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北天佑勝彦

北天佑 勝彦(ほくてんゆう かつひこ、本名:千葉 勝彦(ちば かつひこ)、1960年8月8日 - 2006年6月23日)は、北海道室蘭市出身で三保ヶ関部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。後の年寄・二十山。現役時代の体格は身長183cm、体重149kg。実弟も角界入りし、九重部屋で、富士昇の四股名で三段目まで昇進した。血液型はO型、趣味はゴルフ、水墨画。またその端整なマスクから女性からの人気が高く、当時としては珍しく女性ファンから黄色い声援が上がっていた。四股名の由来は「北の天に生まれ人の右に出る」から取られている。均整の取れた柔軟な体格で、スカウト、命名した9代三保ヶ関(元大関・先代増位山)のみならず角界関係者から期待され、「末は大関、横綱」と期待された(「双葉山の再来」、「未来の双葉山」とも称された)。若手時代には関係者から「転がっているだけでも強くなれる」と評され、特に9代三保ヶ関は「北の湖と北天佑を東西の横綱に並べるのが夢」とまで言い切っていた。1976年1月場所、本名の千葉で初土俵。1978年1月場所、幕下昇進を機に北天佑勝彦と改名。幕下時代の1979年7月場所では三保ヶ関部屋の力士が流行性肝炎に多数感染。北天佑もその一人で初日から休場するも8日目から出場している。1980年3月場所、東幕下2枚目で7戦全勝で幕下優勝を果たし、翌5月場所に19歳で十両昇進。十両を3場所で通過して同年11月場所20歳で新入幕。入幕3場所目の1981年3月場所横綱若乃花から初金星を獲得。翌5月場所では9勝6敗で初の敢闘賞を受賞し、7月場所で小結昇進。以後3場所連続で小結を保つも、同年末にはバラエティ番組の収録中に怪我をしたことによる休場のため一度は幕尻まで下がる。しかし徐々に番付を戻し1982年9月場所では若乃花、千代の富士の両横綱から金星を獲得し10勝5敗の成績で2度目の敢闘賞。翌11月場所で小結に復帰。その場所では8勝7敗と勝ち越し殊勲賞を受賞。さらに新関脇の1983年1月場所で11勝4敗。3月場所は12勝3敗の成績を挙げ、初の大関挑戦となった5月場所では14勝1敗で初優勝を果たした。特に優勝決定の一番は北天佑の「勇み足」ではないかと物言いが付き、北天佑の足が出るのと出羽の花の体が崩れるのが同時という判定が下った末に北天佑が取り直しの一番で左に変化して勝利を掴んだものであった。これにより大関昇進目安条件の三役3場所33勝を大幅に上回る37勝8敗で推挙された。22歳9カ月での大関昇進は当時では大鵬・北の湖・玉乃島(後の横綱玉の海)・貴ノ花に次ぐ5番目の年少記録。入門時の期待通りの出世に横綱は間近とも言われ、前述の9代三保ヶ関の「北の湖と北天佑を東西の横綱に並べるのが夢」という言葉もすぐに実現できるものと期待されていた。ところが大関昇進後はこれまでの荒々しい豪快な相撲が影を潜め、目先の勝ち星のために相撲が消極的になってしまうなど相撲のペースを崩し、優勝や綱取りまではいかなくなってしまった。それでも1984年5月場所では、13日目に優勝争いをしていた横綱隆の里を下し、兄弟子の北の湖の24回目の幕内最高優勝(北の湖最後の優勝)をアシストした。この際に北天佑は、控えに座っていた北の湖の方を振り返り、思わず土俵上で微笑み、北の湖もそれに笑顔で応えるという場面があった。1984年11月場所では、当時破竹の勢いの小錦と対戦、これを四つ相撲の寄り切りで退けた。以後も豪快な左下手投げで裏返しにするなど小錦に6連勝している。この場所は12日目に全勝の千代の富士を下すもその後下位力士に3連敗し8勝7敗に終わるなど、好不調の波が大きかった。この翌場所1985年1月場所では北の湖が引退、9代三保ヶ関(前年11月で角界を定年退職)の夢はかなわなかった。北天佑自身も尊敬する兄弟子の引退に涙を流した。同年7月場所では千代の富士、北尾、大乃国との優勝争いに競り勝ち、13勝2敗で2度目の優勝を果たす。翌9月場所が初の綱取りとなったが、初日から白星を重ねるも、引退したばかりの北の湖からは「横綱を狙う者の相撲ではない」と内容の悪さを酷評されてしまう。この場所の北天佑は後半に5連敗して9勝6敗に終わりあえなく綱取り失敗。場所後に9代三保ヶ関が死去、北天佑の横綱姿を見ること無くこの世を去った。翌11月場所では盛り返して12勝3敗の成績を挙げ、再び綱取りへの期待が高まるも翌年1986年1月場所では8勝7敗に終わりまたも綱取り失敗。以後は優勝や綱取りのチャンスは巡ってこなかった。同年7月場所では糖尿病を患い6勝9敗で自身初の皆勤負け越し。また1987年3月場所8日目の小錦戦で左膝を負傷してしまい、取り直しの相撲では小錦が北天佑の怪我を庇いながら寄り切られる内容で敗戦、大関昇進後初の途中休場となった(公傷適用により2場所連続休場)。翌年の1988年5月場所では左肩を負傷して途中休場。さらに1989年11月場所では右肘を負傷し、大関昇進後自身皆勤場所でワーストの5勝10敗に終わってしまう。豪快な取り口の反面、技が力任せだった事も災いし、怪我も多くなったこともあり、晩年はさらに相撲が小さくまとまってしまったところがあった。大関陥落はなかったものの、9勝や8勝が多く、それゆえに現役晩年は朝潮と共に「三役の主」「クンロク大関」と皮肉られることも多かった。ちなみに千秋楽に朝潮の勝ち越しや角番脱出がかかる一番では、北天佑の0勝3敗と一度も勝っていない。更に、自身が千秋楽に二桁勝ちをかける際にも割を当てられて敗れ、たびたび二桁勝ちを阻まれている。それでも1988年11月場所から翌年9月場所にかけては平均勝ち星を二桁とし、1989年1月場所では10勝5敗で横綱千代の富士から3年ぶりの勝ち星を挙げ、翌3月場所では12勝3敗の好成績で、久々に終盤まで優勝を争う活躍を見せた。さらに同年7月場所は千秋楽では千代の富士を下して、同部屋横綱による優勝決定戦(千代の富士vs北勝海)をもたらした。4度目の大関角番だった1990年1月場所での10勝5敗が最後の二桁勝ち星となり、4場所後の同年9月場所途中に引退を表明した。この時点では角番どころか負け越しもしていなかった状況であったが、場所前に左手の指を痛めており場所に入って悪化させてしまったのが致命的となった。引退会見では2連勝の後の4連敗で引退を決意したと語り、あと6場所で貴ノ花が持つ当時の大関在位記録1位の50場所に並ぶというところで土俵を去った。なお北天佑の大関在位44場所は、当時大相撲史上第2位の記録だった(現在は共に大関在位数1位タイ記録・65場所の千代大海と魁皇、琴欧洲に抜かれて史上第5位)。現役引退後は年寄「二十山」を襲名。一旦は三保ヶ関部屋付きの親方として後進の指導に当たったが、元々独立は認められており、1994年6月に内弟子6人を連れて二十山部屋を興した。その後はロシア出身の白露山を幕内力士に育てあげた。しかし、審判委員を務めていた2006年3月場所中に体の不調を訴えて緊急入院。当初病名は「多発性脳梗塞により入院加療2週間」と発表されたものの、精密検査の結果は同時に腎臓癌とその転移による悪性脳腫瘍を発病していた(入院時は癌・脳腫瘍の件は発表されなかった)。既に癌は末期であり、親しい知人には「1年もたないかもしれない」と死期を語り、遺言を作るなどして身辺を整理していたという。それから僅か3ヶ月後の2006年6月23日、腎臓癌のため東京大学医学部付属病院で死去。まだ45歳という若さであった。また、番付発表直前の死であったために、7月場所の番付には二十山勝彦の名が掲載されたままであった。亡くなる1年程前から、腎臓癌の症状である血尿が出ていたが、現役時代から稽古上がりによく血尿が出ていたために、「若い頃は毎日こうだったんだから心配無い」と病を疑わずにいたことが死後になり新聞等に掲載された。なお、二十山部屋所属の11人の弟子に継承者となるべき親方がいないため(師匠がいない力士は土俵に上がることができない)、病床で事後を託されたという兄弟子の北の湖部屋に移籍した。しかし、白露山は2008年9月に体内から大麻陽性反応が出るという不祥事を起こし解雇されている。握力が左右ともに100kg近くあり、角界で3本の指に入る程の怪力で知られた。特にその腕力から繰り出される喉輪は対戦力士に恐れられた。上位力士に対して強く、当時の横綱・若乃花と千代の富士に対し、金星を多く挙げている。特に千代の富士に対しては、がっぷり四つからの吊り・寄りを武器に一時期は1984年1月場所から5連勝(ただし不戦勝1を含む)しており、同年11月場所終了時点では10勝9敗と勝ち越していた。「北海の白熊」とも呼ばれた均整のとれた体とパワーは、当時の九重親方(元横綱・北の富士)をして「うちの幕下全員と北天佑を交換したいぐらい」と言わしめた程であった。2回目の優勝以降、怪我や病気で思うように勝ち星があげられない事は本人も悩んでおり、「10勝が大関の勝ち越しだと思う」と常々口にしていた(兄弟子の横綱北の湖が「横綱は12勝、大関は10勝がノルマ」と常日頃言っていた影響によるものと思われる)。また大関相撲とはどういうものか本人に迷いがあり、試行錯誤を繰り返しているうちに昇進当初の勢いが失われてしまったとも告白している。1986年1月場所で、小錦を下手投げで下した際に大きな地響きとともに両国国技館が大きく揺れた。NHKの中継画面でも大きく上下に揺れた。北天佑の力強さを表すエピソードである。昭和から平成にかけ、足掛け8年務めた大関の在位数44場所は引退当時で歴代2位、現在(2013年)歴代5位の記録となっている。引退時には、長きにわたって大関を勤めたことや引き際の潔さを評価する声も多かったが、その一方で上述の通り、大関昇進後に相撲ぶりが変わってしまったことで横綱昇進のチャンスを失い、期待されていた才能を開花させぬまま終わったことを惜しむ声も多かった。引退に際し当時の二子山理事長は「貴ノ花の大関在位50場所に迫るというより、それ以前に横綱になると思っていた」と語っている。一旦はカモにした横綱・千代の富士とは14勝33敗。上記のとおり1984年は不戦勝を含む5連勝を記録したほか、大関昇進以前から対戦成績は拮抗していた。しかし2度目の優勝をした1985年7月場所以降3年間(不戦勝を除く)勝てなくなった。しかし千代の富士戦14勝は、横綱・隆の里の16勝(12敗)、大関・朝潮の15勝(31敗)に次ぐ勝ち星である。隆の里には8勝13敗、横綱・大乃国には14勝22敗、朝潮には16勝25敗、大関・若嶋津には14勝17敗、横綱・旭富士には16勝22敗、大関・霧島には4勝8敗と負け越している。しかし大関・琴風には12勝12敗と互角、横綱・北勝海には18勝17敗、大関・小錦には17勝13敗と勝ち越している。北勝海と小錦に対しては、2人が大関昇進以前に大きく勝ち越していたのが大きい。

出典:wikipedia

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