LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

足利義栄

足利 義栄(あしかが よしひで)は、戦国時代の室町幕府第14代将軍(在職:永禄11年(1568年)2月 - 9月)。天文7年(1538年)、足利将軍家の一族で元堺公方・足利義維(平島公方)の長男として阿波国平島荘で生まれる(生年には天文9年(1540年)説もある)。初名として、義親(よしちか)、または7代将軍と同名の義勝(よしかつ)が伝わる。永禄8年(1565年)、永禄の変で従兄の13代将軍・義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害されると、三好三人衆や久秀らによって、中風で将軍の任に堪えられないであろうとされた父・義冬(義維)の代わりに、将軍候補として擁立された。しかし同年11月から三人衆と久秀が権力抗争を開始すると、義親は12月に三人衆に強要されて久秀討伐令を出すことを余儀なくされた。翌永禄9年(1566年)6月、三人衆方の篠原長房・三好康長らに擁されて淡路国に渡海、9月23日には摂津越水城に入城した。そして冬の12月5日には摂津国富田の総持寺に、7日には普門寺に入った。さらに24日には従五位下左馬頭に任官許可が出され、翌永禄10年(1567年)1月5日に正式に叙任され、それと同じくして、名を義栄と改名した。11月、朝廷に対して将軍宣下を申請したが、朝廷の要求した献金に応じられなかったために拒絶された。翌永禄11年(1568年)2月8日、三人衆の推挙により朝廷から第14代将軍として将軍宣下がなされ、将軍に就任した。しかし、三人衆と久秀の抗争が止まず、義栄自身が背中に腫物を患っていたため将軍に就任しても入京することは無かった。永禄11年(1568年)9月、義輝の次弟・足利義昭を織田信長が擁立して上洛してきたため、三人衆は畿内で信長に抗戦したが、敗れて畿内の勢力を失ったため阿波に逃れた。久秀は信長に臣従、障害がなくなった義昭は15代将軍に就任した。その直後、以前から患っていた腫物が悪化して病死した。享年29(または享年31)。没した月日は9月13日・9月30日・10月1日・10月8日・10月20日、10月22日など諸説ある。また死去した場所も阿波国のほかに淡路国、摂津国の普門寺など諸説ある。義輝とは仲が悪かったという。阿波国から摂津国に入った義栄の下には、堺公方を称した父の義冬やその養父であった10代将軍・足利義稙に仕えた幕臣やその子孫が家臣として仕えていたが、義冬・義栄の2代の御内書に付属された副状の発給者となっている畠山維広などその数は限られておりその基盤は脆弱なものであったし、当時、義冬は中風のため隠居しており、発言力は皆無に等しいと言え(足利義視が足利義材の大御所として権勢を揮ったと言うようなこともしていない)、そのため、義輝に仕えていた幕臣の取り込みを図った。当時の在京の幕臣の所領の多くは三好氏の勢力圏にあった京都周辺に集中しており、所領の安堵と引換に義栄の下に置こうとしたのである。この動きに応じたのは大舘輝光や伊勢貞助・小笠原稙盛・秀清父子であった。また、永禄の変の直前に義輝に叛旗を翻したとして討たれた政所頭人(執事)・伊勢貞孝の孫である伊勢虎福丸(後の伊勢貞為)の帰参を許して、伊勢氏宗家の再興を認めている。更に三好三人衆の一人であった三好長逸を御供衆に抜擢している。一方で伊勢貞孝の後任の頭人であった摂津晴門や政所の実務を担当した奉行衆の多くが義輝を殺害した三好三人衆が推す義栄を嫌って、越前国にいる義昭と通じて一部は下向したまま戻る事は無かった。当時の室町幕府の幕臣は武家故実をもって仕える層と相論の裁許や行政事務をもって仕える層(奉行衆)が存在していたが、義栄は伊勢氏や大舘氏など前者の層を取り込むことには成功したものの、諏方氏や飯尾氏、松田氏など後者の層の取り込みは一部しか成功せず、将軍就任後の幕府機構の再建に不安を残す形となった。それでも、父・義冬の時とは違って対抗者である現職の将軍が不在であった(前将軍の実弟である義昭の方が優位ではあったものの、あくまでも義栄と同じ「将軍候補」に過ぎずかつ上洛の目途が立たなかったことに加え、当時僧籍にあった。)ことが義栄の将軍宣下に有利に働いたとみられている。従来は義栄の事跡として、春日大社や朝廷に、太刀や馬を献上したという話ぐらいしか知られておらず、三好三人衆と松永久秀による完全な傀儡将軍と考えられてきたが、三人衆と久秀の対立後は三人衆側に擁されながらも石清水八幡宮の人事に介入して朝廷と対立したり、永禄10年(1567年)5月に発生した京都住民と大徳寺の対立では義栄が派遣した幕府奉行人である松田藤弘が朝廷から派遣された勧修寺晴右とともに仲裁にあたっている。三人衆と久秀の対立は結果的には彼らからの制約を受けなくなった義栄の発言力を高めたと考えられるが、将軍宣下の遅れや在京の幕臣全体(特に奉行衆)の支持が得られなかったこと、主に支えるべき三好家内でも、三好実休と三人衆で認識の差異があることで一枚岩になれなかったなどの影響は大きく、自身の病気や在任期間も短かったこと、それに加えて、後見人の父の義冬の発言力が,義栄と比して巨大すぎたこと(とは言え、三人衆や久秀よりは小さい)なども相まって、将軍在任中に義栄の意向で出された奉行人奉書がわずか2通しか確認できず(義維か義栄か不明なものもあるので、この二通で正しいのかもよくわかっていない。)、将軍としての主体性を発揮できる状況にはなかったとみられている。※日付=旧暦

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。