ならまち(奈良町)は、奈良県奈良市の中心市街地東南部に位置する、歴史的町並みが残る地域の通称。「奈良町」という行政地名はない。狭い街路に、江戸時代以降の町屋が数多く建ち並ぶ。ほぼ全域が元興寺の旧境内にあたる。周辺を含む49.3ヘクタールが奈良市により奈良町都市景観形成地区に指定されている。この地域には、発掘調査で8世紀の平城京以前の古墳も発見されているが、都市としての発展は、710年(和銅3年)に遷都した奈良の都・平城京の外京として多くの社寺が置かれたことに始まる。784年(延暦3年)の長岡京遷都後も、東大寺や春日大社、興福寺のお膝元として都市機能を維持した。中世以降、元興寺旧境内に様々な産業(筆、墨、蚊帳、晒、布団、刀、酒、醤油など)が発展し、江戸時代には有力商工業都市として町が形成された。奈良奉行による17世紀末の調査では、人口3万5,000人を数えている。第二次世界大戦の大規模空襲を免れ、街路と建築が残った。奈良市は比較的小さな都市のため空襲予定リストの下位にあり、都市空襲が実施される前に終戦を迎えた。戦後は奈良市旧市街地として栄えた。現在は、社寺、公共文化施設のほか、町屋の原型や外観を保ちつつ、現代風に改装された飲食店、雑貨店、ギャラリー、ゲストハウス等が町内各地に点在することから、奈良の新たな観光スポットとして注目を集め、細かく入り組んだ路地を歩きながら歴史的風情を楽しむ観光客で賑わっている。一方で、伝統的な町屋がハウスメーカー製の近代的な住宅に建て替えられるなどの事例も散見され、景観形成上の課題となっている。また、極端な高齢化は止まらず、貸家アパートが少なく、町としての活力をどう維持するか模索が続いている。2014年2月にならまちを通る道路猿沢線の鶴福院商店街周辺を、観光バスの通行の便などを理由に拡幅する計画が奈良市から発表され、景観を守りたい地元住民を中心に反対運動が起きている。20世紀後半には地域住民による町屋保存活動が活発化し、1984年には社団法人奈良まちづくりセンターを設立。市民主体のまちづくりシンクタンク社団法人の設立は全国でも初めてのことで、各地のまちづくり運動の先鞭をつけた画期的な事例である。奈良まちづくりセンターは奈良市のいくつかの審議会にも参加し、公益商工団体とも協力関係にあった。その市への提言に乗じて、西田栄三奈良市長が主導して、町屋建て替えに際し、外見の許可制限があり、当時500万円の補助上限のある伝統的建築物群保存地区に強引に条例化し指定しようとした。しかし、実際には戦後の住宅が5〜8割を占める地区が大半で、一戸当たり町屋の外見形態への建て替えの持ち出し金が数千万円となり、「戦後に建てた普通の住宅を町屋に新しく市民の莫大な負担で建てることになる」とこれに多くの住民が理不尽だと反対した。しかし、きっかけとなった奈良まちづくりセンターは、講演で及び腰にわずかに「好ましくない」などと触れる程度であった。そのため、奈良町資料館長 南氏を中心に有意自治会が連合し運動で撤回させた。その後市が譲歩し、1990年4月、規制が緩く、建て替えに際し景観地区として奈良市が勧告できる奈良市都市景観条例に基づき「奈良町都市景観形成地区」(面積約48.1ha)の指定を受けた。しかし、これによって奈良町住民の奈良まちづくりセンターへの不信感が大きくなり、奈良町出身・在住の役員が何人も辞めた。
出典:wikipedia
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