


ドラァグクイーン()は、男性が女性の姿で行うパフォーマンスの一種。ドラァグクイーンの起源は、男性の同性愛者が性的指向の違いを超えるための手段として、ドレスやハイヒールなどの派手な衣裳を身にまとい、厚化粧に大仰な態度をすることで、男性が理想像として求める「女性の性」を過剰に演出したことにあるといわれる。本来はサブカルチャーとしてのゲイ文化の一環として生まれた異性装の一つであるため、ドラァグクイーンには男性の同性愛者や両性愛者が圧倒的に多い。しかし近年では男性の異性愛者や女性がこれを行うこともある。また趣味としてこれを行う者からプロのパフォーマーとして活躍する者まで、ドラァグクイーンの層も厚くなっている。MtF のトランスジェンダー(肉体は男だが心は女である人)が女物の服を着るのは「女性になる」または「女性として見られる」ことが目的であるのに対し、ドラァグクイーンのそれは「女性のパロディ」あるいは「女性の性を遊ぶ」ことを目的としている点が大きく異なる。英語の が「女装した男性」を意味するようになったのには三つの説がある。なお という成語の初出は1941年である。英語の「」を片仮名表記するとき、標準的な転記法に則って「ドラッグ」とする場合もあるが、LGBTのメディアでは通常「ドラァグ」という表記をすることが多い。これは が (ドラッグ、違法薬物)に関係あるかのように誤解されないよう、あえて差別化しているのがその理由である。日本で最初にこの「」を「ドラァグ」と表記することを提唱したのは、元『』編集長の「マーガレット」こと小倉東であると言われている。またこれ以前から独自のドラァグ文化が存在した主に関西方面では、今日でも「ドラッグ」と表記することが多い。以下本記事では便宜上、関東関西を問わず「ドラァグ」を使う。歌舞伎の女形の伝統がある日本では古くから男性が女装して人前で芸を披露する伝統があった。また畿内では女舞が主体である上方舞の伝統が根ざしており、そうした中からは人間国宝・吉村雄輝のような舞手も出ている。この吉村の一人息子が1969年『薔薇の葬列』で衝撃的なデビューをしたピーター(池畑慎之介)である。ピーターはデビュー後しばらくは女装でさまざまな芸能活動を行ったが、一歩カメラの前を離れると通常は男装または中性装(ただし派手なものだったが)で、しかも自らのセクシュアリティを一切芸の中には持ち込まなかった。この点で途中から常時女装になり同性愛者を公言していた美輪明宏などとは一線を画していた。このような背景を下地に、既成の「芸能人ドラァグ」には飽き足らなくなった一般の人々が、この新しい分野の芸を自ら体現してみせるようになり始めたのは、時代が下って1980年代、クラブやショーパブでドラァグクイーンショーで注目を集めたニューハーフとは一線を画する日出郎がメディアに登場したのは、いわゆるバブル全盛の時代のことだった。日本におけるドラァグクイーン第一号は、ミス・グロリアスだと言われている。ミス・グロリアスは90年代初頭から京都を拠点にしてドラァグを広めていく。同じ頃、東京ではマーガレットこと小倉東がアメリカのゲイ文化としてのドラァグを紹介していた。そして関西ではシモーヌ深雪率いる「」というクラブイベント、関東では「」という伝説的クラブでドラァグを行う者が多く現れ始めた。その中にはテクノポップを歌う日出郎やJINCOママやKEIKOママがいてマドンナやユーミンを熱唱した。因みに「Badi」(1998年5月号)「同じゲイなら踊らにゃソンソン」には、「ドラァグ・ショウの誕生はゴールドから」「日本のクラブでのドラァグクイーン文化はミス・ユニバースコンテストから」とあり、ゴールドのフライヤーやミス・ユニバースコンテストの写真が掲載されている。この頃のドラァグには、関西と関東でその毛色に違いがあった。関西では主にレヴュースタイルやアート的な要素が強く、一方の関東ではクラブの盛り上げとしてパーティ的、あるいはミスコン的なお祭り騒ぎであるものが主流であった。90年代半ばになると、日本を拠点としていたドラァグクイーンが海外のショーにも出演するようになり、ニューヨークにあるLucky Cheng's(605 W 48th St, New York, NY)には、日本人ドラァグクイーンが在籍するようになった。しかし海外で活動していた日本人ドラァグクイーンの多くが、日本に帰国するとさまざまな理由から表舞台から去っていった。日本では、折しも映画『プリシラ』のヒットなどと共に1990年代のゲイブームが到来、ドラァグはゲイカルチャーになくてはならない存在となった。1990年代半ば以降はスーパーモデルばりにキレイなドラァグクィーンが主流になっていった。「歌モノハウス」が隆盛を極め、そのためクラブイベントでのドラァグは、洋楽女性のリップシンクや、お立ち台へのお供えが中心となっていった。その一方で、UC(アッパーキャンプ)と呼ばれる従来のドラァッグとは一線を画すドラァグが東京に現れ始める。UCの出現によりドラァグは、日本の女優をオマージュしたセクシャルなショーに変化。流行アイドルのリップシンクや、テレビドラマのパクリなど、ネタ色が強く、しかも誰もが知っているようなネタにより、これがファン層を広げることにもなった。関西のアート性、関東のパーティー美人性の持つ既存権威性に対してのアンチテーゼとしてのアイデンティティーを獲得するが、拡大するなかで、自スタイルが権威性を持つ事となり結果的に自家中毒を起こし、惜しまれる中で解散を迎える。黎明期は既存文化に対するアンチテーゼとしたレーゾンデートルをエネルギーに拡大してきたが、UCの解散後、不景気に重ね、ドラァグとしての存在意義を明確化できず、時代は迷走期を迎えることとなる。2000年代後半に入り、マツコ・デラックスや、ミッツ・マングローブが容姿のインパクトに加え、鋭い切れ味を持つご意見番的なオネェ系という存在で娯楽メディアでも大きな立場を担い始めた。女装家という呼称はミッツがメディア向けに言い始めたことがきっかけに広まっていった。2010年代に入り、マツコ・デラックスやミッツ・マングローブ、ブルボンヌにナジャ・グランディーバの人気や、かねてからのオネェ系のブームにより、様々なドラァグクイーンが女装家という枠で、主にバラエティ番組を通してメディアへ露出するようになった。その結果、オネェ系のひとつの形としてドラァグクイーンの存在が社会的に認知され始めた。
出典:wikipedia
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