アンドレス・イニエスタ・ルハン(Andrés Iniesta Luján, 1984年5月11日 - )は、スペイン・アルバセーテ県フエンテアルビージャ出身のサッカー選手。リーガ・エスパニョーラ・FCバルセロナ所属。スペイン代表。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。スペインのメディアからはDon Andrés(ドン・アンドレス)と呼ばれることが多いが、その他にもEl Ilusionista(エル・イルシオニスタ、手品師)、El Cerebro(エル・セレブロ、頭脳)、El Caballero Pálido(エル・カバジェロ・パリド、青白い騎士)など様々な愛称を持っている。8歳のときに地元アルバセテ・バロンピエの下部組織に入団した。12歳の時に出場した全国大会ではほれぼれするほどのドリブル能力と年齢を疑いたくなるような視野の広さを見せつけ、様々なクラブから注目を集めた。レアル・マドリードの下部組織に入団する予定だったが、両親の意向で取りやめられ、両親とFCバルセロナの下部組織寮(ラ・マシア)を見学して好印象を持ったことからFCバルセロナに入団した。MFセスク・ファブレガス同様、入団当初は守備的ミッドフィールダーだったが、ボディバランス、精密なコントロール、ボールキープの技術などが評価されて攻撃的ミッドフィールダーに転向した。シャイな性格であり、ラ・マシアではしばしばホームシックにかかった。U-15チームではキャプテンを務め、1999年のナイキ・プレミア・カップ決勝ではロスタイムに決勝点を挙げて優勝に貢献し、大会最優秀選手に選ばれた。イニエスタにトロフィーを手渡したのは,当時トップチームでキャプテンを務めていたMFジョゼップ・グアルディオラであり、グアルディオラは「今まで見た中で最高の選手」と記した写真をイニエスタに贈った。グアルディオラはクラブの若手有望株だったMFシャビに「じきにお前は俺を引退に追い込むだろうが、あの坊や(イニエスタ)が俺たちふたりを引退に追い込むかもしれないぞ」と語りかけたのはこの大会時であったと伝えられている 。2002年10月、ルイス・ファン・ハール監督によってトップチームに招集され、10月29日のUEFAチャンピオンズリーグ、クラブ・ブルッヘ戦でデビューした。そのままトップチームに定着すると、デビュー直後から素晴らしいプレーを見せ、MFフアン・ロマン・リケルメに取って代わる存在だとスペインメディアに報じられた。トップチーム昇格後に家族のために地元に建てた家は青とえんじ色に塗られ、観光名所になっている。2003-04シーズンは主にFWロナウジーニョの控えとしてリーグ戦11試合に出場し、バレンシア戦で得点した。2003-04シーズンはリーグ戦38試合中37試合に出場したが、その大半は途中出場だった。2005-06シーズン前半戦は途中出場が中心だったが、2005年12月上旬にシャビが靭帯を痛めて長期離脱したため、イニエスタがその代役を任され、先発出場回数が増加したことでより高いレベルの選手へ成長した。フランク・ライカールト監督の下でリーガ・エスパニョーラとUEFAチャンピオンズリーグの2冠達成に貢献した。2006年8月22日のジョアン・ガンペール杯、バイエルン・ミュンヘン戦ではゲームキャプテンを任され、勝利してトロフィーを掲げた。2006-07シーズンも順調に成長を続け、どのポジションでのプレーも厭わない姿勢がファンからの称賛を浴びた。UEFAチャンピオンズリーグ、レフスキ・ソフィア戦では今まで経験したことがなかった左ウイングのポジションで出場して2ゴールを決めた。決勝トーナメント1回戦のリヴァプール戦は普段通りセンターハーフとして出場したが、その後もしばしば3トップの一角としてプレーした。リーグ戦では自己最多タイの37試合に出場(28試合に先発出場)し、6得点3アシストを決めた。2007年7月にはライバルのレアル・マドリードが移籍金として6000万ユーロの予算で彼の獲得を狙っていると噂されたが、「引退するまでFCバルセロナでプレーしたい」と述べて噂を一蹴した。同年夏にはASローマに移籍したFWリュドヴィク・ジュリが着けていた背番号8番を譲り受けた。2008年のFIFA最優秀選手賞の投票では37ポイントを獲得し、9位にランクインした。FCバルセロナの選手はFWリオネル・メッシ、FWサミュエル・エトオ、シャビの3人も10位以内に入った。ドン・バロン紙の選手採点では2006-07シーズンがリーグ5位、2007-08シーズンがリーグ4位であり、この2シーズンを通じて最も安定した活躍を見せた選手であるとされた。2008年9月24日、ロナウジーニョがACミランに移籍したことにより、DFカルレス・プジョル(第1キャプテン)、シャビ(第2キャプテン)、GKビクトル・バルデス(第3キャプテン)と一緒に新しいキャプテンの一人(第4キャプテン)に選ばれた。11月中旬に足を負傷し、完全に状態が回復するまで試合出場を控えたが、2009年1月3日のマヨルカ戦の後半途中に復帰し、その10分後にはカンプ・ノウの観客の前で重要な得点を決めて見せた。2009年2月5日、コパ・デル・レイのマヨルカ戦に出場し、公式戦を通じて250試合出場を達成した。ホームでのマラガ戦で再び負傷したが、UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝、バイエルン・ミュンヘン戦1stレグで復帰し、4-0で快勝した。2008-09シーズンのプレーは高く評価され、カンプ・ノウのみならずアウェーゲームでスタンディング・オベーションを受けることもあった。2009年5月6日、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝、チェルシー戦2ndレグでは、後半ロスタイム3分過ぎにメッシからパスを受け、ペナルティエリア外からアウェーゴール差での勝ち抜けを決める重要な得点を叩き込んだ。FCバルセロナの枠内シュートはこの1本だけであった。決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦ではエトオの先制点をアシストして優勝に貢献したが、試合前に腿を痛めていたにも関わらず無理を押して決勝に出場したことで怪我を悪化させた。この試合後には、ウェイン・ルーニーが「世界のベストプレーヤーはイニエスタ」と表現した。2008-09シーズンはドン・バロン紙の年間最優秀選手に選ばれた。2009年8月8日に親友であるダニエル・ハルケが急逝し、泣き崩れるほど悲しんだ 。負傷の影響でプレシーズンのフィットネス・トレーニングには参加できず、頻発する怪我のためにシーズン前半戦は途中出場がほとんどだった。11月27日、クラブとの契約を1年延長して2015年までとし、契約解除金は1億5000万ユーロから2億ユーロに引き上げられた。2009年のFIFA年間最優秀選手賞では134ポイントを獲得して5位に選ばれ、FIFAベストイレブンに選ばれた。同年のバロンドール投票では4位に選ばれた。チームは勝ち点99を獲得してリーグ優勝を果たしたが、練習中に怪我を再発させ、チームより一足早くシーズンを終えた。2010-11シーズン開幕戦のエスタディオ・エル・サルディネーロでのラシン・サンタンデール戦で30mの距離からロングシュートを決めた。ラシン・サンタンデール戦とエスタディオ・ビセンテ・カルデロンでのアトレティコ・マドリード戦では、2010 FIFAワールドカップ決勝で優勝を決める得点をイニエスタが挙げたことに敬意を表し、アウェーファンから観客総立ちでの拍手を受けた。チーム内での役割の変化により、公式戦2ゴール、8アシストと個人成績では物足りないシーズンとなるも、変わらずチームの主力として活躍。チャンピオンズリーグ決勝のユヴェントス戦ではイヴァン・ラキティッチの先制点をアシストし、チャンピオンズリーグの決勝戦では最多となる3戦連続アシストを記録。決勝戦ではマン・オブ・ザ・マッチに選出され、これによってFIFAワールドカップ、UEFA欧州選手権に続く3つの国際大会の決勝でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた史上初の選手となった。さらにチームはリーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、チャンピオンズリーグの三冠を達成。チャンピオンズリーグの個人優勝回数はクラレンス・セードルフと並んで史上最多の4度目である。シャビの退団によりキャプテンに就任。11月21日のレアル・マドリードとのエル・クラシコでは1ゴール1アシストを決めて敵地での4-0での大勝に貢献。交代時にはアウェーにも関わらず相手サポーターからスタンディングオベーションが贈られた。スペイン世代別代表に初めて選ばれたのは2001年で、同年のUEFA U-16欧州選手権と翌年のUEFA U-19欧州選手権で優勝を果たした。2003年にアラブ首長国連邦で行われたFIFAワールドユース選手権ではDFセルヒオ・ラモスやFWセルヒオ・ガルシアとともにプレーし、準優勝に貢献するとともにベストイレブンに選ばれた。U-21スペイン代表ではしばしばキャプテンも務めた。2006年5月15日に発表された2006 FIFAワールドカップに出場するスペイン代表への選出は驚きをもって受け止められた。メンバー発表後の5月27日に行われたロシアとの親善試合の後半に途中出場してスペインA代表デビューを果たした。本大会では、グループリーグ突破が決まった後の3戦目のみに出場した。2006-07シーズン頃に代表のレギュラーポジションを獲得し、2007年2月7日、イングランド戦で63分に遠めの位置から放ったミドルシュートが代表初得点となった。UEFA EURO 2008予選ではチームの中心的な役割を担い、シャビ、セスク・ファブレガス、MFダビド・シルバと組んだ中盤の4人は"Cuatro Jugones"(クアトロ・フゴーネス、4人の創造者たち)とメディアに名づけられた。スウェーデン戦で1得点1アシストと大活躍し、アイスランド戦では終了間際にゴールを決めて本選出場の望みをつないだ。予選では主に中盤でプレーしたが、デンマーク戦に代表されるように左ウイングで起用されることもあった。オーストリアとスイスで共催された本大会直前に食中毒を患って胃炎に悩まされ、グループリーグではコンディション不良からボールを失うこともたびたびあったが、控え選手にポジションは譲らなかった。グループリーグの初戦のスウェーデン戦と2戦目のロシア戦に出場し、ロシア戦ではFWダビド・ビジャの2点目をアシストする重要なパスを通した。3戦目のギリシャ戦は控え選手主体でチームを組んだため、イニエスタは出場しなかった。準々決勝のイタリア戦はPK戦の末に勝利したが、イニエスタはその前にベンチに下がっており、PKを蹴ることはなかった。準決勝のロシア戦にはフル出場し、決勝点を決めたシャビに質の高いクロスを放ち、技術委員会によるマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。決勝のドイツ戦もフル出場し、1-0で勝利して44年ぶりの優勝を果たした。同じ中盤のシャビやMFマルコス・セナなど6人のチームメイトとともに大会ベストイレブンに選定された。2009年のFIFAコンフェデレーションズカップ2009は腿の筋肉の負傷により出場を逃した。2010 FIFAワールドカップ欧州予選には6試合しか出場していないが、2009年10月10日のアルメニア戦で復帰し、2010年5月、2010 FIFAワールドカップ本大会に出場する23人に選ばれた。大会前の親善試合ポーランド戦では自ら交代を申し出たため足首の状態が心配されたが、グループリーグ第1戦のスイス戦には先発出場した。3戦目のチリ戦ではこの大会の節目となる100ゴール目を決め、マン・オブ・ザ・マッチに選出された 。決勝のオランダ戦は0-0で延長戦に突入したが、延長後半11分に決勝ゴールを挙げ、ゴール後にはユニフォームを脱いでアンダーウェアに手書きした"DANI JARQUE SIEMPRE CON NOSOTROS"(ダニ・ハルケ、いつも僕らとともに)というメッセージを晒して(この行為は規定によりこの行為後にイエローカードを受けている)、2009年8月に心臓発作で急死した親友ダニエル・ハルケに優勝を捧げた。このアンダーウェアは同年11月にRCDエスパニョールの本拠地エスタディオ・コルネリャ=エル・プラットに寄贈された。決勝のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれ、スペインは初優勝を果たした。大会の最優秀選手賞にノミネートされた。ワイン好きであり、ブドウ農園、ワイナリー「ボデガ・イニエスタ」(「Bodega」はスペイン語で酒蔵、ワイナリーの意)、レストランを故郷の村で経営している。好きなバンドはカサビアンで、2010 FIFAワールドカップ優勝時には「彼らには大感謝だ」と述べた。2008年以来、スポーツジャーナリストのアンナ・オルティスと交際している。2010年9月には彼女の妊娠が明らかになり、2011年4月に初娘が誕生してすぐの試合(UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝FCシャフタール・ドネツク戦ファーストレグ)では得点を娘に捧げた。2012年7月7日にアンナと結婚式を挙げ、2013年10月には夫人のTwitterで第二子の妊娠が発表されたが、2014年3月に流産した。2011年頃から資金難に陥っている故郷アルバセテのアルバセテ・バロンピエに投資を続けており、現在は筆頭株主である。同クラブは2012-13シーズン終了時に選手給与の24万ユーロを支払えず、罰則規定により降格危機に陥っていたが、イニエスタが個人資産で全額を肩代わりし、チームを降格から救った。ジョゼップ・グアルディオラ、イバン・デ・ラ・ペーニャ、シャビなど他のFCバルセロナ出身選手のように、創造性豊かなパス能力を持ち、洞察力、卓越したボールコントロール能力、プレーの流れを読む能力に優れている。バルサ育成部門に所属するアルベルト・ベナイジェスは「彼はサッカー選手に必要なセンスの全てを兼ね備えている。特に優れているのは考えるスピード。また、ドリブルしながら相手をかわすことにかけては世界一だと思う。身体の接触があるプレーは基本的にダメだよ」と語った。スペイン代表のビセンテ・デル・ボスケ監督は「完璧な選手だ。攻撃も守備もでき、得点することだってできる」と表現している。FCバルセロナで彼を指導した経験のあるフランク・ライカールト監督は、「私は彼をウイング、セントラル・ミッドフィールダー、守備的ミッドフィールダー、ストライカーのすぐ後ろでプレーさせたことがあるが、どこでプレーさせても並はずれていた」と語っている。重要な場面で得点することが多く、2008-09シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ準決勝、2010 FIFAワールドカップ決勝などで得点している。2010年にバロンドールとFIFA最優秀選手賞が統合されてFIFAバロンドールとなった。国際Aマッチ 113試合 13得点(2002年- )! | 通算 !! 113 !! 13
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