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天正地震

天正地震(てんしょうじしん)は、天正13年11月29日(1586年1月18日)に日本の中部で発生した巨大地震である。天正大地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)、天酉地震とも呼ばれる。『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている。被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない。なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生した。戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難い時代背景であった。しかし、三河にいた松平家忠の日記によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている。寒川旭『日本人はどんな大地震を経験してきたか』(平凡社新書)によると、養老ー桑名ー四日市断層帯などの三つの大断層が動いたという。震源断層は判明していない。幾つかの説があり、などがある。1998年に行われた地質調査では岐阜県にある養老断層における2つの活動歴が確認され、最新の活動は15世紀以降であることから745年天平地震と共にこの断層が震源断層のひとつであった可能性が高くなったとされている。しかし、これらの説では太平洋側の伊勢湾と日本海側の若狭湾の両方に津波被害が及び、内陸部の被害も大きいことを説明できていない。日本海側沿岸と太平洋沿岸の両方に及ぶ大津波は他に知られていないため。フロイスによる若狭湾の津波記録は琵琶湖沿岸の地滑りによるものとの誤りだと考えられているが、若狭湾の津波については別の資料もある(後述)ため、宇佐見は若狭湾の地震としている。文献による歴史記録や地殻変動の痕跡は年月の経過により失われ、地震像の詳細は不明である。規模は研究者により諸説あり、主な説は、など。琵琶湖湖北(『山槐記』)、若狭湾、伊勢湾に津波があったとされる記録がのこる。しかし、海底下に変位領域が及んでいなくても海面の変動を引き起こす事があり、必ずしも断層が海底に有る必要はない。海岸線から約4.8kmの距離にある水月湖の湖底堆積物調査からは、水月湖に海水が流入した痕跡は見つかっていない。しかし、水月湖までは到達する規模で無ければ痕跡が見つからないのは当然であり、見つからなかったことが津波が生じなかったとする証拠ではないとしている。伊勢湾に津波があったとされる。加路戸、駒江、篠橋、森島、符丁田、中島などは地盤沈下したところに津波が襲来し水没した。善田は泥海と化した。伊勢湾岸では地震とともに海水があふれ溺死者を出した。『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾と思われる場所が山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある。他にジアン・クラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』)や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代。豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある。2011年(平成23年)12月に原子力安全保安院は、敦賀原発の安全性審査のための津波堆積物と文献調査報告を発表した。それによると「仮に天正地震による津波があったとしても、久々子湖に海水が流入した程度の小規模な津波であったものと考えられる。なお、事業者においては念のための調査を今後とも行っていくことが望ましいと考えられる。」としている。2012年12月、再調査結果として大きな津波の後は見つからなかったとしている。2015年(平成27年)5月、福井大学の山本博文教授は福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表した。フロイス『日本史』(5、第60章、第2部77章)吉田兼見『兼見卿記』『舜旧記』(十一月二十九日条)クラッセ『日本教会史』(1689年)『イエズス会日本書翰集』『日本ノ大地震二就キテ』 理學博士大森房吉 震災予防調査会報告 32号 p57-58宮城県本吉郡戸倉村(現在の南三陸町戸倉)口碑に、「天正13年11月29日畿内、東海、東山、北陸大地震の後に津波来襲」という記述があり、太平洋北部にも津波が来襲したか、連動地震による津波があった疑いがある。一方で戸倉の口碑は天正十三年五月十四日(1585年6月11日)と記した史料もあり、日付は異なるが1586年7月9日リマ地震による遠地津波との見方もある。三陸大震災史(1933)『四ツ半時、大地震あり。この時、硫黄山(焼岳)大噴火を起こし、麓中尾村は地形を大きく変貌する。』(顕如上人貝塚御座所日記)。焼岳が噴火したという口碑がある。1586年の天正大地震後、近い時期に大地震が複数起こっている。九州の名護屋にいた秀吉が伏見城を築くときに1592年(文禄元年)普請を担当した京都所司代前田玄以(げんい)に送った書簡に、「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まま」と記されていた。“なまず大事”=城の建築にあたっては地震対策を万全にせよ、という意味であるが、これは1586年の天正地震を念頭に置いたものとみられている。日本原子力発電などによる2012年12月の発表では、天正地震の津波の記録を基にした調査により、敦賀市の猪ヶ池で約5,500年前の地層から津波によるとみられる砂が見つかった。

出典:wikipedia

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