藤原 義江(ふじわら よしえ、1898年(明治31年)12月5日 - 1976年(昭和51年)3月22日)は、日本の男性オペラ歌手、声楽家(テノール(テナー))。愛称は吾等のテナー(われら―)。戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手であり、藤原歌劇団の創設者。父親がスコットランド人で母親が日本人のハーフ(混血)。大阪府生まれ。1898年(明治31年)、山口県下関市で貿易商(ホーム・リンガー商会)を営んでいた28歳のスコットランド人、ネール・ブロディ・リードと、同地で活動していた23歳の琵琶芸者、坂田キクとの間に大阪で生まれた。出生地・大阪は母キクの実家であったが、リードから手切れ金あるいは認知料の類を受け取ることもなかったキクは、その後、九州各地を転々とする。義江が7歳程の時、現在の大分県杵築市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、またはじめて日本国籍を得ることとなった。その後、大阪市北新地へ移った母につき従い、学校にも通わず給仕、丁稚などの薄給仕事に明け暮れる。11歳の時、父リードとはじめて対面、以後養育費を受けることとなる。義江は東京に移り、暁星小学校、明治学院中等部、早稲田実業学校、京北中学など私立学校を転々とするが、この歳まで未就学だったことと、両親の愛情が欠落していたことが災いしてか、どこでも不良生徒とみなされ(実際、義江の金銭浪費の激しさと女性関係の多彩さは生涯一貫していた)長続きしなかった。18歳の時に観た松井須磨子、沢田正二郎ら芸術座の演劇に憧れる。折から新国劇を創始した沢田に入団を認められ、沢田に与えられた「戸山英二郎」なる芸名で端役を務める。姓の戸山は当時住んでいた戸山が原(現東京都新宿区内)から、名の「英」はイギリス人(スコットランド人)を父にもつその容貌から取られた。しかし新国劇の演目はいわゆるチャンバラ物であり、明らかに日英混血の容貌の戸山英二郎に活躍の場はなかった。ローシー歌劇団のオペラ公演に惹かれた藤原は、新国劇を抜け浅草の弱小オペラ一座「アサヒ歌劇団」に入団。1918年(大正7年)には根岸歌劇団(金龍館)の一員にも潜り込むことに成功、浅草オペラ黄金期の頂点にあった金龍館の舞台に立つ。藤原は音楽教育を受けておらず、読譜もままならなかったが、日本人離れした舞台栄えする体躯もあり、また一座のプリマ・ドンナ的存在、6歳年上(実際は3歳年上)の安藤文子の溺愛も得て常に引き立てられていた。数々の舞台を経て、また安藤の熱心な指導もあり藤原の歌唱力は急速に向上する。なお安藤は藤原の最初の戸籍上の妻ともなる。義江は1920年(大正9年)3月、マルセイユ経由でイタリア・ミラノへ声楽研鑽に旅立つ。学資金はちょうどこの頃門司市で没した父リードの巨額の遺産であり、妊娠した妻・文子を残しての出発であった。ミラノで初めて本場のオペラ公演を聴き、浅草オペラとの懸隔を実感し、また三浦環の紹介で声楽教師につくこともあったが生来の浪費癖は治まらず資金は枯渇する。1921年(大正10年)頃にはロンドンに渡り、当地で知り合った吉田茂(当時は駐英一等書記官)の引き立てもあり、日本歌唱のリサイタルを開くなどした。ロンドンでは同じく滞在していた作家・島田清次郎と悪友だったという。藤原が日英混血であるということから両国親善の象徴的存在に仕立てるのが吉田の狙いだったとの説もある。しかし(日本人、欧州人を問わず)異性関係のスキャンダルは絶えず、「日本人会から追放」される形でニューヨークへ流れる。義江は1923年(大正12年)に帰国。同年3月にシアトルを出航した乗船の「加賀丸」が洋上にある間、朝日新聞は「吾等のテナー・藤原義江」なる全9回もの虚実織り交ぜた記事を連載する。4月10日に帰国した藤原は5月6日、神田YMCAで東京朝日新聞社主催による「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功、大マスコミの巧みな仕掛にうまく乗った形になる。なお海外にあった3年のうちに生まれた長男・藤原洋太郎は早世、妻・文子との関係は雲散霧消していた。「吾等のテナー」は各地でリサイタルを行い大成功を博すが、東京・京橋の開業医、宮下左右輔の妻、宮下アキ(藤原あき、福澤諭吉の実姉:婉の長男で、三井財閥の番頭、中上川彦次郎と妾・つねとの間の子で女子学習院出身)とのスキャンダルが大事に発展、ほとぼりを冷ます目的で外遊。ハワイ、アメリカ西海岸など日系人の多い土地のリサイタルで稼いでは、あきからの情熱的な手紙を受け帰国する、といった行動を2度も繰り返す。当時、世紀の恋と謳われた。1930年(昭和5年)に結婚。藤原あきとの間に一子(男子)をもうける。この間1926年(大正15年/昭和元年)にはニューヨークでビクター社初の日本人「赤盤」歌手として吹き込みを行っている。1930年(昭和5年)にはヴェルディ『椿姫』(指揮・山田耕作、当時では異例な原語上演だったと思われる)のアルフレード役で初めて本格的なオペラ出演を果たす。そしてその直後、藤原は初めて真剣な音楽研鑽のために再渡航する。今回は新妻・あきも伴っての留学であり、1931年からはイタリアの地方小歌劇場を転々とし、着実にレパートリー拡大を行った。また妻・あきもこうした地方公演について回り、化粧、衣装、道具など様々な舞台裏の約束事を身に付ける。これが後の歌劇団結成時に役立ったという。1931年(昭和6年)にはパリのオペラ=コミック座のオーディションにも合格、プッチーニ『ラ・ボエーム』のロドルフォ役で舞台にも立っている。1932年(昭和7年)に帰国。この頃、義江は帝国陸軍の関東軍の依頼により(関東軍委嘱)、軍歌「討匪行(とうひこう)」の作曲および歌唱を行っている。なお、作詞は満州で宣撫官の統率を務めていた八木沼丈夫(発表時の作詞名義は関東軍参謀部)。前線兵士の慰安公演のために満州へ渡った際、八木沼から歌詞を書いた紙を受け取っている。1934年(昭和9年)6月、義江は日比谷公会堂にてプッチーニ『ラ・ボエーム』(原語上演とみられるが、異説あり)の公演を行う。「東京オペラ・カムパニー公演」と銘打ってのものだが、これが藤原歌劇団の出発点となる。大倉喜七郎などパトロンの援助も空しく興行的には実入りはなかった模様だが、(素人同然のコーラスを除けば)音楽的には評論家から賛辞一色が呈された。その後同カムパニー名義でビゼー『カルメン』、ヴェルディ『リゴレット』(マッダレーナ役で後の大女優、杉村春子が出演している)、プッチーニ『トスカ』などで着実に舞台を重ねる。藤原は主役を務めるばかりでなく、演出や装置、衣装まで手がけたし、訳詞上演の際には妻・あきがしばしば(柳園子の筆名で)参画している。「藤原歌劇団」と銘打っての旗揚公演は1939年(昭和14年)3月26日から歌舞伎座で行われた『カルメン』であり、大成功を博した。その後同年11月には『椿姫』と『リゴレット』の交替上演(欧米の歌劇場では常識の、いわゆるレパートリー上演)を成功させ、指揮者としてはマンフレート・グルリットを得、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)11月にはヴァーグナー『ローエングリン』でも題名役を歌うなど、藤原歌劇団は日本で最も高品質のオペラを上演できるカンパニー、そして藤原義江はその一枚看板としての地位を固めていった。しかしこれら公演も興行的には必ずしも満足できるものではなく、藤原は自宅のピアノを売却するなどの苦労もあった。義江と藤原歌劇団は、敗戦後半年も経ない1946年(昭和21年)1月には帝国劇場で『椿姫』舞台公演を再開する。同年秋には東京音楽学校の内紛により教授を辞した木下保(テノール)が歌劇団に参加し、ここまで10年超にわたり全ての演目の主役テノールを藤原義江が務めるという状態からはようやく解放されたが、藤原が出演しないと途端にチケット売行きが落ちるという人気から、義江の過演状態は継続していた。声量・声質の衰えからもその公演過多ぶりは明らかだったという。1948年(昭和23年)4月、「タンホイザー」ほか諸歌劇の上演により日本芸術院賞を受賞。1950年(昭和25年)には東京・赤坂にオーケストラ付の立稽古も可能な「歌劇研究所」を建設(三井高公の資金援助による)、やがて藤原自身も同所に居住することになる。研究所には一時近衛秀麿のABC交響楽団も練習場を置いていた。1952年(昭和27年)にNHKの依頼を受け、外国音楽家招聘のため渡米した藤原は、ニューヨーク・シティ・オペラに長らく日本で活動していた旧知のジョゼフ・ローゼンストックを訪ねる。藤原は同歌劇場での『蝶々夫人』の上演レベルのあまりの低さに立腹、日本人役をすべて日本人歌手が歌う公演をしてはどうか、と提案する。歌劇団の20名が参加したこの公演は、三宅春恵(ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得たが、藤原の交渉能力の低さから歌劇団には莫大な資金負担となってしまった(藤原は高松宮宣仁親王の口利きで日本興業銀行から100万円(200万円とも)を融通してもらい、後には棒引きしてもらったという)。1957年(昭和32年)には治まることのない女性遍歴に愛想をつかした妻・あきと離婚。藤原義江の最後の舞台は1964年(昭和39年)の東宝ミュージカル『ノー・ストリングス』であった。その後は脳血栓症、更にはパーキンソン病を患い、犬丸徹三の厚意で帝国ホテル内の専用室に居住し、ホテル内のレストランで食事をとる日々を過ごしたという。1976年(昭和51年)3月22日77歳にて没した。放恣な人生を歩んだように見える藤原であったが、その自伝などからは、実力もないまま「吾等のテナー」として祀り上げられてしまうことへの警戒心、本場のオペラを聴き知ってしまった者としてそれを日本に定着させたいとする強い願望が読み取れる(もっとも自伝も脚色に富んでおりそれ自体面白い読み物である)。日本のオペラの発展に欠かすことのできない一人であった。なお藤原歌劇団は1981年(昭和56年)、日本オペラ協会と合併統合して財団法人日本オペラ振興会となり、「藤原歌劇団」の名称を西洋オペラの公演事業名として残している。
出典:wikipedia
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