サー・スターリング・クロフォード・モス(Sir Stirling Craufurd Moss, OBE 1929年9月17日 - )は、1950年代に活躍したイギリスの元レーシングドライバーである。歴代の中でもトップドライバーに数えられる実力を持ちながら、結局一度もチャンピオンになることはなかった。「世界チャンピオンにならなかった最も偉大なドライバー」と評され、日本語では「無冠の帝王」と称される。F1世界選手権開幕戦となった1950年イギリスGPの前座レースで、最終ラップにエンジンを壊しながらも2位に入賞。イギリス勢が著しく振るわなかったレースウィークにおける数少ない喜ばしい話題として、多くのメディアに取り上げられ、イギリス国内で注目を浴び始めた。開幕戦スイスGPにおいて、HWMからF1デビューし8位で完走。その後、までは散発的なスポット参戦が多く、また恵まれないマシンで苦戦していたため、入賞はなかった。はグランプリに復帰するメルセデスにシートを求めたが、実績不足を理由に断られた。第3戦ベルギーGPよりマセラティのプライベーターとして出走し3位を獲得。この年の入賞はこれのみだったが、第5戦イギリスGPでは初ファステストラップ(以下:FL)を記録。イタリアGPではリタイアするまでトップを快走するなど才能を開花させ、一躍トップドライバーとなった。はメルセデスに招かれてワークスチーム入りを果たし、エースドライバーのファン・マヌエル・ファンジオに次ぐポジションを確立する。第4戦ベルギーGP・第5戦オランダGPと連続で2位フィニッシュした後、第6戦イギリスGPでは初のポールポジション(以下:PP)を獲得。決勝でもファンジオの追走を制し、地元でF1初優勝を達成した。ポールトゥーウィンであることに加えてFLも記録し、モスづくしのレースとなった。最終的に、ファンジオに次ぐランキング2位でシーズンを終えている。この年はスポーツカー世界選手権でもメルセデス・ベンツ・300SLRを駆り、メルセデスのマニュファクチャラーズチャンピオン獲得に貢献した。ミッレミリアでは平均速度新記録を樹立して優勝。モス自身、この勝利をレースキャリアのベストに選んでいる。メルセデスの活動休止によりマセラティに舞い戻ったも活躍し、2勝・1PP・3FLを記録。最終戦イタリアGPでの勝利により、ランキングでピーター・コリンズを上回り、ファンジオに次ぐ2位に浮上した。は開幕戦アルゼンチンGPのみマセラティから出走し、その後ヴァンウォールに移籍。前半は結果を残せなかったものの、後半は4戦中3勝を記録。第5戦イギリスGPではトニー・ブルックスとマシンをシェアして優勝し、イギリス製マシンのF1初勝利を記録した。他にも1PP・2FLを記録し、3年連続でファンジオに次ぐランキング2位となった。1958年もヴァンウォールからの出走だったが、開幕戦アルゼンチンGPのみロブ・ウォーカー・レーシング・チームから急遽参戦。ミッドシップレイアウトのクーパー・クライマックスは当時の一流チームと比べエンジン性能が劣っている上、フロントエンジンレイアウトが主流の時代故に珍車的扱いだったが、タイヤ無交換作戦が決まり2位と2.7秒差で優勝した。前年暮に開催が決定したためワークスチームはフェラーリ、マセラティだけと手薄だった事にも助けられたが、ミッドシップF1マシンの初優勝を記録した。この年は、ファンジオが2戦に出走したのみで引退し、モスとフェラーリのマイク・ホーソーンの間で激しいチャンピオン争いが行われた。第9戦ポルトガルGPではモスが優勝し、ホーソーンが2位であったが「レース中ホーソーンがコースアウトした際にコースを2-3m逆走した」と誰かが異議を申し立てた。モスは「ホーソーンが自動車を押していたのはコース外であった」と競技委員に証言し、異議は却下されてホーソーンの2位復活が認められ、ホーソーンは結果から見れば決定的なポイントを得た。最終的にモスは4勝を挙げたが、1勝のホーソーンに1ポイント差で敗れ、イギリス人初のF1ワールドチャンピオンの栄誉を譲ることになった。これにより、4年連続でランキングは2位となった。堅実にポイントを稼いたホーソーンに対し、モスはリタイヤが多く、またFLでもホーソーンの5度に対し3度と下回っていた。PPは3度だった。ヴァンウォールの撤退後はワークスチームに所属せず、プライベーターのロブ・ウォーカー・レーシング・チームと契約した。トップレベルとは言いがたいマシンでワークスチームに挑み、勝利を飾るモスの姿は、観衆から大きな支持を得たという。はロブ・ウォーカー(マシンはクーパー)の他、父親のアルフレッド・モスとマネージャーのケン・グレゴリーが設立したブリティッシュ・レーシング・パートナーシップ (BRP) からも3戦出場した(マシンはBRM)。開幕戦モナコGPにて、PPからトップ走行中、トラブルにより残り約20周でストップ。これも含め前半戦は未勝利だったが、第7戦ポルトガルGP・第8戦イタリアGPと2連続ポール・トゥー・ウィンを飾り、ワークスクーパーのジャック・ブラバムを猛追。最終戦アメリカGPを残した時点でランク2位につけ、チャンピオンのチャンスも残っていた。しかしアメリカGPでは、PPからトップ走行中の6周目に、トランスミッショントラブルでリタイヤ。トニー・ブルックスにも抜かれ、ランクは3位に終わった。この年は実質8戦中、2勝以外に2位を1度記録したが、他はリタイヤ4回・失格1回と、前年まで見られた傾向は変わっていなかった。他に、PP・FLを共に4回獲得している。はロブ・ウォーカーより、ロータス・18を使用して参戦。第2戦モナコGPではロータスのコンストラクター初勝利を達成した。しかし、第5戦ベルギーGPの予選中にクラッシュで両足を骨折。タイムは3位ながら決勝の走行は出来ず、3戦欠場を余儀なくされた。しかし、復帰後に最終戦アメリカGPで優勝。シーズンの半分近くは欠場という状況ながら、2勝・4PP・2FLを記録し、ランキングではブラバム、ブルース・マクラーレンに次ぐ3位に入った。は開幕戦モナコGPでPPを獲得。決勝でもフェラーリ勢2台の猛追を予選記録を上回るペースで退け、リッチー・ギンザーに3秒差をつけて勝利した。旧型のロータス・18/21でこの年の最強マシンであるフェラーリ・156F1を相手にしての快勝劇は、モス自身F1でのベストレースに挙げている。第6戦ドイツGPでは、雨に賭けたタイヤ選択が成功して優勝した。この年、フェラーリが参加したレースで優勝を奪えたのはモスのみだった。ランキングは1959年から3年連続の3位となった。全8戦中、2勝以外は4位1回のみと、リタイヤの多さが見られた。その他、ファーガソンの四輪駆動マシン(も参照)で非選手権レースの「インターナショナル・ゴールド・カップ」に出場して優勝。これはF1レースにおいて4駆車が記録した唯一の勝利である。1962年3月23日、セブリング・インターナショナル・レースウェイで行なわれた12時間耐久レースでペドロ・ロドリゲス、スティーブ・マックイーン、イネス・アイルランドと共にチームを組んで参戦。その前座で行なわれた1000cc以下の車に限定された3時間耐久レースではオースチン・ヒーレースプライトMk.2にも乗っていた。しかし、その直後、シーズン開幕前にグッドウッドで行われた非選手権レース「グローヴァー・トロフィー」に出場したが、芝の斜面に激突して頭部に重傷を負い、昏睡状態に陥る。1ヵ月後に意識が回復したが、半年間は麻痺が残った。事故から1年後の1963年、怪我の回復をみてテスト走行を行ったが、精神面で集中しきれないことを悟り、全盛期の32歳にして現役引退を決意した。モスは後に引退の決断が早すぎたとも認めている。その後、1980年に現役復帰し、イギリスツーリングカー選手権 (BTCC) にアウディより参戦。以後もヒストリックカーレースに定期的に出場した。1990年に国際モータースポーツ殿堂入り。2000年にはモータースポーツの発展に貢献したとして「ナイト」の称号が与えられた。2010年3月、モスは自宅内でエレベーターに乗ろうとした際に誤ってホールに転落し、両足骨折の重傷を負ったと報じられた。2011年6月9日、81歳のモスは正式にモーターレーシングから引退することを自身のウェブサイト上で公表した。引退後も、F1に何かしらの動向があれば度々コメントを発している。辛口な意見が掲載されることも多い。Stirling Moss - 公式サイト(英語)
出典:wikipedia
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