晴海(はるみ)は、東京都中央区にある地名。明治中期から昭和初期にかけて行われた東京湾澪浚(みおさらい)工事および隅田川口改良工事でその大部分が完成した埋立地で、地名が命名される前は月島4号地と呼ばれた。晴海は、1940年に開催予定だった紀元2600年記念日本万国博覧会の開催地として整備された後、かつて東京モーターショーやコミックマーケット、エレクトロニクスショー(当時)など、多くの見本市やイベントが開催されていた東京国際見本市会場があった場所として知られるとともに、日本住宅公団(当時)が建設した晴海団地をはじめとする集合住宅が多数建築された。1996年(平成8年)に東京国際見本市会場が閉場し、晴海1丁目地区が再開発されると、晴海アイランドトリトンスクエアの大型商業施設をはじめ、多くの高層ビルやマンションがオフィスビルの建設による再整備が行われるようになった。2000年(平成12年)には都営地下鉄大江戸線が開通したことにより、勝どき駅、月島駅が交通拠点として加わり、それまで鉄道駅から遠く離れていた晴海の交通環境は大きく改善された。その一方で町域全体としては、勝どき駅とオフィス棟の歩行者数に対し、晴海通り北東側歩道の容量は決定的に不足したままである。ただし、2016年東京オリンピック構想(下記参照)では、スタジアムと鉄道駅の遠さが難点として指摘された(下記参照)。2010年(平成22年)、中央区独自の銀座 - 晴海間の路面電車 (LRT) 敷設方針が示され、2020年の東京オリンピック開催が決まったことにより、LRT計画の進展やゆりかもめの延伸が期待されている。晴海にある晴海埠頭は南極観測船が出入港する岸壁としても知られ、晴海客船ターミナル付近には世界の客船が接岸するなど、東京の国際的な海上旅客交通の玄関口となっている。晴海埠頭は、埋め立て完成後も長く南西岸(形状的には湾口に向いた短辺)は砂浜のまま放置され、南東岸(豊洲向き)春海橋までと北西岸の黎明橋までが岸壁として供用されていた。砂浜状の晴海埠頭は、1960年(昭和35年)の映画『秋立ちぬ』に見ることができる。2006年(平成18年)には晴海大橋が完成し、晴海通りが再開発の進む江東区豊洲や同・有明などの湾岸地区まで延伸された。「世界一コンパクトで高密度な大会」をスローガンとし、東京都が招致運動を続けてきた2016年夏季オリンピック構想ではメインスタジアムとなる東京オリンピックスタジアムは晴海5丁目に建設が予定されていたが、2009年10月に2016年大会はリオデジャネイロオリンピックと決まって東京への誘致が失敗したため、同スタジアムが建設されることはなかった。その後、誘致が成功した2020年に開催される東京オリンピックでは、晴海5丁目を選手村予定地としている。埋立竣工後、当初晴海では1940年(昭和15年)に日本万国博覧会の開催が計画された。しかし太平洋戦争間近の時期でもあり、軍事的な理由により突然開催が中止となった。戦後、一部の土地は米軍の接収を経て、日本住宅公団(現・都市再生機構)などに集合住宅の建設用地として提供され、また小野田セメント(現・太平洋セメント)や日本通運など、主に港湾・物流などに関連する企業へ事業用地として売却された。展示会場である東京国際見本市会場は1959年の開場以来30年以上使用された。当初は「貿易センター」と呼ばれており、東京モーターショーなど見本市の開催数も限定的であった。貿易センターでは1970年代初頭まで、夏には屋外プール、冬にはドーム館において屋内スケートリンクの営業を行っていた。1970年代になるまでは会場周辺には空き地がかなり残っていたが、多くの見本市が開催されるようになるに従って会場の拡張が繰り返され、周辺の整備が進んだ。1970年代にはホテル浦島(2003年閉鎖・現在の晴海センタービルの場所)やデン晴海(現・晴海グランドホテル)、1980年代にはホテルマリナーズコート東京などのホテルが建設された。晴海は銀座から2km強という距離にありながら公共交通手段に乏しく、地下鉄有楽町線が1988年(昭和63年)に新木場駅まで延長され月島駅が開業するまでは、この地への主な公共交通手段は都営バスのみであった。晴海には国鉄越中島支線につながる東京都港湾局専用線が、越中島貨物駅から単線非電化で晴海埠頭まで敷設されていたが、貨物列車のみの運行であった(1989年2月10日廃止)。晴海へのアクセスは道路交通のみであったために、東京モーターショーやビジネスショウなど大規模なイベントが開かれた際には、築地市場周辺が交通のボトルネックになっていたこともあり、晴海通りは大渋滞となり、多くの人々が銀座方面まで徒歩で向かうなど、その交通の便の悪さは度々指摘されていた。その後、大規模な見本市の開催時には浜松町駅と晴海4丁目間に水上バスが運行され、来場客の輸送が行われた。1980年代後半からはバブル景気の追い風もあり、東京湾岸地域でのウォーターフロント計画が進み、新しい展示会場が千葉市の幕張や東京国際見本市会場の後継施設である東京ビッグサイトが有明に開設された。それに伴い晴海は施設の老朽化や交通の便の悪さから見本市会場としての役割を終えるとともに、老朽化が進んでいた晴海1丁目地区の晴海団地およびその周辺が再開発されることとなり、晴海はビジネス街と高層マンション群の町へと変貌を遂げることとなった。その他にも晴海には、東京鰹節類卸商業協同組合が運営する東京鰹節センターあって鰹節の取引きが行われており、かつては住宅展示場や家具組合の大型ショールームであるジャパン・ファニチャーセンターなどもあった。見本市会場跡地にはカー用品の大型店舗であるオートウェーブがあったが、設備の老朽化を理由に後年閉鎖された。晴海には当初月島にあった学校や公共施設が移設されたため、また、晴海は当初月島4号地と呼ばれたことから、晴海にありながら月島という名前を冠する学校や公共施設がある。また、現在ある東京都立晴海総合高等学校と首都大学東京晴海キャンパスは、都立京橋高等学校、都立京橋商業高等学校、および都立商科短期大学の跡地に建設された。有楽町線が新木場駅まで延伸した1988年(昭和63年)からは、東京湾大華火祭が毎年夏に開催されるようになった。晴海の開発は時代の先端を歩んで来た歴史がある。戦前には1,600坪の大きさを誇った日本万国博覧会の事務局建物が建築され、戦後に開発された晴海団地には、日本の高層住宅の将来像への試金石と言われた前川國男の設計による晴海高層アパートが建築された。 その後平成には最初の50階建て超高層マンションが建設された。
出典:wikipedia
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