ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサート()は、毎年1月1日にウィーン楽友協会の大ホール(黄金のホール)で行なわれるマチネ(昼公演)の演奏会である。ヨハン・シュトラウス2世を中心とするシュトラウス家の楽曲が主に演奏される。映像はライブで世界各国に中継され、世界中の人々がこのコンサートを楽しむ。1939年12月31日にクレメンス・クラウスの指揮により初めて開催され、1941年の第2回からはオーストリア初代大統領カール・レンナーが1950年12月31日に死去した影響で1月14日に延期となった1951年を除いて、1月1日の正午(CET)に開催されるようになった。1955年以降ヴィリー・ボスコフスキーが指揮をし、1959年各国に中継され始めた頃から人気が高まり、現在は全世界の40カ国以上に生中継されている。2002年には小澤征爾が、アジア人ではズービン・メータに続き2人目の指揮者となった。1986年までに登場した指揮者はクラウス、クリップス、ボスコフスキー、マゼールの全部で4人に過ぎないが、1987年のカラヤン以降は、同じ指揮者が2年連続して指揮することはなくなった。ニューイヤーコンサートの曲目の選定はヨハン・シュトラウス協会会長やシュトラウス研究家など「シュトラウス一家の権威」が集まって行われている。そこで決まった提案を指揮者とウィーン・フィルに送付し、この両者で検討される。この際、ポピュラーで取り上げられる回数の多い曲となじみのない曲やニューイヤーコンサート初登場の曲を出来るだけ交互に演奏するプログラムになるよう吟味される(指揮者によっては、その慣習が破られる時もある)。ボスコフスキー時代には、このプログラムから約半数の曲が英デッカにより事前にスタジオ録音されLPとして各国で年末発売されていたが(日本ではキングレコード)、これらのアルバムは十年にわたって曲目の重複が無かった(そのため、キングレコードはシュトラウス生誕150年の1975年にウィンナワルツ大全集と銘打った10枚組セットにまとめて発売した)。この演奏会ではアンコールとして演奏される3曲のうち、2曲目に『美しく青きドナウ』(ヨハン・シュトラウス2世)を、最後の曲に『ラデツキー行進曲』(ヨハン・シュトラウス1世)を演奏するのがならわしとなっている。また『美しく青きドナウ』の冒頭が演奏されると一旦拍手が起こり演奏を中断、指揮者およびウィーン・フィルからの新年の挨拶があり、再び最初から演奏を始めるのもならわしである。新年の挨拶はその年の指揮者により色々な趣向で行なわれる。例えば、2002年のコンサートではウィーン・フィルの楽員に縁のある国の言葉で新年の挨拶を述べるという形で行なわれた(日本語での挨拶はコンサートマスターのライナー・キュッヒル(妻が日本人)が行い、小澤は満州国生まれのため中国語で挨拶した)。2007年はメータが「ルーマニアとブルガリアの欧州連合加盟を歓迎します」という挨拶を英独・現地語他で行った(この両国には、いずれもドナウ川が流れている)。2009年にはダニエル・バレンボイムがあいさつの中で「中東に人間の正義があるように」と英語で語った。イスラエル国籍をもつユダヤ人である彼は、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団などの活動を通じ、中東平和に積極的に献身していたためである。また『ラデツキー行進曲』では、ヴィリー・ボスコフスキー時代は聴衆からの自発的な手拍子であったが、マゼール時代以降指揮者が観客の手拍子にキューを出すのが恒例になった。2001年のニューイヤーコンサートでは『ラデツキー行進曲』のオリジナルバージョンがプログラムのトップを飾った(指揮:アーノンクール)。2005年のニューイヤーコンサートでは直前に起きたインドネシア・スマトラ島沖の地震、津波災害への支援を進める内容の挨拶が第2部の1曲目の後に行なわれ、恒例となっているラデツキー行進曲の演奏は行われなかった(指揮:マゼール)。なお、『美しき青きドナウ』と『ラデツキー行進曲』が演奏会のラストにアンコールで必ず演奏されるようになったのは第二次世界大戦後である。また『ラデツキー行進曲』における聴衆による手拍子や演奏者の新年の挨拶が行われるようになったのはヴィリー・ボスコフスキー時代からである。クラウス時代には『美しく青きドナウ』や『ラデツキー行進曲』など、人気曲の演奏開始早々に聴衆の拍手喝采と大歓声で演奏が中断されてしまうというハプニングがしばしばあったようである。また『ラデツキー行進曲』もそうだが短いポルカなどはアンコールにこたえて2度演奏することもあった。ヴィリー・ボスコフスキー時代には、ウィーン・フィルの打楽器奏者であるフランツ・ブロシェクが毎年愉快な演し物を用意しており、名物となっていた。例えば『ジプシー男爵』の入場行進曲ではブタ飼いシュパンに扮した彼が豚を抱えて登場、場内大爆笑だったり(1969年)、『鍛冶屋のポルカ』では鍛冶屋の親方に扮して飲み食いしながら演奏したり(1971年)、『山賊のギャロップ』では山賊に扮して演奏中の楽員から金品を盗んで回ったり(1972年)、『爆発ポルカ』では工事現場の作業員の格好をして爆破装置のスイッチを押し、曲の最後に舞台上に風船を飛ばしたり紙吹雪を降らせる(1974年)などである。ブロシェク引退後も打楽器パートが中心になって毎年さまざまな趣向が凝らされている。少しエスカレートしすぎた1970年代前半には「今年は悪ふざけをセーブ」という内容の記事が朝日新聞に紹介されたこともあった。1976年はエドゥアルト・シュトラウス1世のポルカでファゴット先端から花火が上がったこともあった。2006年にはエドゥアルト・シュトラウスの『電話のポルカ』の最後で、指揮者のヤンソンスの持っている携帯電話が鳴り出すという演出があった。2008年/2009年には『美しき青きドナウ』のエンディングに、ダンサーの男女を客席通路で踊らせた。また、2008年にはUEFA欧州選手権2008のオーストリアでの開催を記念し、奏者全員がタオルマフラーなどのグッズを身につけて演奏したり、指揮者と演奏者の間でイエローカード、レッドカードの応酬が繰り広げられた。2010年には『シャンパン・ギャロップ』の演奏中に打楽器奏者が実際にシャンパンを開けて乾杯を交わし、プレートルが「私の分はないのか?」と言いたげな仕草をするなどの演出があった。また、1987年には、『春の声』において、ソプラノのキャスリーン・バトルと共演したが、このようなゲストを招く演出はこの後見られない。テノール歌手のプラシド・ドミンゴが、1990年代初頭に指揮者かソリストで出演を希望したところ、ウィーン・フィル側が「コンサートの趣旨に合わない」として出演要請をはねつけたといわれる。一方で、ウィーン少年合唱団はこのコンサートでたびたび共演している。曲目は基本的にシュトラウス一家とウィーン・フィルやシュトラウス一家に縁のある作曲家(オットー・ニコライ、ヨーゼフ・ランナー、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世、フランツ・スッペ、カール・ミヒャエル・ツィーラーなど)の曲で構成されるが、1977年のヴィリー・ボスコフスキーはシューベルトのイタリア風序曲(生誕180年)を、1991年はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(没後200年)の『コントルダンス』第1番K.609「もう飛ぶまいぞ」、同第3番、『ドイツ舞曲』第3番K.605「そり遊び」、ジョアキーノ・ロッシーニ『どろぼうかささぎ』序曲、フランツ・シューベルト(ブルーノ・マデルナ編曲)『ポルカ』『ギャロップ』とシュトラウス一家と離れている作曲家の作品が演奏された(指揮:アバド)。1997年にはフランツ・フォン・スッペの軽騎兵が演奏された。(指揮者はリッカルド・ムーティ)2003年のニューイヤーコンサートではカール・マリア・フォン・ウェーバーの『舞踏への勧誘』とヨハネス・ブラームス(ヨハン・シュトラウス2世と交友関係があった)の『ハンガリー舞曲』第5番・第6番が演奏された(指揮:アーノンクール)。モーツァルト生誕250周年となる2006年のニューイヤーコンサートではモーツァルト『フィガロの結婚』序曲やランナー『モーツァルト党』などが演奏された(指揮:ヤンソンス)。また、2009年には、当コンサート史上はじめてフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの曲が、彼の没後200年を記念して演奏された(曲は交響曲第45番嬰ヘ短調『告別』第4楽章)(指揮:バレンボイム)。2011年には生誕200年を記念してフランツ・リストの『メフィスト・ワルツ第一番』が、他にはジャック・オッフェンバックの『天国と地獄』序曲なども演奏されている(指揮:マゼール)。毎年変わる指揮者は、公式には「楽団員全員による投票によって決定されている」とされている。毎年1月2日に(最近では1日のコンサート中にも)次年の指揮者が、楽団の公式ホームページ上で発表されている。新年の初めであり会場の観客は正装をしているが、新年を祝う気軽で陽気なコンサートである。また、会場で飾られる美しい花々は1980年以来、イタリアのサンレーモ市()から贈られることが伝統となっている。同じプログラムで12月30日はオーストリア軍のために、12月31日夜はジルベスターコンサートとして演奏され、1月1日が本番のニューイヤーコンサートとなる。気軽な雰囲気のコンサートであるがその切符を入手するのは極めて困難で、数ある音楽会の中でも最もプレミアが付く演奏会の一つである。日本人が会場に多い(ときに和服姿の女性)のは非常に有名であるが、この高額なプレミアを支払う財力はもちろんのこと、日本企業がウィーン・フィルやオーストリアとの密接なビジネスパートナーである一つの証明でもある。一方、近年ではウィーン・フィルと国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)政権との関係に対する批判の声が挙がってきている。2012年12月26日には、野党「緑の党 (オーストリア)」は「ナチス政権下のウィーン・フィルの役割を客観的に調査する歴史家委員会を設置すべきだ」と要求しているとオーストリア通信(APA)が報じた。
上記報道によると、緑の党議員で歴史学者のハラルド・ヴァルザー氏は「ニューイヤー・コンサートはナチス政権の文化政策の一環だった」と主張する。
同議員によれば、「ウィーン・フィルのユダヤ系楽団メンバーがナチス政権によって強制収容所に送られ、そこで殺されたが、ウィーン・フィルはこれまで彼らを慰霊するコンサートを開催したことがない一方、ナチス政権の全国青少年指導者で戦争犯罪人と判決されたバルドゥール・フォン・シーラッハに名誉リンクを授与している」と批判し、「正しい歴史認識を拒否することはウィーン・フィルの名誉を傷つけるだけでなく、オーストリア共和国の名誉を傷つける。ウィーン・フィルの6人のユダヤ系メンバーがナチスに殺された。当時、楽団の解散は回避されたが、ナチスの政治プロパガンダにその演奏活動が利用されたことは事実だ」と述べている。
それに対し、ウィーン・フィルのクレメンス・ヘルスベルク楽団長はオーストリアのメディアのインタビューに答え、「1939年のニューイヤー・コンサートの発足はオーストリア国民に対する崇高な思いであり、一種の抵抗運動でもあった」と説明し、ナチス政権に迎合していたという批判を一蹴している。
なお、ウィーン・フィルのサイトでは「かつてのオーストリアの歴史の暗い一幕において、ニューイヤー・コンサートはオーストリア国民に自国へ回帰の念を呼び起こし、同時によりよい時代への希望をもたらした」と記述されている。
さらに、シュトラウス・ファミリーはユダヤ系であり、シュトラウス兄弟の母アンナ・シュトレイムはロマの血を引いているという説もある。
オーストリアでは戦後60年以上を経過した今日でも、反ユダヤ主義を標榜した政治家、文化人への追求、ナチス政権との関わりを検証する動きがある。1959年からオーストリア放送協会(ORF)の制作によりテレビ中継が始まったが、当初はユーロビジョンを通じての、それも第二部だけの放送であった。日本では1973年から録画放送が一月中旬に放送されるようになった。1980年から衛星中継により世界各国で第一部、二部と全コンサートがリアルタイムに楽しむことが出来るようになった。ブライアン・ラージが長年映像監督を務めていた(2011年でその職を退いた。)。NHKのテレビ中継は1980年代までFMで全編、教育テレビで後半のみ生中継という体制が続き、1991年にBSでの全編テレビ生中継が始まった。それ以降はBS2、BSハイビジョンとFMで全編放送、教育テレビで後半のみ放送という形をとってきたが、2006年は総合テレビ、BS2、BSハイビジョンとFMで全編放送、さらに1月3日に教育テレビで再放送するという積極的な形となった。2007年は地上波中継が再び教育テレビに戻され全編放送は行なったが、再放送は1月6日(総合テレビ)と例年より遅くなった。2012年の放送は教育テレビ・FM放送(「NHKネットラジオ らじる★らじる」でも同時配信)の生放送と総合テレビの後半部分中心の再放送(1月7日)、BSプレミアムでの全編再放送(1月9日)である。2014年の放送は教育テレビとFM放送の生放送のみで、前回まで行われていた総合テレビとBSプレミアムでの再放送は行われなかった。なお、2013年以降は「NHKネットラジオ らじる★らじる」では配信されなくなった(フィラー音楽に差し替え)。レコーディングはクレメンス・クラウス時代にデッカ・レコードに録音された1953年(これはスタジオ録音である)のものが最古であるが、翌年の1954年のものはオーパス蔵からリリースされており、現在でも聴くことができる。ヴィリー・ボスコフスキー時代は毎年LP1枚分のスタジオ録音を行い、コンサートのスーベニア(お土産)のような意味合いで年末に近い時期にリリースしており、1975年のライブ録音のリリースは画期的な出来事だった。さらにヴィリー・ボスコフスキー最後のニューイヤーである1979年のものはデッカ・レコード初のデジタルレコーディングとしてライブ録音され、当時としては異例のスピードリリースとしてヨーロッパでは4月、日本では5月に発売された。マゼール時代にもっぱらライブ録音となり、1980年から1983年までの毎年、LP1枚分の抜粋でリリースされた。1984年から1986年までリリースがなかった後、カラヤン以降、毎年ライブ録音がリリースされている。また、カラヤンが登場した1987年はレーザーディスクの普及期にあたり、ライブ映像商品としてのリリースもここから始まっている。ライブ録音は1979年のヴィリー・ボスコフスキー、1992年のクライバーを例外として、1995年のメータまではCD1枚分に抜粋した曲目でのリリースであったが、1996年(マゼール)以降は基本的に演奏曲目を全部収録したCD2枚組でのリリースになった。演奏会後、だいたい1週間後にはライヴ録音が店頭に並んでいる(日本盤は少し遅れる)。ヴィリー・ボスコフスキー時代は当時ウィーン・フィルと専属録音契約していたデッカ・レコードが録音・リリースを行い、この形は専属解消後も1979年まで続いた。その後は指揮者の契約先が録音・リリースを行うことが多く、マゼールの時代から1988年のアバドまでの録音はドイツ・グラモフォンに移り、1989年、1992年のクライバーの録音がソニー・ミュージックエンタテインメントから出た時期から様々なレーベルでリリースされるようになった。近年でもドイツ・グラモフォンでのリリースが多いが、他にフィリップス(ムーティ、小澤)、EMI(ムーティ)、ソニー・ミュージックエンタテインメント(メータ、マゼール)、RCAレコード(メータ、マゼール)、テルデック(アーノンクール)がレコーディングしている。ムーティとアーノンクールの最近の出演はドイツ・グラモフォンがリリースしている(移籍があったため)。2008年はCD、DVDとも29年ぶりにデッカ・レコードレーベルからのリリースとなった。2009年、iTunes Storeが、演奏からわずか5日後の1月6日に、全曲のネット配信を開始した。なお、テレビ中継・レコーディングともども放映拒否・発売拒否できない条項が出演契約の中に含まれている。稀代のレコーディング嫌いであり、レコーディングしても時々お蔵入りにさせていたクライバーもその条項を翻すことは出来なかった。とはいえ、契約の中に「出演キャンセルできない」という条項はなかったので、ウィーン・フィルとORFでは12月31日の収録を1月1日と同じように行ったり、代役の指揮者を用意しておく(エーリッヒ・ビンダー、クラウディオ・アバドなど)など、相当神経を使っていた。
出典:wikipedia
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