ナイスネイチャ(1988年4月16日 - )は日本の競走馬、種牡馬。1990年から1996年まで中央競馬で41戦7勝の成績を残し、うち重賞を4勝。GI戦線で長らく活躍し、3着が多い「ブロンズコレクター」として人気を博した。1991年から1993年の有馬記念では3年連続3着という記録を残した。主戦騎手は松永昌博。馬名は英語で「素晴らしい素質(Nice Nature)」の意。※年齢は当馬の現役時代に合わせ旧表記(数え年)にて記載。1988年、北海道浦河町の渡辺牧場に生まれる。父はカナダで重賞6勝を挙げたナイスダンサー、母ウラカワミユキは中央競馬でチューリップ賞(当時オープン特別競走)を含む3勝を挙げ、本馬の馬主ともなる豊嶌正雄が渡辺牧場に預託していた。場主の渡辺一馬によれば幼駒の頃はこれといった特徴のない平均的な馬で、育成牧場でも目立つことはなかったが、渡辺は漠然と同じナイスダンサー産駒のナイスナイスナイス(きさらぎ賞、京都記念の勝利馬)程度には走るのではないかと感じていたという。管理調教師となる松永善晴は早くから「いい馬だ」という印象を抱き、成長具合を見るたびに「いい方向に変わってきた」と感じていたという。競走年齢の3歳に達した1990年夏、滋賀県栗東トレーニングセンターの松永厩舎に入る。姉が初戦で筋を痛めてそのまま引退していたことからナイスネイチャは慎重に調教を積まれ、デビューは12月と比較的遅い時期となった。1990年12月1日、京都開催の新馬戦でデビュー。初戦は後方から、最後の直線で進路が塞がる不利を受けながら僅差の2着に追い込んだ。2週間後の2戦目で1番人気に応え初勝利。年明けから春のクラシック出走を目指したが、福寿草特別でシスタートウショウの6着、若駒ステークスでトウカイテイオーの3着と勝ち上がれず、骨膜炎も発症して休養に入り、クラシックの皐月賞や東京優駿(日本ダービー)には出走できなかった。7月に中京開催で復帰。緒戦を2着としたのち、小倉に転戦して条件戦を2連勝した。8月末に小倉記念で重賞に初出走、古馬(5歳以上馬)の重賞勝利馬を抑えて1番人気に支持されると、当時としては優秀な上がり3ハロン34秒6を計時し、ヌエボトウショウに2馬身差を付けて重賞初勝利を挙げた。春のクラシック二冠を制したトウカイテイオーが故障で戦線を離脱した後で、ナイスネイチャはクラシック三冠最終戦の菊花賞に向けた最大の「夏の上がり馬」となった。1カ月半後には菊花賞トライアルの京都新聞杯に出走。前年の関西3歳王者イブキマイカグラに次ぐ2番人気の支持を受けた。レースでは中団待機から、直線で進路をなくす不利を受けつつも、態勢を立て直してからは前で競りあうイブキマイカグラとシャコーグレイドを一気に交わし、両馬に3/4馬身差を付けて勝利した。11月3日に迎えた菊花賞では前走で破ったイブキマイカグラに次ぐ2番人気に支持されたが、周回2周目の第3コーナーから追走に苦労し始め、直線でも伸びきれずレオダーバンの4着に終わった。夏から使い詰めであったものの競走後に疲労は見られず、12月には鳴尾記念に出走し重賞3勝目を挙げる。年末にはグランプリ競走の有馬記念に臨んだ。当日は2番人気に推され、松永は1番人気のメジロマックイーンに目標を定め、同馬をマークしながらレースを運んだ。しかし最後の直線では突き放されると、後方からメジロマックイーンをも差し切った14番人気の伏兵ダイユウサクの3着に終わった。これが有馬記念で最初の3着となった。年明けから持病の骨膜炎が悪化し、古馬となった1992年春は全休を余儀なくされる。10月に天皇賞(秋)の前哨戦・毎日王冠から復帰し、3着。本番の天皇賞(秋)ではトウカイテイオーに次ぐ2番人気に推されたが、レッツゴーターキンの4着。以後もマイルチャンピオンシップ3着、有馬記念で2年連続の3着、年明けの日経新春杯2着、阪神大賞典3着、大阪杯2着と勝ちきれない成績が続き、大阪杯の後には骨折のため休養に入った。秋に毎日王冠から復帰したが、前年に引き続き3着。天皇賞(秋)はライスシャワーに次ぐ2番人気に支持されたが、最後の直線で追い出されると急激に失速し、15着とデビュー以来初めての大敗を喫した。続く国際招待競走ジャパンカップも7着と敗れた。3年連続出走となった有馬記念では当日10番人気の評価であったが、レースでは中団でトウカイテイオーと並んでレースを進めると、最後の直線では激しい競り合いを演じたトウカイテイオーとビワハヤヒデの3馬身半後方で、追い込んできたマチカネタンホイザをアタマ差抑え、3年連続の3着となった。グランプリにおけるこの記録は「怪挙」、「異業」などとも言われ、「有馬記念3年連続3着」はナイスネイチャの代名詞ともなっていった。競馬評論家の井崎脩五郎は、この出来事ついて次のように述べている。7歳となった1994年初戦のアメリカジョッキークラブカップでは7着と敗れ、続く大阪杯では2着と好走したが、GI競走の天皇賞(春)と宝塚記念ではいずれも4着と、掲示板(5着以内)確保に留まった。7月10日、GII競走の高松宮杯に出走。前年の日本ダービー優勝馬ウイニングチケットや宝塚記念2着のアイルトンシンボリらが揃うなか、初めてメンコ(覆面)を外して出走したナイスネイチャは、中段待機から向正面で5番手まで位置を挙げると、最後の直線で競り合うスターバレリーナ、マーベラスクラウン、アイルトンシンボリを交わして1着となり、4歳時の鳴尾記念以来、2年7カ月ぶりの勝利を挙げた。当日の中京競馬場には、競馬ブームを起こしたハイセイコーが出走した1974年以来となる6万5159人の観客が集まっており、ナイスネイチャに対してはGI競走に匹敵する声援が送られた。松永昌博は「ネイチャや関係者、そして負けても負けても応援してくださったファンの皆さんのことを思うと、とにかくホッとしました」、松永善晴は「もう勝てないのではと思うこともありました。ここまでチャンスはいくらでもあったのですが、取りこぼしもありましたからね。勝ってホッとしたというのが本音です。ここまで声援を送って下さったファンの皆様に心からお礼を言いたいです」と語った。休養後の秋は緒戦から掲示板を外す成績が続き、4年連続出走の有馬記念では第3~4コーナーで位置を押し上げたものの直線で伸びきれず、5着に終わった。翌1995年1月に馬主の豊蔦正雄が死去、ナイスネイチャの売却話も持ち上がったが、当年初戦の京都記念で2着と健闘し、豊蔦の息子・泰三に所有が引き継がれることとなった。京都記念の後は大阪杯に向けて調整されていたが、左前脚を骨折し休養に入る。秋に復帰したが低迷が続き、有馬記念では9着に終わった。翌1996年初戦の中京記念4着が掲示板以内に入った最後の競走となり、以後は4戦して6着が最高成績となった。年末には有馬記念出走が予定され、実現すれば史上初の6年連続出走となるはずであったが、右前脚の不安により回避を余儀なくされ、そのまま引退となった。GI競走出走16回、重賞34回連続出走は、いずれも当時の史上最多記録であった。引退後、ナイスネイチャは種牡馬として1997年より北海道日高スタリオンステーションにて繋養された。産駒の1頭セイントネイチャーは中央競馬で3勝を挙げた。また、1999年には日本中央競馬会 (JRA) が拡大二連勝複式(ワイド)馬券の販売を開始した際のキャンペーンキャラクターに起用された。また競馬会が2000年に実施したファン投票による名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では1193票を集め第71位に選出された。GI級競走未勝利馬の100位以内選出は、ほかにステイゴールド(34位、企画実施後にGI勝利)とツインターボ(91位)のみであった。2001年に種牡馬登録を抹消され、以後は故郷の渡辺牧場で母ウラカワミユキらとともに、特定非営利活動法人引退馬協会」(任意団体「イグレット軽種馬フォスターペアレントの会」より移行)による「フォスターホース」として余生を送っている。古馬になってから「ジリ脚」との評価が定着したが、4歳時の小倉記念や京都新聞杯での末脚は「豪脚」、「剃刀」とも形容され、当時は鋭い瞬発力を見せていた。松永昌博によれば菊花賞から「トロトロした」レースをし始め、さらに有馬記念を経て古馬になってからは掛かるようにもなり、後方からレースを進めざるを得なくなったといい、「そういう競馬をさせてしまったのかなあ」と振り返っている。ライターの谷川善久は、ナイスネイチャが挙げた7勝のレース内容や、同世代ではトウカイテイオーに次ぐ6億円超の獲得賞金額、本来適性範囲外の距離である有馬記念での3年連続3着といった記録は間違いなく「強い馬」のものであったが、たび重なる故障から成長を阻害されたり、充実期に出走の機会を逃したことが勝ちきれない成績に繋がったのではないか述べている。競走馬としての人気は高く、厩舎にはナイスネイチャを訪ねてやってくるファンや、激励のファンレター、千羽鶴などが次々と送られ、ナイスネイチャの馬房の前扉には12束の千羽鶴が飾られていた。手紙は「ナイスネイチャの一所懸命な姿に励まされる」といった内容が多かったという。松永善晴厩舎の調教助手であった稲垣茂は「彼以上のスターホースもいるが、トレセンを訪ねてくるファンの数とその思い入れの深さでは、栗東で1、2を争うアイドルホース」だったとしている。松永昌博によれば、ナイスネイチャを管理するまでの松永善晴は「とっつきにくい」人物であったが、ナイスネイチャの存在によって「ファンあっての競馬」であることを認識させられてから変わり、スタッフが驚くほどファンを大事にするようになったという。競馬会の広報誌『優駿』が2004年に企画した「個性派ホースBEST10」という企画では、1980~2000年代の「名バイプレーヤー」部門における識者による投票で1位に選ばれた(読者投票ではステイゴールドに次ぐ2位)。ライターの山河拓也はこの企画の中で「いつの時代にも存在する、『もどかしい馬』の代名詞。ひとこと『ナイスネイチャみたいな馬』で説明可能。これは凄い。競馬に限らず、人間でも『ナイスネイチャみたいな奴』と言えば、愛すべき男が像を結ぶ。これは本当に凄い」と称えている。また須田鷹雄は「4歳時普通に夢見た頂点には最後まで縁がなかったが、善戦マンとして得た祝福はタイトルをも上回るものだった」と評した。自著にナイスネイチャを多く登場させた競馬漫画家のよしだみほは、「4~5歳時のブロコレぶりはホントにすごい(笑)。ナイスネイチャと言うとみんな笑うもんなぁ。競馬に新しい文化を作ったといっても過言じゃないよね。彼がレースに出てるだけで幸せになれる、ユカイな馬でした。あんな愛され方をした馬って、他にいないんじゃないかな」と述べている。また阿部珠樹は「三連複の時代に走っていたら、おそらくさらに人気を博していたはずで、その点では『時代を先取りしていた名馬』といえるかもしれない。ともかく、印象的な勝ち鞍をあげる馬はいつの時代にもいるが、印象的な入着で競馬史に名をとどめるような馬は、そうは現れないだろう」と述べている。ナイスネイチャと競走馬時代の担当厩務員であった馬場秀輝の結びつきは非常に強いものであった。若馬の頃のナイスネイチャは我が強くスタッフが手を焼く存在であったが、馬場は全く怒ることなく接し続け、やがてナイスネイチャは馬場に対しては引き綱なしで後ろを付いて歩くほど大人しい馬となった。一方では競馬のときに馬場が付いていなければ発馬機に近づこうとせず、調教でも駐立したまま動かなくなってしまうことがしばしばあった。稲垣茂は「それほどまでの信頼感が馬と人の間にあるケースは実に珍しい」とこれを評している。また、レースの一週間前程度からは一回分で15000円もするマムシの粉末を餌に混ぜ、ナイスネイチャのために食べさせていた。それを一日3回繰り返すのだが、費用は全て馬場の自腹であったという。ナイスネイチャ引退の原因となった脚の怪我を発見した際には、ごく小さいひび割れで、ラストランの予定となっていた有馬記念を走っても問題ないほどのものだったが、馬場は馬の将来を思い、万が一があってはいけないと涙ながらに松永善晴を説得したとされる。連続出走記録の懸かった競走前であり、その記録を誇りとし誰よりも楽しみにしていた松永は「(ナイスネイチャのことを誰よりも知っている)お前がそういうのだったら、仕方が無いな」と言い、馬場の言を認めたという。また馬場はナイスネイチャのファンとの交流も欠かさず、送られてきた膨大な千羽鶴をナイスネイチャの馬房の扉に飾り、競馬の後にはメンコやゼッケンを気軽にファンに配布した。稲垣によれば、ナイスネイチャに会いに栗東を訪れるファンのうち、相当数が馬場のファンでもあったという。馬場は1998年に交通事故に遭い41歳で死去したが、これはナイスネイチャを通じて知り合ったファンの結婚式に出席した帰路での出来事であった。
出典:wikipedia
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