東京優駿(とうきょうゆうしゅん)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。正賞は内閣総理大臣賞・日本馬主協会連合会会長賞・東京馬主協会賞、朝日新聞社賞(騎手賞)。1932年(昭和7年)にイギリスの「ダービーステークス」を範として、目黒競馬場にて創設。後に創設された皐月賞・菊花賞とともに「三冠競走」を構成するほか、4歳(現3歳)牝馬による桜花賞・優駿牝馬(オークス)を含めて「クラシック競走」とも総称される。第3回より施行場を現・東京競馬場(府中)に変更したほかは、開催地・距離ともに変更されていない。本競走を優勝することは、日本の競馬に関わる全ての関係者(ホースマン)が憧れる最高の栄誉とされている。距離は第1回から2400米(≒ 1mi 4 f)である。一般的には副称の「日本ダービー」が知られている。この「ダービー(Derby)」は1780年にイギリスでダービーステークスを創設した第12代ダービー卿のエドワード・スミス・スタンレーに由来し、現在は「競馬の祭典」として競馬ファン以外にも広く知れ渡っている。1973年(昭和48年)までは日本国内の最高賞金競走だった。その後はジャパンカップ・有馬記念に次ぐ賞金額だったが、2013年に1着賞金が2億円に引き上げられ、有馬記念と同額になったが、2016年からは有馬記念の1着賞金が3億円に増額されたため、再び国内3番目の高額賞金競走となった。なお、2014年度からは「ダービー馬連」と題して、当競走を含む当該週の中央競馬開催全競走を対象に、馬番連勝複式の勝ち馬投票券の5%相当額を、払戻金に還元するキャンペーンを行っている。1950年より「(日本ダービー)」の副称が付けられている。東京日日新聞(毎日新聞の前身)や読売新聞では1932年(昭和7年)の第一回から日本ダービーの名称が使われている。1932年(昭和7年)4月25日の東京日日新聞3面では記事見出しで『日本ダービー 晴れの駿馬十九頭』と書き、読売新聞では昭和7年以降の記事見出しで日本ダービーの呼称はたくさん使っている。逆に朝日新聞では1949年までは記事見出しには日本ダービーの呼称は使っていない。JRAが配布するレーシングプログラムや競馬新聞などでは1950年(昭和25年)以降、「東京優駿(第〜回日本ダービー)」または「東京優駿(日本ダービー)」と表記されている。一般紙では知名度の高い副称を前面に出し、「日本ダービー(東京優駿)」とも表記される。皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、菊花賞は「最も強い馬が勝つ」といわれるのに対し、本競走は「最も幸運に恵まれた馬が勝つ」といわれる。日本の競馬における本競走の位置づけは特別で、創設期には国内に比肩のない大競走であり、その後競走体系の整備が進むにつれて「二大競走」「五大競走」「八大競走」等と称されてきたが、常にその中核をなし国内での最高賞金競走となっていた。後に創設されたジャパンカップに国内最高賞金は譲ったが、2016年(平成28年)現在は日本ではジャパンカップ、有馬記念に次いで3番目の高額賞金競走である。競走の格付も1984年(昭和59年)のグレード制導入当初から最高の「GI」に格付けされたが、専ら外国の馬に対する出走制限を理由に国際統一規格に基づく格付から外れ、格付表記も国内ローカル扱いの「JpnI」と改められた。その後、2010年(平成22年)から外国調教馬も出走可能な国際競走となったことで正式に国際格付が認められ、格付表記も「GI」に戻された。近年は本競走を頂点とする従来の国内の競走体系から様々な距離体系などカテゴリーごとにチャンピオンを選別する体系に遷移しており、必ずしも全ての競走馬が本競走を目指すという状況は薄まりつつある。しかし、1年間の競馬を象徴するときにもしばしば本競走の優勝馬が挙げられるように、日本競馬界の象徴であり最大級の目標であるという点については創設以来の価値を保っている。世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準委員会(ICSC)によってパートIからパートIVまでランク分けされており、2016年時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている。また、各国の主要な競走は国際的な統一判断基準で評価されており、競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、東京優駿(日本ダービー)は「Long(2101m - 2700m)」に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した2012年(平成24年)から2014年(平成26年)の年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、東京優駿(日本ダービー)は全体の63位にランキングされた。「Long(2101m - 2700m)」のカテゴリーからランクインした外国の競走との比較では、ジョーハーシュ・ターフクラシック招待(57位)に次ぐ評価となっている。以下の内容は、2016年現在のもの。出走資格:サラ系3歳牡馬・牝馬(出走可能頭数:最大18頭)負担重量:定量(牡馬57kg、牝馬55kg)未勝利馬(収得賞金が0の馬)に出走権はないものの、青葉賞およびプリンシパルステークスで優先出走権を得た場合は東京優駿の出走資格を得る。出馬投票を行った馬のうち優先出走権のある馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金が多い順に出走できる。なお、出馬投票の結果同順位の馬が多数おり出走可能頭数を超過した場合は、抽選で出走馬を決める。出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる。JRA所属馬は同年に行われる下表のトライアル競走で所定の成績を収めた馬に、優先出走権が与えられる。地方競馬所属馬は上記のトライアル競走で所定の成績を収めた馬、および京都新聞杯の2着以内馬に優先出走権が与えられ、NHKマイルカップの2着以内馬、またはJRAで行われる芝の3歳重賞競走優勝馬も出走申し込みが可能となっている。2016年の1着賞金は2億円で、以下2着8000万円、3着5000万円、4着3000万円、5着2000万円。1着賞金の2億円は、ジャパンカップ、有馬記念の3億円に次いで、日本の競馬では3番目の高額賞金競走である。優勝騎手(JRA所属騎手に限る)には2015年に新設されたワールドオールスタージョッキーズへの優先出場権が与えられる。日露戦争で内外の軍馬の性能差を痛感した政府によって国内では産馬育成が奨励されたが、1908年(明治41年)に馬券の発売が禁止されると馬産地は空前の大不況に見舞われた。大正時代中期より産馬業者から東京競馬倶楽部会長の安田伊左衛門に対し「イギリスのクラシック競走であるダービーステークスのような高額賞金の大競走を設けて馬産の奨励をしてほしい」という意見があり、予てからの自身の構想と合致すると考えた安田は馬産の衰退を食い止める手段としてイギリスのエプソム競馬場のダービーステークスを範し、という7つの原則のもと、4歳(現3歳)牡馬・牝馬限定の「東京優駿大競走」を創設することを1930年(昭和5年)4月24日に発表、初回登録は同年10月に行われ、牡92頭・牝76頭の計168頭が登録。第1回は1932年(昭和7年)4月24日に目黒競馬場(東京競馬場の前身)の芝2400mで施行された。第1回の競走の模様は発走前の下見所の様子から本馬場入場、表彰式に至るまで全国へラジオ中継された。優勝馬の賞金は1万円、副賞として1500円相当の金杯のほか付加賞13530円が与えられ合計で2万5000円ほどとなった。従来の国内最高の賞金が連合二哩の6000円であったから賞金の額も飛び抜けて破格であり、折からの好景気も相まって幼駒の取引価格が跳ね上がった。また、それまで日本国内では競走馬の年齢を出走資格に定めた競走の開催は限定的であり2歳(現1歳)からの定期的な登録を要件とする本競走の創設によって国内における競走馬の生産、育成、競走と種馬(牡牝とも)選抜のサイクルに初めて明確な指針が与えられた。優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記で揃えている。コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。競走名は第6回まで「東京優駿大競走」、第7回 - 第14回は「東京優駿(第13回のみ能力検定競走として施行)」、第15回・第16回は「優駿競走」、第17回 - 第30回は「東京優駿競走」(「日本ダービー」の副称を付ける)、第31回より「東京優駿(日本ダービー)」。
出典:wikipedia
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