、被災しなかった泰心院山門は、養賢堂の遺構として現存する唯一のものとなった。『孝経』『小学本註』『四書集註』などを主な教材として学んでいた。対象は八歳からで、三度落第したら退学という決まりになっていた。藩内各地の郷学から成績優秀者が養賢堂に集まった。文化7年(1810年)に大槻平泉が学頭に就任すると学制の抜本的改革が行われ、建部清庵・大槻玄沢らによって洋学(蘭学・露学)が教授されるようになる。この路線は平泉の息子・大槻習斎や親族の大槻磐渓によって引き継がれ、仙台藩は諸藩と比べても極めて高い教育水準を保つこととなった。林子平・高野長英などはここの出身である。関孝和の弟子が藩校では珍しい算術の授業が行っていたため、養賢堂文庫には和算の書籍が多かった<。1871年(明治4年)の仙台医学館廃止の翌1872年、仙台藩医学校出身者が南町に私立仙台共立社病院を開設した。これが改組・改称を繰り返して、医学教育部門が1912年に東北帝国大学医学専門部として包摂された。現在は、東北大学医学部となっている。他方、病院部門は、現在東北大学病院となっている。なお、養賢堂の設置から東北帝国大学医科大学の設置に至る過程において、数次の廃止および断続期間を挟んでいるため、東北大学は、同大の創立年月日を、養賢堂の設置年月日ではなく、1907年の東北帝国大学設置日としている。1871年(明治4年)、仙台医学館跡に英語専門学校として辛未館が設置された。これが改組・改称を繰り返して東華学校となり、1892年4月1日に宮城県尋常中学校となって、現在の宮城県仙台第一高等学校に繋がっている。
出典:wikipedia
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