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乙未事変

乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。韓国では閔妃の諡号を採って「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。1894年3月28日、閔氏政権によって開化派の中心人物金玉均が閔妃の刺客である洪鐘宇の回転式拳銃に暗殺された。そして5月31日、閔氏政権に不満をもつ農民が蜂起し、甲午農民戦争が勃発した。農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政権は宗主国清に軍の出動を要請。清の軍隊が朝鮮半島に駐留することを嫌った日本政府は、日本も朝鮮へ出兵することを決定した。閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。そのあいだ日本は閔氏政権に内政改革を求めたが、受け入れられず、日清戦争開戦を2日後にひかえた1894年7月23日、日本軍は景福宮を占領した。日本は閔氏政権と対立していた興宣大院君(高宗の父)の復権を行い、開化派の金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は日本の支援のもと、甲午改革を進めた。日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日、下関条約が締結された。その結果、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族はロシア公使カール・イバノビッチ・ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、1895年7月6日に政権を奪回した。下関条約からまだ3ヶ月も経過していなかった。日清戦争直後にロシア軍の力を背景に行った閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。こうした中で、日本公使三浦梧楼、軍事顧問岡本柳之助らは前年の王宮占領の再現を狙って、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされるが、一方で大院君が軍事顧問の岡本柳之助に再三に渡り密使を送っていたことや、10月6日に訓練隊を解散し隊長を厳罰に処すとする詮議がなされたことが漏れ伝わったことで激昂した訓練隊は大院君を奉じ決起することとなったという一次資料も存在している。ただしこの訓練隊の訓練は日本の指導であった事を三浦公使は述べており、その解散を告げられた時三浦公使の頭に、時期が切迫し一日も猶予を許さぬ、という考えが閃いたのだという。1895年10月8日午前三時、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された。この時、三浦らは大院君をかつぎだすため、屋敷から王宮へ参内させたが大院君がのらりくらりと時間を引き延ばしたため、事の露見を防ぐために夜明け前に行うはずだった作戦は破綻したとする説もある。なお、日本守備隊は鎮静化のため王宮の警備を行った、侍衛隊と訓練隊との衝突は軽微なものとなった、大院君の護衛に日本人が参加することなどについて三浦梧楼は黙認したなどとする日本側の記録もある。日清戦争が終わると、日本とロシアが朝鮮半島の支配権を争うことになった。日本側は大院君に接近し、これに対して閔妃は、日本人の影響下にあった訓練隊を解散しロシアの教官による侍衛隊に置き換えようとしたので日本公使館は危機感をもっていたのである。事件の背景には、興宣大院君と閔妃の権力闘争(大院君が閔氏一族によって摂政の座を追われた1873年の最初の失脚以来、20年以上にわたって凄惨な権力闘争を繰りひろげていた)、改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争、さらに朝鮮半島をめぐる日本の安全保障問題、日本と清の覇権争い、日清戦争後の日本とロシア帝国の覇権争いがあった。そのため、日本公使・三浦梧楼らの主導による親露派の閔妃を排除するためのクーデターとする説が日本における歴史研究のほとんどで採用されているとの見解があり、歴史事典の多くがこの説を明記している。朝鮮側の関与については、朝鮮王室内部クーデターに見せかける意図で興宣大院君や朝鮮の訓練隊が利用されたとする説の他、朝鮮側が首謀しているとする説や決定的証拠がなく不明とする見解が存在している(#朝鮮人首謀説参照)。事件直後に行われた朝鮮国内の裁判では、興宣大院君を事件の首謀者とする朝鮮王朝内の権力闘争としての判決が出ている。10月10日、日本政府は実情調査のため小村寿太郎外務省政務局長を京城に派遣。三浦は10月24日に免官処分が下され、小村が後任となった。また特派大使として井上馨が京城に派遣された。 三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らには帰朝命令が、日本人民間人には退韓が命ぜられた。軍人8人は第五師団の軍法会議にかけられ、三浦ら48名は謀殺罪等で起訴され、広島監獄未決に収監されたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放された。日本国内における裁判にあたっては、朝鮮政府(金弘集政権)が事件は朝鮮政府内部のもので大院君に責任があるとし、その内容で決着をさせようとする朝鮮政府(金弘集政権)からの意向が日本へ伝えられていた。事件発生時、京城領事館一等領事であった内田定槌は外務次官の原敬宛に事件関連の私信8通を送っており、閔妃を殺害したのが朝鮮人守備隊の陸軍少尉であること(10月8日付)、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」ため事件への日本人の関与を隠蔽する工作を行っていること(10月11日付)を報告している。また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日に木浦で釣りをしていたアリバイがあったとして、広島地裁検事局は免訴とした。朝鮮では閔妃暗殺の2日後(10月10日)、閔妃の死亡が一般に公表される前に大院君が閔妃の王后の地位を剥奪し、平民に落とす詔勅が公布される。なおこの時、閔妃の死亡はまだ公表されていない(その後、小村壽太郎の助言もあり、11月26日に再び王后閔氏に復位している)。朝鮮の裁判では、「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周会(前軍部協辨=次官)をはじめ、朴銑(日本公使館通訳)、尹錫禹(親衛隊副尉)の3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に処刑した。高宗は露館播遷後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した。史料によると高宗と純宗は殺害現場にいたことが記録されている。高宗は1906年、韓国統監代理・長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べており、また、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李斗璜(訓錬隊第一大隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、権濚鎮(当時警務使)の6名ついて、「王妃を殺害した張本人である」として処刑を勅命で命じている。殺害現場にいた純宗は、「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」と禹範善が「国母ノ仇」であることを目撃したと報告しており、また禹範善自身も「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」と自らが閔妃を殺害したと自白している。禹は、純宗が放ったとされる刺客、高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺され、1907年2月4日、広島控訴院で高永根は無期、魯允明は12年の刑が言い渡された。同年に統監府は趙羲淵以下六名を特赦することを決定したが、その際、純宗は「閔妃殺害の犯人である禹を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで初めて解決し、両国間数年の疑団も氷解する」として高永根も特赦するよう要求している。実際の暗殺の首謀者や実行者は誰であったかについては複数の学説が存在しているもの、日本における歴史研究のほとんどでは三浦梧楼らの計画に発し、その指揮によるものとする。堀幸雄は、「玄洋社、関東自由党、熊本神風連の子弟ら50人が安達謙蔵を部隊長に王宮に乱入し閔妃を殺害したのである。」と書いている。事件当時、在朝鮮日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと告白している。また裁判では「手段は前年7月の王宮占領に比べ、はるかに穏和で、前年の挙を政府は是認している以上は、後任公使がこれにならって行った今回の挙もこれを攻めることはできない」との内容の供述を行っている。日本政府が直接関与したかについては否定的な見方が多く、秦郁彦は日本政府の関与については「証拠不足」との見解を示している。背後関係について言及した近年の学説では、崔文衛が前任の公使であった井上馨の主謀論、金文子が井上が「更迭」され、後任として三浦が川上操六ら大本営の意を受けて送り込まれたとの説がある。なお、事件当時における見方としては内田定槌が原敬に宛てた私信(前述)があり、政府の意思ではないだろう(「我政府の内意に出でたるものにあらざるべし」)が、前年の王宮占領と同様に政府が追認する可能性があるため処分について当惑していると記されている(10月19日付)。事件直後に朝鮮政府は朝鮮国内で行った裁判で興宣大院君(高宗の父)の首謀とする判決が出たことや、朝鮮人実行犯の証言等から、事件の首謀者を大院君とする見解は根強く、また閔氏一族の横暴や怨嗟の声が国中に満ちていることを憂慮していた朝鮮人らが積極的に参加していたとの見解や、決定的な証拠がないため不明とし、実行犯が日本人か朝鮮人かを巡って、小説やノンフィクション、テレビドラマなどで現在でも様々な意見や主張が出されているとも言われる。金弘集政権は事件後、大院君に責任があるとし、大院君を宮闕外に退かせること、王妃を復位すること、関係者を処罰することが重要であるとして、これを内閣に提出している。兪吉濬によれば、これは大院君にすべての責任を負わせて、政権が責任を免れようとしていたものとし、その一方で兪吉浚はアメリカ人牧師モールスに送った手紙に、「大院君が日本公使館に頻繁に出入りして、閔妃殺害を日本に要請したのは大きな間違いだ」と書いていた記録が残っている。『日本と韓国』の著者であり、終戦時には全羅南道の知事であった八木信雄は、閔氏政権が訓練隊を解散させようとし、事件前日の10月7日に解散通告をしてきたため、訓練隊の幹部が閔妃勢力との決闘を決意し、閔妃の政敵である大院君の力を借りて事を進めようとしたが、これを知った三浦が岡本を大院君のところへ送り、共にクーデターを決行しようという密約を結んだと述べている。また、事件直後の内田定槌による報告では「今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」と両者の計画であったしており、これらの報告に沿って、日本国内における裁判では三浦と大院君との密約が事実として述べられている。しかし、三浦は事件直後に「何か特約でもあったことか」と明治天皇の言葉を伝えた侍従・米田虎雄に対して「(大院君は)唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない」と答えたと晩年に回想している。他にも大院君が事件に強く関わっていたとする次のような言及がある。19世紀末にロシア人ゲ・デ・チャガイが編集した『朝鮮旅行記』の『1895年-1896年の南朝鮮旅行』の章に、ロシア参謀本部のカルネイェフ中佐が「1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君がかなりの役割を演じていた」と発言していたことが記述されている。韓国の独立運動家にして大韓民国臨時政府第2代大統領だった朴恩植も閔妃暗殺犯を興宣大院君だと指摘した。純宗は禹範善が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる。また現場にいた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。王宮に乱入した日本軍守備隊、訓練隊は侍衛隊(景福宮の警護にあたっていた近衛部隊)と戦闘を繰り広げた。侍衛隊の教官はアメリカ人将軍のウィリアム・ダイ()で、ロシア人御用技師アレクセイ・セレディン=サバチン(Алексей Середин-Cабатин)とともに事件を直接目撃した。この経緯についてはイザベラ・バードの「朝鮮紀行」に詳述されている。サバチンによる事件についての報告書がロシア科学大学の教授に発見され、米国コロンビア大学において1995年10月6日付でその翻訳が公開されている。サバチンの証言は以下のようなものである(以下は部分訳)。事件後、ロシアはソウルに水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張が高まる中、ダイらアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与したカウンタークーデター事件春生門事件が発生。翌年の露館播遷へとつながっていく。安川寿之輔や金文子は、閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布されたとし、そうした情報操作には福澤諭吉の関与があったと主張している。この事件を期に、興宣大院君と高宗の亀裂は決定的となり、興宣大院君は失脚した。3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなったさいも略式の葬儀しか行われず、しかも高宗は父親の葬儀に参列しなかった。2004年に熊本出身の元教師ら20人によって「明成皇后を考える会」が結成された。同会は、日本側実行犯の後裔を捜し出して関連記録を調査、殺害事件の真相究明を目的としている会であるという。同会が2005年に行った謝罪行は、日本のドキュメンタリー番組『テレメンタリー』で「114年目の氷解〜反日感情の原点、閔妃暗殺を見つめた5年〜」とのタイトルで放送された。2005年5月10日、事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で、「明成皇后を考える会」の会員10人とともに日本側の実行犯とされる家入嘉吉、国友重章の子孫が入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座して謝罪をしている姿を韓国の報道機関が伝えた。墓地を訪れていた閔妃の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた閔妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った。このドキュメンタリー番組では「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人によるものであった」という国王・高宗や王子・純宗などの証言を日本の工作とした。また、韓国の市民団体が櫛田神社に対して、玄洋社の藤勝顕が1895年に『之れ韓王妃を斬つて爾後埋木となつたものなり』と奉納した肥前刀を、韓国に差し出すか、処分するかを要求している。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐 夢庵勤議」と刻まれているが、これは三浦が閔妃を「女狐」と呼び、閔妃暗殺を「狐狩り」と密かに呼んでいたことと符合するとしている(夢庵とは藤勝顕の号)。また、この市民団体は「明成皇后が暗殺され、その凶器が日本の神社に保管されている事実を日本社会に広く伝え、日本の戦争犯罪を糾明し、誤った歴史認識を正すべきだ」とも主張している。※なお、『高宗実録』は朝鮮総督府によって編修されたもので、編纂委員には事件の容疑者だった菊池謙譲の名もある。

出典:wikipedia

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