藤原 道綱(ふじわら の みちつな)は、平安時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・藤原兼家の次男。天禄元年12月(970年1月)従五位下に叙爵。のち、右馬助・左衛門佐・左近衛少将と武官を歴任するが、正妻腹の異母兄弟である道隆・道兼・道長らに比べて昇進は大きく遅れた。寛和2年(986年)の花山天皇を出家・退位させた寛和の変では、長兄・道隆と共に清涼殿から三種の神器を運び出すなど父・兼家の摂政就任に貢献(『扶桑略記』)。変から1年半ほどの間に正五位下から従三位にまで一挙に昇進し、公卿に列した。その後、異母弟の道長とは親しかった(妻同士が姉妹で相婿)こともあって、長徳元年(995年)道長が執政となると、その権勢の恩恵を受け、長徳2年(996年)中納言、長徳3年(997年)大納言と急速に昇進した。一方で、異母兄・道隆の娘を妻とし、嫡男・兼経が道隆の四男・隆家の娘婿であったことから、道長との不仲を噂されることもあったという。寛仁4年(1020年)9月半ば頃より病気のため重態に陥り、10月13日に法性寺にて出家、前年に既に出家していた道長の見舞いを受けるが、15日に薨去。官途における競争相手であった藤原実資は「一文不通の人(何も知らない奴)」「40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」などと記している。父や兄弟に見られるような政治的才能や、母のような文学的素養はなかったと伝えられている。藤原道綱母が著した『蜻蛉日記』における道綱に関する記述は、やはり母から見てもおとなし過ぎるおっとりとした性格であると記されているが、弓の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだという逸話が書かれている。勅撰歌人として『後拾遺和歌集』巻十五雑一に1首、『詞花和歌集』巻七恋上に1首、『新勅撰和歌集』巻十二恋二に1首(『蜻蛉日記』にも掲載)、『玉葉和歌集』巻十二恋四に1首、計4首が入集している。また、『和泉式部集』に和泉式部と歌の贈答が見えるが、そこで和泉式部は道綱のことを「あわれを知れる人」と詠んでおり、道綱に対して好感をもっていたようだ。
出典:wikipedia
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