神内 靖(かみうち やすし、1983年8月12日 - )は、京都府綾部市出身の元プロ野球選手(投手)。延岡学園高等学校では第82回全国高等学校野球選手権大会に出場し、宮崎県内では「右の寺原、左の神内」と呼ばれるほどの評判の投手で、互いにライバル関係を築いていた。寺原はその後、第83回全国高等学校野球選手権大会で注目を浴びた後に4球団から1巡目で指名を受け、福岡ダイエーホークスへ入団しているが、神内も2001年のドラフト会議において、福岡ダイエーホークスから4巡目で指名を受け、入団。プロ入り後すぐに結果を残した寺原とは対照的に、神内は高校時代から課題である制球難によってウエスタン・リーグでも十分な成績を残せなかった。7月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦(福岡ドーム)でプロ初先発を果たし、勝利投手にはなれなかったものの7回無失点と上々の結果を残した。この活躍が認められ、この年は12試合に登板した。4月2日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で中継ぎでプロ初勝利を果たすと、手薄だった左の中継ぎとして一軍に定着し、前年より倍以上の46試合に登板、防御率3.26・17ホールドと好成績を残した。からはさらなる活躍を目指すために大幅な肉体改造を行ったが、これによって体重が10kg増加すると同時に球速も10km/h近く速くなった。同年5月18日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で初先発勝利を果たすと何度か先発を任され、自己最多となる6勝を挙げた。特にチームが苦手としていた対北海道日本ハムファイターズ戦では6試合で2勝・防御率1.10を記録するなど、幾度となくチームの危機を救ったが、後半に入ると6連戦がほとんど無い緩い日程だったためにコマ不足が解消され、登板機会は多くなかった。同年6月18日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)では、先発して6回途中まで11個の三振を奪ったが、神内の後を三瀬幸司・吉武真太郎・篠原貴行・藤岡好明・馬原孝浩のリレーで、1試合最多タイ(継投による達成は史上初)となる19奪三振を記録した。しかし、度重なる連投などから肘への負担が増していき、3月25日に群馬県内の病院で左肘内側側副じん帯の手術を行った。このリハビリのため、この年の一軍登板はなし。4月5日の対オリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)で、約2年ぶりとなる一軍登板を果たし勝利投手となった。4月14日の対オリックス・バファローズ戦 (京セラドーム大阪) で、降板した後に自らグラブを投げつけたり、ベンチの背もたれを蹴る等乱暴な行為をしたため15日に神内を厳重注意処分としてベンチの破損部分の修理代金7万円を請求した。神内は「自分のピッチングの不甲斐無さに苛立ちを抑えることができず、ついあのような行為をしてしまい、本当に反省しています」とコメントしている。は一軍登板が2試合で防御率16.20と自己最低の成績に終わった。ウエスタン・リーグでは31試合に登板して防御率2.94とまずまずな成績を残していたが、一軍昇格は果たせなかった。は開幕一軍で迎えるも、初登板となった同年4月3日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では暴投で失点するなど、結果を残せなかった。一度降格した後に再昇格した後は成績も安定し、この年は4ホールドを記録した。しかしシーズン終盤に入ると疲労感から打ち込まれる試合が目立ち、8月27日に再降格後は一軍昇格がないまま終わった。11月、吉川輝昭・多村仁志と共に山本省吾・江尻慎太郎・吉村裕基との3対3の交換トレードで横浜DeNAベイスターズへ移籍。背番号は、ソフトバンク時代と同じ38に決まった。シーズンは序盤から中継ぎとして一軍に帯同。6月3日の対日本ハム戦では3年ぶりに先発登板するも、4回5失点、四死球4、被安打7と安定せず敗戦投手となり二軍落ち。以降シーズン終盤まで一軍での登板がなかった。、10月3日に球団から戦力外通告を受けた。12月2日、自由契約公示された。直球は最速148km/hながら、140km/hを下回ることが多い。しかし球速表示以上に球に力があり、試合中盤で2桁奪三振を記録することも度々あった。変化球はスライダー、カーブ、チェンジアップを投げるが決め球として用いることは少ない。初回から全力で投げ込むスタイルのパワーピッチャー。
出典:wikipedia
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