黒江 保彦(くろえ やすひこ、1918年(大正7年)2月17日 - 1965年(昭和40年)12月5日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、戦闘機操縦者。元陸軍少佐で伊集院町長、黒江敬吉の四男として生まれる。伊集院中学を経て、1938年(昭和13年)6月、陸軍士官学校航空分校を卒業(第50期)し、航空兵少尉任官。さらに明野陸軍飛行学校で戦技教育を受け、同年10月に卒業。同年11月、飛行第59戦隊(戦隊長今川中佐)附として日中戦争(支那事変・日華事変)中の漢口飛行場に着任し、航法訓練、編隊飛行、単機戦闘、射撃訓練などの訓練を受けた。1939年(昭和14年)ノモンハン事件の勃発により、8月29日に飛行第59戦隊は満蒙(現中国・モンゴル)国境の採塩所飛行場に移動する。黒江はソ連労農赤軍機を相手に初めて実戦を経験し、ノモンハン事件停戦の日9月15日の午前、ソ連領内タムスクの爆撃に参加しソ連機I-15を2機撃墜した。停戦後は漢口へ帰還し、広東、海南島近海、南寧奥地などを転戦した。1941年(昭和16年)1月、陸軍航空士官学校教官として着任する。3月、大尉に進級。9月、陸軍航空審査部(部長今川一策大佐)に転任となり、審査部編成の独立飛行第47中隊(通称かわせみ部隊)に編入される。黒江は後に二式単座戦闘機「鍾馗」となる試作重戦闘機キ44を使用し、明野飛行学校や海軍の横須賀航空隊に出かけて戦技を磨き研究した。同年12月太平洋戦争(大東亜戦争)開戦に向けて独立飛行第47中隊は南方戦線に移動する。翌1942年(昭和17年)1月から戦闘に参加し、1月15日シンガポール攻略で「鍾馗」による撃墜第1号の戦果をあげ戦闘を継続した。その後タイ、ビルマへ順次前進し、先輩の神保大尉や部下たちとともに戦った。4月、ドーリットル空襲を受け独立飛行第47中隊は内地へ移動。黒江は同中隊を離れ「加藤隼戦闘隊」の異名を持つ飛行第64戦隊へ転属となり、第3中隊長に任命された。5月22日の加藤建夫戦隊長の戦死後は先任中隊長として戦隊長を補佐し続けた。1943年(昭和18年)2月12日、八木正巳戦隊長が、2月25日、明楽武世戦隊長が相次いで戦死した後、広瀬吉雄少佐の指揮の下、後に戦隊長となる宮辺英夫大尉らとともに部隊の中級指揮官として任務を遂行した。1944年(昭和19年)1月、陸軍航空審査部に再び着任する。4月、1か月間スマトラ島パレンバンへ出向し、油田防空担当の第3航空軍第9飛行師団戦闘機隊にタ弾攻撃を伝習教育。その後は東京府福生飛行場で各種試作戦闘機や武装の審査を担当しながら防空戦闘にも出動した。鹵獲したアメリカ軍機で各種試験飛行を行なうテストパイロットとしても従事し、B-29が偵察飛行に飛来した際、鹵獲したP-51ムスタング戦闘機に搭乗して一緒に飛行するなど、多くの逸話を残した。黒江はP-51の性能を高く評価し、来るべき日本本土上空での空戦を見越し、陸軍航空審査部による全国各地の防空戦闘機部隊を対象とした模擬空戦のアグレッサー役を務めた。その際、P-51の高性能さと黒江自身の持つ戦闘機操縦技量により訓練相手を圧倒する事もあったため、新米パイロットが相手の際は自信喪失しないようにあえて手心を加えた場合もあった。模擬戦後に「あれでもP-51はまだ本気を出していない」と強く釘を刺す等、現実主義者でありまた理論派でもあった。1945年(昭和20年)秋、敗戦・陸軍の解体により郷里に帰り農業に従事。田畑を耕し馬を飼ったが、食糧難時代で体も痩せ細った。闇商売、行商、サルベージ業など様々な商売を手がけて失敗が続き、莫大な借金を背負い、昭和27、28年ごろは精神的には平然を装っても日々の食べ物にこと欠くどん底状態に陥った。その後、上京し民間の富士航空を経て航空自衛隊に入隊する。ジェット戦闘機の搭乗員として空を飛ぶ生活に戻ることができ、生き生きとした状態を取り戻したという。航空自衛隊では1年間イギリス空軍への留学に派遣され、必死に勉強したと伝えられる。帰国後はジェット戦闘機隊の指揮官などを経て、石川県小松基地の第6航空団司令に就任した。1965年(昭和40年)12月5日、旧軍の少将の地位に当たる空将補まで登りつめ、次世代の空将と目されていた第6航空団司令在任中、妻が止めたにもかかわらず悪天候の中を福井県の越前海岸に磯釣りに出かけ、高波に飲まれ水死した。12月7日の部隊葬では軍歌として知られる飛行第64戦隊歌で送られた。100キロの大きな体躯に天衣無縫なおおらかさと、きめ細やかな感情と心配りの人だった。明るく豪快ながら心配りある人柄は多くの部下に慕われた。タバコの煙をふかし痛飲、放歌高吟では加藤隼戦闘隊の歌をよく歌ったと伝えられる。思ったことは即行動し、家族を驚かすことも多かった。釣りが大好きで釣りに行くと決めたら他の意見をまったく聞かなくなる性分でもあった。また、才能ある文筆家の顔も持ち、第64戦隊時代には同戦隊の第二部隊歌を作詞したり、戦後の著書も数ある陸海軍戦闘機操縦者らによる空戦戦記の中では文学としても評価が高い。
出典:wikipedia
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