石上 宅嗣(いそのかみ の やかつぐ、天平元年(729年) - 天応元年6月24日(781年7月23日))は、奈良時代後期の公卿・文人。姓は石上朝臣、のち物部朝臣、石上大朝臣。左大臣・石上麻呂の孫。中納言・石上乙麻呂の子。官位は正三位・大納言、贈正二位。天平勝宝3年(751年)従五位下に昇叙し、治部少輔に任ぜられる。天平勝宝9年(757年)従五位上・相模守に叙任されると、天平宝字3年(759年)三河守、天平宝字5年(761年)上総守と藤原仲麻呂政権下で地方官を歴任。また、同年遣唐副使に任命されたが、唐に渡ることなく、翌天平宝字6年(762年)藤原田麻呂に交代して辞任している。天平宝字7年(763年)文部大輔。藤原宿奈麻呂・佐伯今毛人・大伴家持とともに、当時の権力を握っていた太師・恵美押勝を除こうとして失敗、天平宝字8年(764年)正月に大宰少弐に左遷されるが、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚すると、宅嗣は復権し同年10月正五位上・常陸守に叙任された。その後の道鏡政権下では順調に昇進し、天平神護元年(765年)従四位下・中衛中将、翌天平神護2年(766年)には参議として公卿に列し、同年正四位下に昇叙。神護景雲2年(768年)には従三位に叙せられた。神護景雲4年(770年)称徳天皇の崩御に際して、参議として藤原永手らとともに光仁天皇を擁立する。光仁朝でも重用され、宝亀2年(771年)中納言、宝亀11年(780年)には大納言に昇進し、右大臣・大中臣清麻呂、内大臣・藤原魚名に次いで、太政官で第三位の席次を占めた。また、この間大宰帥・式部卿・中務卿・皇太子傅を歴任する一方、宝亀6年(775年)物部朝臣、宝亀10年(779年)石上大朝臣に改姓している。天応元年(781年)4月に正三位に叙せられるが、同年6月24日薨去。最終官位は大納言正三位兼式部卿。即日正二位の位階を贈られた。臨終にあたっては薄葬とするように遺言し、時の人々は宅嗣の死を悼んだという。賢明で悟りが早く、立派な容姿をしていた。また、発言や振る舞いに落ち着きがあり雅やかであったという。経書・歴史書を大変好み、幅広い書籍に通じていた。また、文を作ることも好み、草書・隷書とも上手であった。漢詩人でもあり、風景山水に出会うたびに詩文の主題とした。数十首の漢詩や賦の作品を著して、世間に広く伝わり朗誦され、『経国集』にも作品が収められている。淡海三船と並んで文人の筆頭と称された。仏道にも通じ、『浄名経讃』『念仏五更讃』を著している。旧宅に阿閦寺(あしゅくじ)を建立し、その片隅に書庫を設け、これを芸亭と名付け、主として仏教経典以外の書物である外典(げてん)を一般に公開した。この芸亭は日本最初の公開型の図書館とされており、宅嗣が没した頃にはまだ存在していたという。『続日本紀』による。
出典:wikipedia
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