越川 優(こしかわ ゆう、1984年6月30日 - )は、日本の男子バレーボール選手、バレーボール全日本選手。石川県金沢市出身。ポジションはウイングスパイカー。姉は元岡山シーガルズの越川瞳美。金沢市立野田中学校を卒業後、高校バレーの名門、岡谷工業高校に入学。在学中の春の高校バレーでは2年生時にキャプテンとして準優勝。インターハイは1年生時に優勝、2年生時に準優勝、3年生時に3位入賞。3年生時での国体でも優勝を飾った。2002年、釜山アジア大会で、(男子では)高校生初の全日本代表入りを果たす。高校卒業後、2003年にVリーグのサントリーサンバーズに入団。2005年9月に行われた第13回アジア選手権では、ベストスコアラー賞を獲得し、日本の5大会ぶりの優勝に貢献。2006年7月、サントリーサンバーズとプロ契約を結んだ。マネージメント会社はホリプロ。自身のスポーツ用品スポンサーはミズノ。2007年、ワールドカップに出場。「プリンス・オブ・ニッポンバレー」というキャッチコピーが用いられた。2008年8月、北京オリンピックに出場し、1次リーグA組第3戦目の中国戦にて、左膝の半月板を断裂。翌々日の第4戦目、ベネズエラ戦に出場するも第3セットで途中交代。第5戦目アメリカ戦は出場を見合わせ、その後、帰国し手術が行われた。2009年7月、イタリア2部リーグ(セリエA2)のパッラヴォーロ・パドヴァ(現・Fidia Padova)へ完全移籍した。 同じ年のグラチャンは、左膝半月板再断裂のため出場せず。これは2009年10月9日の練習中に膝をひねった事が原因とのこと。2010年4月、イタリア2部リーグ(セリエA2)8位にてシーズン終了。同年9月、イタリアで行われた世界選手権(世界バレー)に出場し、2次ラウンド(13位)で終了した。2011年4月3日、イタリア2部リーグ(セリエA2)2位にてレギュラーラウンド終了。プレーオフへ進出。同年5月11日、イタリア2部リーグ(セリエA2)プレーオフ・ファイナル第3戦にて、サンタクローチェ(NGM MOBILE S.CROCE)に3-2で勝利し、所属チームPhyto Performance Padovaは来シーズンのA1昇格が決定した。同年7月、2011/12シーズンの所属が決定。イタリア1部リーグ(セリエA1) 「Fidia Padova」で、日本人5人目となるA1プレーヤーとなる2012年1月5日のローマ(M. Roma Volley)戦では、リベロとして全セット出場。しかし2011年のワールドカップのメンバーからは外れ、2012年3月30日発表の2012年度全日本男子チーム登録メンバー27名には入っていたが、5月16日発表の登録メンバー20名、5月31日発表の最終登録メンバー12名には選出されなかった。2012年7月、サントリーサンバーズへの復帰が発表された。2013年7月、サントリー退団が発表され、8月5日にJTサンダーズに移籍した。同年11月のグラチャンバレーに出場。4戦目のイタリア戦では、全日本主将の山村宏太がベンチメンバー(エントリーメンバー14人のうち各試合12人)から外れたため、越川が代わりに、キャプテンマークが付いた17番のユニフォームで試合に臨んだ。2013/14Vプレミアリーグにおいて、Vリーグ歴代1位となるサーブ効果率21.1%を記録し、さらに最多得点部門でも日本人選手歴代1位となる532点をたたき出すなど、JTの10年ぶり準優勝に大きく貢献し敢闘賞及びベスト6賞・サーブ賞の栄に浴した。2014/15Vプレミアリーグにおいて、JT悲願の初優勝の原動力となり、MVPを獲得した。破壊力抜群の高速ジャンプサーブ、最高到達点347cmの高さを生かした強烈なスパイクが武器である。以前はサーブレシーブを苦手にしていたが、イタリア・セリエAではサーブレシーブを任される(リベロとして出場したことも)などかなり改善された。父親(星稜高校バレー部出身で国体出場経験あり、母親もクラブチームで全国を経験)譲りの、車好き(家に自動車専門誌があったり一緒に輸入車ショーに行ったり)だった。しかし、所属していたサントリーサンバーズでは当時、「25歳まで車を買ってはいけない」という内規があったという。電車・バスなど他の乗り物も好きで、将来の夢はパイロットだった。2013年7月に結婚。Vプレミアリーグレギュラーラウンドにおける個人成績は下記の通り。
出典:wikipedia
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