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競輪選手

競輪選手(けいりんせんしゅ)とは、公営競技の競輪において、賞金を獲得するプロの選手である。選手数は、日本のプロスポーツとしては最大規模の2,500名程度にのぼるが、相次ぐ競輪場の閉鎖、団塊世代の選手の大量引退、競輪学校の年一回入学化等により漸減傾向にある。現在は選手の実力に応じてS級とA級の二層(下述)に区分されており、トップレベルの選手になると賞金だけで年間1億円以上稼ぐ者も存在する。競輪選手になるためには、日本競輪学校に入学し、国家試験である選手資格検定に合格する必要がある。その資格検定合格後に全国いずれかの選手会に所属することで選手登録され、晴れて競輪選手となれる。日本競輪学校の受験方法・在校時の生活などについては、日本競輪学校の項目に詳しい記述がある。まず、JKA(旧・日本自転車振興会)より斡旋通知(各競輪場からのレース参加要請)を受ける。その時点で「参加」「不参加」の意思表示をしたのち、参加の場合は斡旋された競輪場へ前検日(開催前日)の指定時間まで赴く。その日のうちに身体・車体など所定の検査を受けて「異常なし」と判断されれば、競走に参加できる。身体や車体に「異常あり」と判断されればその場で契約解除となり競走には参加できず、規定により「前日検査不合格」という扱いとなる。なお運送会社に配送を委託した部品や自転車が前検日に競輪場に届かず検査が受けられない場合なども契約解除となるが、選手の責任を問えないと判断された場合は通常の欠場扱いとなる。競走の公正確保(八百長防止)の観点から、前検日に競輪場入りしてから帰宅するため競輪場を離れるまで、選手全員が競輪場併設の選手宿舎に隔離状態にされ、外部との接触や連絡はたとえ身内でも一切禁止となり、携帯電話や通信機器なども前検日に競輪場に必ず預けなければならない。選手宿舎は、12畳1室で4人相部屋となっている。選手の宿舎内での生活は、基本的に、食事・風呂・トレーニング・同室の仲間との会話…がほとんどであり、藤本博之によれば、「食事と仲間との会話ばかり」とのこと。この宿舎内での選手の生活については、競輪業界に題材をとった漫画『ギャンブルレーサー』などに詳しい描写がある。基本的には開催初日から最終日まで毎日1走し、帰宅の際、競輪場から賞金・手当を支給される。ただ、レースで失格処分を受けたときは、開催途中であってもその時点で競輪場から斡旋・参加の契約を解除され、競輪場から“追放”され即日帰郷となる。競走のない日は、主に非開催日の競輪場や街道で練習を行ない、次の参加レースに備える。この生活を月に2 - 3回ほど繰り返しているが、競輪は基本的に365日全国どこかの競輪場で開催され、お盆や正月には多くの開催が集中するため、競輪選手にお盆や正月はあってないようなものである。殆どの競輪選手には師匠がおり(稀にいない選手もいる)、基本的にはそれら師弟関係や先輩・後輩などの集まりでグループを組み、集団で練習を行うことが多い。練習内容は自転車競技選手と大差なく、競輪場や自転車競技場において周回走行やダッシュを繰り返すが、「持久力をつけるため」や「身近に競輪場など練習できる場がないため」という理由で、街道を練習の場として活用する選手も多い。また近年は自転車だけでは鍛えられない部分を補うためにウエイトトレーニングなどを行う事が一般的になっており、選手の中には自費でウエイト機材や自転車用ローラー台などを設置した「練習小屋」を自宅の敷地などに造成する者もいる。選手の収入は、その殆どが出走したレースでの着順に応じて支払われる賞金である。ただ、この賞金は途中棄権した場合には9着賞金(棄権が自分1人の場合)から20%がカットされ、失格となった場合にはそのレースの賞金は支払われないことになっている。賞金以外にも、レースに出走する毎に、額は多くないが失格・棄権関係なく「競走参加手当」(日当)が、レース中に雨や雪が降れば「(通称)雨敢闘手当」が、正月三が日に競走に参加すれば「(通称)正月手当」(実際には年末年始の特定開催となる)などが、それぞれ支給される。また、自宅から競走に参加した競輪場までの「交通費」も別途支給される。この他、先頭誘導員資格を持つ選手がレースで先頭誘導員を務めれば、その都度誘導員手当も支給される。支給額については2014年度まで事前に決定されるGIなどのグレードレースの賞金は除き、各競輪場の賞金は前年度の売り上げにより翌年度のレース毎の賞金支給額が変更されるため、同じグレードのレースでも競輪場によって支給額が異なることがあったが、2015年度より全ての場およびグレードにおいて賞金額が統一されている。賞金の最高額はKEIRINグランプリ1着の1億160万円(副賞込みの金額)であり、最低額はFIIのA級チャレンジレースでの5レーストーナメント初日予選およびガールズケイリン予選の7着32,000円である(2015年度)。これらの賞金は、かつては全て選手個々に帰宅時に現金で支給されていたため、開催最終日には窓口に札束が大量に並べられることも珍しくなかったといい、実際に吉岡稔真は『別冊宝島』の企画で植木通彦と対談した際、自宅近くで行われる競輪祭において「いつも賞金の札束をそのまま車のトランクに積んで帰っている」と語ったことがある。ただ大量の現金を持ち歩くことは無用心でもあるので、最近はほとんどの選手が銀行振込での受け取りを選んでいる。2014年度までの賞金制度では売り上げ減少を受けて賞金支給額が低ランクの競輪場が年ごとに増加していたことから、この影響から選手全体の平均獲得賞金額も減少している。ここ10年間では獲得賞金額の年間平均は1,000万円以上あったものの、2011年度は東日本大震災を受けての被災地支援競輪において収益拠出額を増加させる方針から大幅にダウンし888万円となった。また、2011年における年間獲得賞金額1,000万円以上の選手は782人に留まり、過去30年間で最低となった(最多は1998年の3,196人)。また、最上位のS級S班9人だけは平均1億625万円である一方、最下位のA級3班では平均592万円であり、上位選手と下位選手の格差は大きい。なお、オリンピックでは、アトランタ大会から自転車競技にプロである競輪選手の参加が認められたこともあり、以後大会毎に代表に選ばれた選手は、メダル獲得を目指して合宿を張るためオリンピック開催の数か月前から通常の競走を欠場した上で参加している。そのため欠場中は特別な配慮がなされ、規定が定められて一定の収入補償がなされている。特にメダルを獲得した場合は補償と共に報奨金も支給され、アトランタで銅メダルを獲得した十文字貴信には5,000万円が、アテネ大会で銀メダルを獲得した長塚智広・井上昌己・伏見俊昭には各4,000万円が、北京大会で銅メダルを獲得した永井清史には4,300万円がJKAなどからそれぞれ支給された。20年以上選手を務め上げれば、引退する際に約2,000万円の退職金が支払われ、またそれとは別に獲得賞金の一部を原資とした年間約120万円の年金が15年間支払われる。競輪選手は競走において短期間に多くの警告を繰り返し受けると、ペナルティとして科される違反点数が累積していき、特に失格については級班別審査(格付け)においてもマイナス点が与えられ不利になる。一定期間の累積違反点数が90点以上に達した場合には、関係団体(実際は日本競輪選手会)から、訓練への参加通知が届き「特別指導訓練」に参加しなければならない。実施場所は日本サイクルスポーツセンターで期間は5泊6日制で、受講費6万円を自腹で支払い当訓練に強制参加させられる。その内容は競走参加中と同様に携帯電話や電子機器の持ち込みが不可(預かり)となり、飲酒も厳禁で、決められた時間や範囲以外の外出も禁止になる。また直近4か月間の累積違反点数が120点以上になると、JKAの規程により『あっせんをしない処置』(以下「斡旋処置」)という処罰の対象となる場合もあり、適用されると基本的に120点以上が1か月、150点以上が2か月、180点以上が3か月といった間で出場への斡旋が行なわれないことになり、これは一定期間実戦から遠ざかることをそのまま意味している。なお競走における失格についても内容によってはこの措置が適用されることもある。これとは別に、競走における失格の内容や、私生活において特に悪質な行為に及んだと判断された選手については『あっせん停止』(以下「斡旋停止」)という厳罰が下される。これは最短1ヶ月から最長1年の期間で斡旋措置と同じ処分を受けるが、停止期間が過ぎた後もKEIRINグランプリなどの特別競輪への参加や追加斡旋を受ける権利などが一定期間取り消される。特に違反点数を累積させた選手や斡旋停止に処された選手については「お寺行き」と呼ばれる特別な訓練が課せられる。これは競輪の公式ホームページではそこまで語られていないものの、上述した漫画『ギャンブルレーサー』などで詳しい描写がなされている他、チャリロト公式ホームページでは語られるなどしており、事実上公然のものとなっている。この「お寺行き」が命じられた場合には、京都府宇治市の黄檗宗大本山の萬福寺まで赴き、寺の施設において5泊6日の厳しい禅寺の修行を済ませなければならない。期間中は座禅を組まされたり周辺の掃除などを課せられるため練習は全く行えないことから、選手からも恐れられている。特別訓練や斡旋処置および斡旋停止などの処分対象になると、その間の収入が途絶えてしまう。また、練習不足の他にもレース勘の維持などという面や、体調管理にも悪影響を与えるため、競走への復帰後もしばらくの間は成績下降などの「後遺症」が現れることも少なくない。なお特別指導訓練の対象選手は、その累積違反点数と共に一定期間毎に競輪公式ホームページで一覧で公表され、斡旋停止の対象選手についてはJKAが広報などで公示する。その他にも競走参加中における競輪場からのペナルティもあり、無断欠場による費用請求、契約解除による強制欠場、中長期の斡旋停止または拒否などがある。いずれの場合も内容はJKAに報告され、改めて全体的な処分が検討されることになる。なお、これらとは別に日本競輪選手会が問題を起こした選手に対し自粛欠場を要請する形で独自のペナルティを課すこともある(『SS11』の項目も参照)。A級1班およびA級2班のレーサーが3開催連続して「完全優勝」(全ての出走レースにおいて1着となること、俗称:ピンピンピン)を達成した場合は、級班選考期間に関わらず即時に昇級される(通称「特進」または「特昇」。ちなみにA級3班の選手が3開催連続で完全優勝した場合はA級2班に特別昇班する)。また、レインボーカップシリーズという、S級特別昇級9人の枠を争うシリーズが行われている。(前期6月、後期12月)に単発で行われる競走に出走し、1〜3着までが上位級班に特別昇級(特別昇班)する。特別昇級してから2期の間(1年間)は降級および降班しない。昇級は可能となっている。なおレインボーカップから昇級した者は、この期間を3期とする(つまり期末に特別昇級してしまうため、その期間を算入している)。競輪選手のクラス分けは、創成期はA級・B級・C級による3層制であったが、間もなくA級・B級の2層制となり、やがて2層7班制(A級1 - 5班、B級1・2班)に変更され、その後1983年に行われた競輪プログラム改革構想(通称KPK)により、S級・A級・B級の3層9班制(S級1 - 3班、A級1 - 4班、B級1・2班)に移行した。そして2002年4月よりS級・A級の2層5班制に移行し現在に至っている。またKPKから76期(1995年デビュー)までは、新人は当初新人のみで構成される「新人リーグ」で半年間競走を行い、その結果によってA級1班からB級2班に格付けされていたが、その後はB級2班(2002年以降はA級3班)格付けで通常のレースに参加する形態となった。(KPK以前も最下級からのスタートであった)なお2008年前期よりA級3班はA級1・2班から分離され、基本的にA級3班のみの中でトーナメントが行われ、レースの組み合わせもA3同士のみになる。また特別昇級制度も分離され、A級3班においての3場所連続完全優勝はA級2班への「特進」となる(特別昇班)。またS級1班の上位格付けとして『S級S班』が存在する。これはKEIRINグランプリ出場者9名に適用されるいわばトップ中のトップの選手のみが入れる特別ランクで、特別競輪の出場権利・レース斡旋の希望選択・一定期間における公休などの優遇措置が与えられる。当初は「選ばれた後にS班の資格を失くした場合であっても、追加補充は行わないことにする」という規定であったが、2009年は同年1月25日にS級S班であった手島慶介が急逝したため1名の欠員が生じ、5月開催の「SSシリーズ風光る」において出場人数が揃わなくなることから、3月4日に「選出後にS級S班の資格を失効する選手が生じた場合、追加選出を行うことができる」と規定が改正され、これにより選考時の次点であった岡部芳幸が5月1日付で2009年のS級S班に追加選出された。2011年までS級S班は18人であったが、2012年以降は前年のKEIRINグランプリ出場者のみ9人がS級S班格付けとなる。なお武田豊樹はS級S班だった2013年の後期を斡旋停止によりほとんど出走していなかったが、2014年の後期はS級1班に格付けされたことから、S級S班から降格しても3期(適用期間の関係で実質1年間)はS級1班が保証されることになる。競輪選手も自転車選手という側面を持つことから、各種の自転車競技に参加している選手もいる。長い間プロである競輪選手の自転車競技における頂点は世界選手権自転車競技大会であったが、アトランタオリンピックより自転車競技がプロアマオープンとなってからは、競輪選手もオリンピックに出場し活躍するようになった。以上は競輪選手として選手登録される前にアマチュア選手として出場したものである。高校・大学時代から他の競技で活躍した選手が競輪選手に転向する例も多いが、中には他競技でのオリンピック出場者が後に競輪選手へ転向した例もある。特に、競輪学校入学試験における受験資格の中で年齢制限(上限)が撤廃された93期以降で転向する者が増えている。引退後ないし、選手活動を継続しながら政治家となった競輪選手もいる。競輪選手は特に選手寿命が長いことで知られている。過去には68歳の競輪選手がレースに出走したこともあり、60歳を超える競輪選手は過去に何人も存在している。また競輪競技において50代の競輪選手はそれほど珍しいものではない。最近では2004年に当時45歳の競輪選手・松本整が高松宮記念杯競輪を優勝し話題となる(直後に引退)。また1955年生まれの竹内久人(2007年7月に引退)とその長男である竹内公亮、1984年のロス五輪で銅メダリストとなった坂本勉(2011年6月に引退)とその長男である坂本貴史は、共に親子S級在籍を経験している(竹内親子は2006年、坂本親子は2010年 - 2011年上半期)。このように競輪選手の寿命が長い要因として競輪競技の特性が上げられる。競輪競技は自転車というツールを用いて行うため、他の競技と違って骨(つま先・踵)や関節(足首・膝)へ負担がかかりにくい競技と言われる。陸上競技をはじめ、野球、サッカー、相撲等の選手は、自らの足を使ってハードに動き回るため、長年の酷使によって(また地面・アスファルトからの衝撃によって)筋肉より先に骨や関節を痛めてしまう場合が多い。その為30代半ばで足首や膝、股関節、肩、肘、腰に限界が来てしまいやすいのである。競輪選手の場合、自転車というツールが体への負担をサポートしてくれるため、落車等で怪我をしない限り体への負担は軽いのである。また、競輪選手の寿命が長い原因として、他のプロスポーツでは致命的なハンデとなる加齢による(個人差もあるが多くは30代半ばを境に急激に訪れる)ハイパワーでの持久力の低下が、競輪選手の場合、追い込み戦法と呼ばれる戦術をとることで致命的なハンデとはならない状況を生み出せる、といった競輪競技ならではの特殊性がある。これはラインを組んでいる選手を自分の前に走らせ、最後の直線まで先頭選手を自分の風除けとすることで、持久力の消費を極端に少なくする戦法である(スリップストリーム現象により後方選手は風圧を受ける先頭選手の半分以下の消耗度で走れることにより、最終局面でハイパワーを維持できる距離が単純計算で2倍以上となる)。従って、たいていの選手は加齢による持久力低下とともに、レース戦術を追い込み戦法に変えていくことになる。反面、この特殊要因が競輪選手の新陳代謝を阻害しているのではとも指摘されており、実際、近年トップスターの座にいる選手の中に10年以上前からトップスターだった選手が何人もいるといった状況が生じている。なお2016年1月現在の現役最年長選手は、1955年10月10日生まれの三ツ井勉(45期)。競輪学校最年長期選手は1956年10月30日生まれの永澤豊(37期)。競輪選手の労働組合または職能団体にあたる組織として日本競輪選手会がある。他にも競輪選手などが任意で設立したSS11という組織もあり2013年12月に日本競輪選手会から脱退する形で新たな選手会組織として機能させることを表明していたが後に撤回している。過去には1949年から1964年まで「女子競輪」が開催されていたため、女性の選手も存在した。その後、2012年から女子競輪が「ガールズケイリン」として復活したため、女性の選手も48年ぶりに復活した。

出典:wikipedia

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