松平 義昌(まつだいら よしまさ、慶安4年11月18日(1651年12月30日) - 正徳3年閏5月20日(1713年7月12日))は、江戸時代前期の大名。陸奥梁川藩の初代藩主。尾張藩主・徳川光友の長男。母は側室の勘解由小路(樋口信孝の娘)。後に光友の御簾中(正妻)千代姫(霊仙院)の養子となる。母が側室のため三男として扱われた。徳川綱誠、松平義行の庶兄に当たる。幼名は次郎太。通称出雲。初名義則。寛文11年(1671年)6月8日に、丹羽光重の娘と婚姻し、大久保邸に移り大久保松平家と通称されるようになる。延宝6(1678年)年7月26日に儀利から義昌に改名。寛文6年(1666年)3月28日に従四位下出雲守左近衛少将に任じられる。天和3年(1683年)8月、幕府より3万石を与えられて、尾張藩の御連枝(分家)として陸奥梁川藩を立藩。領地に赴くことなく江戸に定府し、名古屋城下にも邸を構えた。城下町の建設や役人制度、新田開発、検地などに努めて藩政を確立した。一方、物価高騰による藩財政の窮乏から、元禄8年(1695年)以降にたびたび年貢率を引き上げ、新たに課役を設けるなどしたため、農民の負担も重くした。元禄6年(1693年)8月1日、江戸本庄に御下屋敷5,000坪を拝領。正徳3年(1713年)正月から病を得て、閏5月20日に死去し、跡を五男の義賢(松平義方)が継いだ。法名は得安院殿。子女
出典:wikipedia
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