


岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県。内陸県の一つで、日本の人口重心中央に位置し、その地形は変化に富んでいる。県庁所在地は岐阜市。廃藩置県のとき、ほぼ旧美濃国と旧飛騨国とで構成された。境界整備により一部に旧越前国、旧信濃国、旧尾張国、旧伊勢国も含まれている。北部の飛騨地方の大部分は、標高3,000m級の飛騨山脈をはじめとする山岳地帯で、平地は高山盆地などわずかしかない。一方、南部の美濃地方は、愛知県の伊勢湾沿岸から続く濃尾平野が広がり、低地面積が広い。特に南西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)合流域とその支流域には、水郷地帯が広がり、海抜0m以下の場所もある。この地域には水害から身を守るための輪中と呼ばれる堤防で囲まれた構造あるいはその集落があり、このような岐阜県の地形の特徴を表して、飛山濃水という言葉で表される。岐阜県の河川は6つの水系からなっている。飛騨地方北部は日本海へと注ぐ神通川水系および庄川水系流域。飛騨地方南部は太平洋に注ぐ木曽川水系流域。美濃地方の河川は大部分が太平洋へと流れている。西濃・岐阜・中濃地方と東濃地方北部は木曽川水系流域。東濃地方南部は、庄内川水系および矢作川水系流域。旧越前国の郡上市白鳥町石徹白地区は日本海へと流れる九頭竜川水系流域となっている。各県との県境は、ほとんどが山地山脈。ただし、愛知県尾張地方との県境の大部分および三重県との県境の一部は、木曽川、長良川、揖斐川などの河川が県境となっている。飛騨地方の大部分と美濃地方の一部は日本海側気候、美濃地方の大部分は太平洋側気候、飛騨地方・美濃地方の各一部は中央高地式気候となっており、標高差も大きいため同じ県内であっても気候差が大きい。県内全域で内陸性気候をあわせ持ち、一部地域は豪雪地帯・特別豪雪地帯でたびたび大雪に見舞われる。標高の高い地帯の西側に当たる為に雨雲が発達しやすく、年平均降水量は1700mm~2500mm程度と比較的多い。冬は乾燥した晴天の日が多く、岐阜県西部では、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹く。このため体感温度が北日本並みに一気に低下する日もある。強い冬型の気圧配置になると雪雲が流入し、岐阜県西部で局地的な大雪に見舞われることがある。美濃地方は低い山に囲まれているということもあって、夏は暑く冬は寒いうえ、気温の日較差も大きい。特に東濃の多治見市では、その年の国内最高気温を記録することもある(2007年(平成19年)8月16日、埼玉県熊谷市と並び国内の過去最高気温となる40.9°Cを記録した)。夏期には内陸性の気候に加え、ヒートアイランド現象、さらに西風が吹いた際には、近畿地方の熱風が伊吹山系によりフェーン現象を起こしてさらに気温が上昇するため、高温を記録することが多い。飛騨地方は標高も高いこともあり、気温は美濃地方と比べると低いが、高山盆地では夏期に猛暑日を記録することもある。ただし、湿度が低いため比較的すごしやすい。冬期は内陸山間部では気温が低く、特に高山市荘川町六厩(むまや)は、亜寒帯湿潤気候で本州では寒い地域の1つとも言われており、1981年(昭和56年)2月28日には-25.4度を記録するなど−20°C以下まで下がる日も多い。主な旧国名は、「飛騨国」「美濃国」。わずかに「越前国」「信濃国」「伊勢国」「尾張国」の区域も含む。「岐阜」の名は諸説あり、一説には、織田信長の命名によるとされる。政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩の案によって、「岐山」(殷が周の王朝へと移り変わる時に鳳凰が舞い降りた山とされ、周の文王はこの山で立ち上がり、八の基を築いた)の「岐」と、「曲阜」(学問の祖、孔子が生まれた集落があった魯国の首府にして儒学発祥の地)の「阜」を併せ持つ「岐阜」を選定して、太平と学問の地であれとの意味を込めて命名したとされる。『信長公記』(太田牛一)によると、織田信長が美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井口を岐阜と改めたと書かれている。江戸時代中期の尾張藩の記録の『安土創業録』(名古屋市蓬左文庫蔵書、旧蓬左文庫所蔵・尾張徳川家蔵書)、『濃陽志略』(別名・濃州志略、国立公文書館所蔵)にも信長命名とあり、『岐阜志略』(長瀬寛二、1885年(明治18年))が『安土創業録』の記述を引用して信長が初めて岐阜と命名したとしている。同時代史料を確認してみても、「言継卿記」永禄11年11月10日条に「三州徳川左京大夫所へ沢路隼人佑差下,予岐阜へ下向之次也」。また、ルイス・フロイスの日本耶蘇会年報にも、永禄12年5月,「我等は岐阜の町に著きたり,人口約一万なるべし」。という記述があり、信長命名以前に、岐阜という地名が確認できないことが分かる。他にも、細川両家記や多聞院日記での岐阜の初見は永禄11年である。一方、井口の地名の方は、永禄三年七月廿一日六角承禎の書状に、濃州井口。歴代古案、織田信長の書状に、(永錄七年)仍先月濃州相働、井口近所取出。このことから、信長公記にある1568年(永禄11年)に、信長が井口を岐阜と改めた以前に、岐阜であった事実は確認できない。岐阜は信長命名以前にすでに使用されていたという異論もある。岐阜市案内(岐阜市教育会編、1915年(大正4年))では、「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正の頃より旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記載。『美濃国諸旧記』(寛永正保の作?)には、稲葉山を岐山、里を岐阜と呼び、信長が岐阜・中節・井ノ口・今泉・桑田を合併して、岐府と称したとし、岐阜は古来の字で、信長は岐府と府の字を使ったと主張されている。ただし、忠節・今泉は近世地名(江戸時代)であり、岐阜を岐府と別称した文書はない。また、仁岫録、東陽英朝の語録;少林無孔笛、明応8年孟夏日・土岐成頼画像;東陽英朝賛にいずれも岐阜鐘秀。万里集九の梅花無尽蔵に、岐陽という語句が頻出、岐下風流、雖退去于岐阜陽、とあるが、同書物中では岐陽とは何かについての具体的な説明はなく、梅花無尽蔵注釈;市木武雄において、岐蘇川(木曽川)の陽(北)に位置し、鵜沼・岐阜一帯を指すとするが、同書物中には、木曽川となっており、木曽陽あるいは木陽でないとおかしいし、岐蘇川としても岐蘇陽という表現がないのもおかしいという疑問もある。※木曽川(岐蘇川)由来説の最大の問題点は、承和2年の太政官符に、尾張・美濃両国堺墨俣河という記述があり、古来は墨俣川と呼ばれていることである。当然、川の名前由来で、岐阜岐陽は、成り立たない。1586年(天正14年)6月24日に、木曽川の大洪水が起こり、古来の河道が大変化をして、ほぼ現状となったのである。また、信長は、井口を岐阜と改めたとしているのに、万里集九の梅花無尽蔵には、濃之井口有祥雲院、という記述があり、井口を岐陽としていない。さらに、濃之革県、濃革手、という記述もあり、革手府を岐阜(岐陽)と呼んでいない。井口から相当離れた鵜沼(各務ヶ原市東端)を井口と一帯として岐陽と呼ぶのも無理がある。同書物中には、河陽=駿河国とする記述もあり、となると、岐陽=美濃国=濃陽という広範囲すぎる呼称となり、やはり、信長が井口を岐阜と改めたという事実と矛盾する。なお、万里集九以前に、五山の学僧に岐陽方秀がおり、道号は初め岐山、のち岐陽と改めた、讃岐国出身であることから、岐山=岐陽=讃岐国を意味するか。濃飛両国通史;1923年(大正12年)、安土桃山時代史(昭和14年;著者花見)にも、岐阜命名は信長以前説を唱えている。阿部栄之助の濃飛両国通史を見ると、永禄4年に崇福寺の快川国師(紹喜)が斎藤義龍を「岐陽賢太守」と呼んだとするが、出典不明であり、永禄沙汰には「永祿3年12月24日美濃齋藤義龍、同国の禅家をして、伝燈寺に帰附せしむ、尋で、同国崇福寺紹喜(快川)等、之を憤り、国外に出奔す」という記述があり、永禄4年の段階で、美濃国外退去になりすでに崇福寺の住職ではなく、憤慨した相手の斎藤義龍を賢太守と褒めたとは疑問である。また、御湯殿上日記には、天正9年9月6日正親町天皇が、前妙心寺住持快川(紹喜)に大通智勝国師の号を賜ふ、という記述があり、永禄4年の段階で国師であったはずがないなど、明らかにおかしな記述である。本県でも約3万年前に始まる後期旧石器時代には、濃尾平野北辺部の段丘上や台地(日野遺跡・寺田遺跡・椿洞遺跡)に人々が活動していた遺跡が確認されている。他にも山中の狭い細尾根にある遺跡(揖斐川町藤橋村徳山寺屋敷遺跡)や低湿地の遺跡(飛騨市宮川村宮ノ前遺跡)が確認されている。それらの遺跡から石を割ってで切る剥片でつくった石器、例えばナイフ形石器・削器・細石刃・尖頭器など、また調理に使ったと考えられる礫郡、加工痕のある木片などのいろいろな生活用具が見つかっている。4世紀の中頃には、ヤマト政権の勢力下に入っていた。岐阜県は、令制国の美濃国(18郡・131郷)と飛騨国(3郡・13郷)の二国で構成されている(和名類聚抄)。美濃は「御野」(大宝2年:702の正倉院文書)、飛騨は「裴陀」(養老令)と書かれた。ヒダの国名の表記法が「飛騨」に定着したのは8世紀の前半である。美濃と飛騨国は、東山道に属し、畿内からの本線は近江・美濃を通り、信濃上野へと向かうから美濃から飛騨へは東山道の支線であった。この東山道は古くから利用された。ヤマトタケルの征服伝説にも登場する(『古事記』)。美濃国は、日本のほぼ中心として、昔から歴史上で重要な合戦が多く起こっている。古くは大海人皇子がこの国を拠点に挙兵した壬申の乱(672年)があり、関ケ原町の藤古川付近で激戦が行われた。8世紀には、美濃国府が垂井町府中に置かれた。国分寺は大垣市青野町に設けられた。中世に入ると、美濃国は土岐氏が、飛騨国は京極氏が守護を務める。戦国時代になると、美濃国は斎藤道三や織田信長の活躍の舞台となり、その後、徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦い(1600年)も行われた。飛騨国は姉小路氏が支配し、その後羽柴秀吉に従った金森氏が支配した。江戸時代、徳川幕府は美濃は小藩に分割され、最大でも大垣藩の10万石の他、苗木藩、岩村藩、八幡藩、高富藩、加納藩、尾張藩附家老の竹腰氏の今尾藩、尾張藩分家の高須藩が成立する。また、交代寄合旗本の竹中氏陣屋もあった。飛騨には当初飛騨高山藩の金森氏があったが、元禄期に木材や神岡鉱山に目をつけた幕府が金森氏を転封し、幕府直轄領として統治した。5年ごとに実施される国勢調査の結果、日本の人口重心が決められるが、岐阜県内を東(東京方面)に移動中。2010年(平成22年)の国勢調査では、関市(旧・武儀郡武儀町富之保付近)内となった。県南部を中心に、日系ブラジル人やフィリピン人などの外国人が数多く暮らしている。近年では在日中国人も増えている。特に美濃加茂市では人口の1割は外国人で、工場などで労働者として働いているケースが多い。1990年(平成2年)の入国管理法改正以降、急速に増えていった。彼らの最大の問題は子どもの教育で、日本語が理解できないなどのために不就学になる場合もある。ブラジル学校は県内に数校あるが、大半が無認可である。2008年(平成20年)の世界的経済危機を受けブラジル人が母国へ帰国するケースが少なからずあり、岐阜県は彼らの旅行費用について支援している。近年は中国人に対する日本入国の条件の緩和などにより、主に高山市や白川村など飛騨地方を中心とする県内の観光地では外国人観光客が大幅に増えている傾向がある。大垣市ソフトピアジャパン、各務原市VRテクノジャパンを設立しベンチャー企業の育成を図るなど、IT産業の育成に力を注いでいる。岐阜市では戦後、軍服や古着を売る繊維問屋街ができ、さらに布を仕入れて服を作って売るアパレル産業が盛んになり、全国的な産地となった。2000年代中頃以降は東京や名古屋に押されて問屋街は苦戦しており、ファッションの産地としての生き残りを図るには岐阜の個性ある特徴を打ち出すのが課題となっている。県の多くが山岳地のために林業が盛ん。ヒノキの産出量では国内有数の量で、県内には木材を扱う業者が多い。また、切り出した木を使用した木工品などの工芸品の生産に力を注いでいる。長良川などの清流が県内を流れているため、県を挙げて日本酒・焼酎の生産の振興に乗り出している。恵那市で創業し、多治見市に本部があるバローホールディングスの子会社であるスーパーマーケットバローが県内に70店ある。また、バローホールディングスの子会社である中部薬品が運営するV・drugが県内に101店舗存在する。バローグループは連結売上4000億円を超える岐阜県を代表する流通企業。定期便が飛ぶ空港は県内に存在しない。近隣の空港は名古屋飛行場と中部国際空港(いずれも愛知県)、富山空港(富山県)がある。中京広域圏をエリアとし、名古屋市に本社を置く民放各局(県域局のテレビ愛知を除く)およびNHK名古屋Eテレ(教育テレビ)が本県に中継局を設けている。美濃地方西部の大半や東濃地方の一部(可児市や土岐市以南)では愛知県の県域放送(NHK名古屋総合テレビ、とテレビ愛知、FM AICHI、ZIP-FM、Radio NEO)や三重県の県域放送(三重テレビ、FM三重)が受信可能エリアになる。岐阜県では、県内のさくらと紅葉の名所を33箇所選出している。岐阜県では、美しい農村風景を代表する棚田を後世に伝えるため、ぎふの棚田21選を選出している。2016年にアニメ映画「君の名は。」(飛騨市)と「聲の形」(大垣市)が2か月連続で公開されるなど、アニメの聖地として注目が集まっている。2016年時点の都道府県別アニメ聖地数ランキングでは6位にランクインしている。その理由としてZUU online編集部は、「ひぐらしのなく頃に」(白川村)や「氷菓」(高山市)というヒット作の聖地にあやかった可能性があることと、自然豊かで既存の観光地が多いこと、近くに京都アニメーションがあることの3点を指摘している。岐阜県と隣接する富山県を舞台とする作品も多いことから、2県合わせて「アニメ街道」と呼ばれることがある。
出典:wikipedia
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