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萩原智子

萩原 智子(はぎわら ともこ、1980年4月13日 - )は、日本の元水泳(競泳)選手、スポーツコメンテーター、タレント。本名、佐藤 智子。愛称、ハギトモ。大阪府生まれ、山梨県育ち。山梨学院大学大学院卒業。スポーツバックス所属。日本水泳連盟理事。現役時代は得意種目の背泳ぎを中心に自由形や個人メドレーなども手掛け、日本選手権にて史上初の個人4冠を達成。2000年シドニーオリンピック女子競泳日本代表。現役引退後はスポーツコメンテーター・タレントなどとして活動する。夫はテレビ朝日のスポーツ局ディレクターの佐藤一馬。テレビ神奈川アナウンサーの佐藤亜樹は夫の妹で、テレビ山梨アナウンサーの小嶋優は姉の夫。また、直木賞作家の東野圭吾は母方の親戚でもある。大阪府生まれ、山梨県育ち。中学3年になった1995年、全日本ジュニアチームのメンバーに選ばれる。翌1996年に山梨学院大学附属高等学校入学(同級生に森田丈武)。在学中は3年連続でインターハイに出場し、200m背泳ぎで3連覇。1998年のアジア大会では100m、200mの背泳ぎ、並びに400mメドレーリレーの3冠を達成した。1999年に卒業後は学内制度により母系の山梨学院大学法学部へ進学した。これにより現在に至るまで同大学を活動の拠点とする。入学した年にパンパシフィック水泳選手権200m背泳ぎで金メダルを獲得。翌2000年に行われるシドニーオリンピックのテスト大会だったこともあり、大きく期待されていた。その2000年9月のシドニー五輪本番のレースは、200m背泳ぎでは同日本代表の中尾美樹と3位を争ったが、タッチの差で惜しくも敗れて4位入賞。200m個人メドレーでは日本女子のトップながらも8位入賞に留まり、共に念願の五輪メダル獲得はならなかった。それでも200m背泳ぎの決勝レース直後には、わずかの差で銅メダル獲得となった中尾に駆け寄り、笑顔で祝福の言葉を送っている。また萩原の活動が評価されて、大学が新たに建設した屋内プールは「シドニー記念水泳場」と命名された。3年生になった2001年、福岡市で開かれた世界選手権では、800m自由形リレーのメンバーに選ばれ、銅メダルを獲得した。4年生になった2002年、日本選手権で200m自由形、200m背泳ぎ、200m個人メドレー、100m自由形での史上初となる個人4冠を達成。しかしこの快挙が皮肉にも、彼女の水泳人生を大きく狂わせるきっかけにも繋がってしまう。2002年8月に横浜市で開かれたパンパシフィック水泳で、200m個人メドレーでは金メダルを獲得。だが日本選手権優勝多数により、多くの種目にエントリーした強行日程が祟ったせいか、大会中に過呼吸を3度も発症し、200m背泳ぎ決勝レースを直前で棄権し、そのまま緊急入院する事態となってしまった。同年10月の釜山アジア大会代表にも選ばれていたが、重度の過換気症候群と診断されてこれも辞退。結局満足な結果を残すことが出来ないまま、大学生活を終えることとなった。なお、大学生時代は教育実習もしており、その時の教え子に、当時高校生の松本哲也(読売ジャイアンツ)が居たため、今でも気になっているという。なお、プロ野球は特にどこのチームのファンというわけではないが、ファンである選手に松本の他、上原浩治、松坂大輔、内川聖一、栗山英樹を挙げている。2003年、競技生活を続けるため山梨学院大学大学院社会科学研究科修士課程(公共政策専攻)に進んだものの、その年は翌年に五輪を控えていたこともあり、静養のため殆どレースに出場しなかった。しかし、9月に“お隣”静岡県で行われたNEW!!わかふじ国体には山梨県選手団の一員としてエントリー。200m個人メドレー成年女子の部で大会記録を更新、復活の優勝を果たした。2004年、アテネオリンピック出場を目指して、この年の日本選手権に全てをかけたが、50m自由形では優勝しながらも派遣標準記録の25秒30に0.32秒足りず、また100m自由形も派遣記録に届かず2位となり、2大会連続の五輪代表を逃した。その直後、一旦現役を引退する事を表明した。大学院修了後も職員の形で引き続き学校法人山梨学院に残り、今に至る。社会人となった2005年4月から1年間、地元山梨放送のスポーツコメンテーターとして、『山日YBSワイドニュース』(現在の『YBSワイドニュース』、テレビ)、『YBSニュース深夜便』、『YBSニュース・アップ!』(ラジオ)の「ハギトモSmile Sports」というコーナーに出演していた。また、『ワイドニュース』では萩原自身もスタジオ出演していた。TBS系列テレビ山梨製作の番組「UTYウッティな木曜日」で2005年4月から2009年3月まで出演した。山梨放送出演時から世界選手権テレビ朝日系列中継でスタジオ解説を務めたほか、『GET SPORTS』ではさまざまなスポーツ選手を取材している。そこで知り合った8歳年上の佐藤一馬ディレクターと2006年10月に結婚。以後は東京と山梨を行ったり来たりする生活となる。2007年2月、第1回大会だった東京マラソン2007の10kmレースに初挑戦。翌2008年の第2回東京マラソン2008は自身初のフルマラソンに挑戦、6時間30分41秒のタイムで完走を果たしている。翌2009年の第3回東京マラソン2009では、家族と共に10Kmレースに参加した。2009年6月、競泳選手として5年ぶりに現役復帰することを表明、山梨県水泳連盟に「学校法人山梨学院職員」として選手登録した(略称は「山梨学院」)。復帰戦となった日本実業団大会山梨予選では、100メートル自由形(短水路)で自己ベストに0秒54と迫る54秒49をマークした。2010年4月の日本選手権では50メートル・100メートルの自由形でそれぞれ3位に入った。8月にアメリカ・カリフォルニアで行われたパンパシフィック選手権の400メートルフリーリレーでは3分38秒86の日本新記録樹立に貢献した(結果は5位)。10月に東京辰巳国際水泳場で行われたFINA競泳ワールドカップ2010東京では、50メートル自由形(短水路)で24秒91を記録、1998年に源純夏がマークした日本記録を12年振りに更新し、6位に入った。そして、100メートル個人メドレーでは59秒94を出し、短水路日本記録を更新して金メダルを獲得した。11月のアジア競技大会の400メートルフリーリレーでも3分37秒90の日本新記録を樹立。2011年、4月の大会を前に子宮内膜症と卵巣のう腫が発覚し手術を行う。2012年2月、短水路日本選手権の50メートル自由形(短水路)予選にて24秒84をマークして、自身の持つ日本記録を更新。2012年のロンドンオリンピック出場を見据えて、12年振りの五輪日本代表入りを目指し、五輪代表選考会である同年4月の日本選手権に50メートルと100メートルの自由形で出場した。しかし、いずれの種目も決勝まで進出したものの、100メートル自由形は8位、50メートル自由形は5位に終わり、12年ぶりのオリンピック出場はかなわなかった。直後、再び選手活動の再引退を表明。自身落選したロンドン五輪の開催中、日本テレビ系「ZIP!」で水泳競技のコメンテーターを担当していた。その後現在では水泳関連に限らず、夏季五輪・冬季五輪関連のスポーツコメンテーターとして、メディア出演にも度々登場している。さらにテレビ東京の土曜スペシャル(2012年6月16日放送・2012年10月27日放送)やTBSのスペシャル番組SASUKEの出場者(2012年12月27日放送・2013年6月27日放送)として参加していた。2013年6月に日本水泳連盟で評議員会、理事会を開き理事として起用され、2014年4月1日から日本水泳連盟の新設「アスリート委員会」の委員長として就任した。2014年7月17日、自身のブログで結婚8年目にして懐妊、それから4か月後の同年11月21日に長男を無事出産を公表した。2014年7月18日山梨フルーツPRキャンペーン一行で「やまなし大使」と「山梨フルーツレディー」として首相官邸へ安倍晋三総理大臣に今年2月の大雪被害を乗り越え収穫したブドウとモモをプレゼントした。2015年11月24日、突然腹部に激痛が走り救急車で運ばれて入院。「胆石胆嚢炎」と診断され、入院翌日の11月25日に緊急手術した事を報告(12月1日に退院)。2016年5月8日、毎日新聞の「親子の日・企画特集」で母と対談が実現した。ちなみに母は甲府市でお菓子教室主宰をしている。

出典:wikipedia

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