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風神ライカ

ライカ(1976年1月24日 - )は、日本の女性キックボクサー、総合格闘家、元プロボクサー。本名は来家 恵美子(らいか えみこ)。OPBF東洋太平洋女子ライト級王者。世界王座三階級制覇を達成し、女子の試合を日本ボクシングコミッション(JBC)に公認させるまでに隆盛させた大きな功績を持つ。風神ライカのリングネームはJBC引退と同時にライカに変更した。日本での女子プロボクシングの礎を築いた。京都府出身。マネージメント事務所はVAGABOND INC.京都府立農芸高等学校、大垣女子短期大学卒。旧リングネームは「ライカ」。なお、ライカという名は本名(苗字)と、伝説の女子ボクサー「ルシア・ライカ」にあやかって付けられた。2009年まで山木ジム(現アルファボクシングジム)に所属。この時期にスーパーライト級(IFBA)、ライト級(WIBA)、フェザー級(WIBA)の世界王座三階級を制覇した。JBC公認後は竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムに移籍し、東洋太平洋王座を獲得した。事情あって両親に育てられることがなかった。そのため1979年から高校卒業まで児童養護施設で育つ。短大では、工場で働きながら歯科衛生士を取得。卒業後歯科衛生士として京都府内の歯科医に勤務。高校時代に、漫画「はじめの一歩」を読んでボクサーに憧れるものの、社会人になるまで何かしていたわけではなかった。1998年8月に地元京都のB・BOXジム(現WOZボクシングジム)に入門。アマチュアとしてデビューした。1999年の全日本アマチュアでは最優秀選手に選ばれた。1999年、JWBC設立を受け東京に移住。山木ジムに移籍。同ジムはチャンピオン候補生として生活費込みで面倒を見続けた。2000年5月8日、JWBC興行にてプロデビューを白星で飾る。リングネームはライカ。北沢タウンホールで大沼慶子を2RTKOで下す。このころから畑山隆則の指導を受けるようになる。2002年1月、自伝「私は「居場所」を見つけたい」を新潮社から刊行。2002年2月3日、北沢タウンホールで行われた「JWBCダブルタイトルマッチ Fighting Girls Part1」に出場。日本初代女子フェザー級王座決定戦で菊川未紀(フェザー級2位)を10R判定3-0で下し初代女子フェザー級王者となった。2002年4月29日には初国際戦を経験。現役世界王者のレイラ・マッカーター(アメリカ / IFBA世界フェザー級王者)と対戦し、0-2の判定負け。プロ初黒星となった。2002年9月7日ディファ有明初の女子ボクシング興行、ベネット・ローレン(オーストラリア / WIBA同級世界5位)と対戦。2R0分27秒でセコンドがタオル投入したためTKOで勝利。2002年12月18日、代々木競技場第2体育館で行われたWIBA世界フェザー級タイトルマッチ(2分10R)で、シャロン・アニオス(オーストラリア)に挑戦。10R判定2-1で辛くも世界王座を獲得した。2003年11月30日に初防衛戦を行い、前王者シャロン・アニオス(同級1位)と再戦。10R判定2-0で下し、世界王座の初防衛に成功。2004年5月23日、六本木ヴェルファーレで、シェルビー・ウォーカー(アメリカ)を相手に2度目の防衛戦を行い、2RTKOで防衛に成功。2004年9月18日、京都府立体育館で、(アメリカ / 同級世界4位)を10R判定3-0で下し3度目の防衛に成功。その後、タイトルを返上し1階級上のスーパーフェザー級に転向。2005年3月13日に六本木ヴェルファーレで行われたWIBA世界スーパーフェザー級王座決定戦に出場。チーベル・ホールバック(アメリカ / 同級世界2位)に10R判定0-3で負け王座獲得に失敗した。さらに2階級上げると、2006年5月20日に韓国全羅北道井邑市の井邑国民体育センターで行われたIFBA世界スーパーライト級王座決定戦に出場。ジュン・ウォンミン(韓国)に3-0で判定勝ちし、新王者となった。2006年12月15日、新宿FACEの「女拳闘士・最強祭」にてテリー・ブレアー(アメリカ)とのWIBA世界ライト級王座決定戦に臨み3-0の判定勝利、三階級制覇を成し遂げた。2006年12月、WBCFスーパーフェザー級2位となった。2007年4月13日、カナダアルバータ州エドモントンにて、ジェレーナ・ムルジェノビッチとのWBCFスーパーフェザー級選手権試合に挑むが、大差の判定負けを喫した。2007年11月10日、自主興行「風神見参 ライカタイフーン」を新宿FACEで開催し、WBC女子世界ライト級王者アン・マリー・サクラートとWIBA世界ライト級防衛戦を行う。2分10Rを戦い抜き、2-0の判定勝ち。この興行のポスターは、「はじめの一歩」作者の森川ジョージが描いた。サクラートはこの敗戦がきっかけで保持していたWBC王座を剥奪された。2008年2月28日に行われたJBCプロテストを受験し合格。なお、JBCでは名だけのリングネームは認められないため、自主興行の興行名「風神」を入れて「風神ライカ」にリングネームを改めた。2008年5月9日、後楽園ホールで行われた女子プロボクシング立上げ記念興行「G Legend」ではメインイベントに抜擢され、アマチュア世界選手権銀メダリストでプロ無敗のナタリー・ブラウンと対戦。判定勝ちを収めた。2008年8月11日、後楽園ホールにて、剥奪により空位となっていたWBC女子世界ライト級をかけてサクラートと再戦を行ったが、大差の判定負けで王座奪取はならなかった。それに伴いWIBA同級王座も剥奪された。2009年3月3日、オリビア・ペレイラ・ゲルーラとの再起戦に挑んだが、スプリットデシジョンで敗れた(ゲルーラは次の試合でWBC世界王座を獲得)。2009年6月17日、竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムに移籍。2009年7月3日、WBA・GBU女子ライト級王座に挑戦(ラスベガス)。王者レイラ・マッカーターは、プロ初黒星を許した相手であったが、再度0-3の判定負けを喫した(このうちGBUはJBC未公認タイトルである)。2009年12月6日、大阪でパンチップ・ムアン・ウボンを4回KOで退け再起に成功。2010年4月1日、ラムドゥアン・サイカムを3回KOで退けJBC公認および移籍後初の連勝。2010年9月24日、ブロンウィン・ウィリーに判定勝ちを収め、OPBF東洋太平洋女子ライト級初代王者となった。女子の試合がJBC公認されてから彼女にとって初の戴冠となった。2011年4月4日、OPBF女子スーパーフェザー級王者水谷智佳とのノンタイトル8回戦に挑み、4RKO勝利。2011年9月22日、WBC女子同級王座挑戦者決定戦として因縁のジェレーナ・ムルジェノビッチと約4年半ぶりの対戦。しかし判定で敗れる。2012年3月22日、後楽園ホールでのフラッシュ赤羽興行(東洋太平洋スーパーミドル級タイトルマッチ清田祐三VS松本晋太郎)にて、WBA女子世界ライト級王者エリカ・ファリアスとエキシビション。2013年8月15日、韓国・ソウルにて元WBA世界フェザー級王者崔賢美とのWBA女子世界スーパーフェザー暫定王座決定戦に挑んだが、0-3判定でまたしても王座を逃した。この試合後に引退勧告を受け、年明けて38歳の誕生日翌日の2014年1月25日にブログ上で引退表明。アマチュア時代から15年に及ぶボクシング生活に幕を下ろした。現在は前職の歯科衛生士に復職し、並行してキックボクシングや総合格闘技のトレーニングに励み格闘家への転向を目指している。2014年8月3日、ゴールドジムサウス東京アネックスで開かれたアマチュアキックボクシング大会「KAMINARIMON」にエントリーし、3-0の判定で勝利。2014年11月16日、後楽園ホールでの「RISE 102」におけるCruSher松川敬子戦でプロキックボクサーデビュー。なお、この試合よりリングネームは「ライカ」とする。2014年9月12日、ソウルにてイム・スジョン相手に総合格闘技デビュー、しかし0-3の判定負け。この時はボクサー時代の「風神ライカ」で出場した。2014年12月31日、さいたまスーパーアリーナで杉山しずかと対戦しアームバーで負けた。2016年7月24日、ディファ有明で中井りんと対戦して肘打ちでTKO負けした。

出典:wikipedia

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