朝潮型駆逐艦(あさしおかたくちくかん)は1937年より大日本帝国海軍(以下海軍)が建造した量産型駆逐艦である。ネームシップの「朝潮」沈没後は満潮型駆逐艦と改定された。軍縮条約締結の結果、規定排水量内で戦力を拡充するために「初春型駆逐艦」の建造を行うが、排水量を条約規定内に納めるための無理な設計/建造の結果、復元性に問題があり各部に修正が加えられることになる。次いで、初春型の改良型である「白露型駆逐艦」を建造することとなるが、結局、中型駆逐艦で満足できる性能を持つ艦を建造することが不可能と判断した海軍は、軍縮条約を破棄するに合わせ、大型駆逐艦を建造することにした。船体そのものは「特型駆逐艦」とほぼ同じ大きさだが、先代2艦種の影響もあって、艦の強度を確保するために排水量は増大している。武装は、12.7センチ連装砲3基6門と、配置法も含めこれも特型と同じであるが、魚雷発射管は白露型と同じ四連装2基8門であり、対空装備として、ホチキス社の13ミリ機銃を装備する。この兵装配置は、陽炎型駆逐艦と同じでありこの後建造される駆逐艦の雛形になったと言える。朝潮型最大の特徴ともいえるのは、艦内の電気系統を交流としたことである。当時の軍艦は直流を採用していたが、交流化で電気施設のスペースが小さくなったほか、陸上施設から直接電源を取ることができるという利点があった。友鶴事件の教訓を踏まえて計画された本型の当初の計画要目は以下の様であった。しかし1番艦「朝潮」の起工後すぐに第四艦隊事件が発生し、設計変更を余儀なくされた。設計変更後の要目は性能諸元の数値を参照されたい。排水量は当初計画より更に増し速力も35ノットに及ばない34.85ノットとされた。ただ実際の公試成績は(以下は「大潮」の成績)と計画を大幅に超過している。用兵側は速力と航続距離に不満があり陽炎型駆逐艦を計画したが、実際の航続距離に関しては十分満足いく値であった。また、竣工後に旋回圏の大きいことがわかり艦尾水線下の形状を鋭角に変更し、舵の形状も変更する工事をしている。更に1937年(昭和12年)12月に朝潮のタービンの開放検査をしたところ、タービン翼の一部が破損していることが発見され、翌年1月19日に臨時機関調査委員会を組織し原因究明が行われ、一時は日本海軍全艦艇に問題があるのではないかと思われた(臨機調事件)。調査の結果、原因はタービン翼の共振であること、また朝潮型に搭載されたタービン特有の現象で他の艦艇には問題が無いことがわかった。その後に共振対策が施され以後問題はなくなった。機銃は計画では13mm連装機銃2基4挺であるが1938年(昭和13年)の年報では朝潮のみ25mm連装機銃2基装備となっている。また荒潮の公式図では毘式40mm単装機銃2挺を装備しているが写真などからの確認はできていない。大戦中の機銃増備についても不明な点が多い。あ号作戦ごろの朝潮型においては第2砲塔を撤去し25mm3連装機銃2基を装備、13mm機銃は25mm3連装機銃と交換、艦橋前に機銃台を設置し25mm連装機銃1基を設置し、合計25mm3連装機銃4基、連装機銃1基を装備した。その他25mm単装機銃を装備したものと思われる。九〇式魚雷(空気式魚雷)を搭載していた。竣工時にはソナー等の水測兵器は持っていなかったが1940年(昭和15年)に九三式三型探信儀が朝潮型6艦に搭載された。朝潮型は1939年(昭和14年)の霞の竣工を最後に全10隻がそろった。しかしながら前述したとおり、船体重量が増加したことによる速度・航続距離の低下に海軍は不満であり、改良型ともいえる「陽炎型駆逐艦」に移行することとなる。「朝潮」以下4隻は開戦時第8駆逐隊を編成しマレー上陸作戦等、緒戦の各地攻略作戦に参加。ミッドウェー海戦には第7戦隊(最上型4隻)直衛として参加している。その後はソロモン方面へ進出し1943年(昭和18年)に入り「朝潮、荒潮、大潮」がいずれもソロモン方面で戦没。残った「満潮」はレイテ沖海戦において第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)の一員として参加しスリガオ海峡で戦没した。「朝雲」以下4隻は開戦時第9駆逐隊を編成し第8駆逐隊同様各地の攻略作戦に参加している。うち「山雲」は1941年(昭和16年)12月のリンガエン上陸作戦中に触雷し、修理のため翌年9月まで戦列を離れた。「夏雲、峯雲」は1942年(昭和17年)10月と翌年3月にソロモン方面で戦没している。残った「朝雲」は復帰の「山雲」、第8駆逐隊・第24駆逐隊生き残りの「満潮」とともに西村艦隊に所属しレイテ沖海戦に参加、3隻ともスリガオ海峡で戦没した。「霰、霞」は陽炎型の「陽炎、不知火」と第18駆逐隊を編成し第一航空艦隊(南雲艦隊)空母を直衛、真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦などに参加する。その後「霰」は1942年(昭和17年)7月にキスカ湾で戦没する。この時「霞、不知火」も雷撃により損傷した。修理完了後は北方部隊に編入され船団護衛任務についた。レイテ沖海戦では第二遊撃部隊(志摩艦隊)に所属しスリガオ海峡海戦に参加したが生還する。その後オルモック輸送作戦3回、礼号作戦などに参加。最後は戦艦「大和」や第二水雷戦隊各艦とともに坊ノ岬沖海戦に参加したが、米軍機の攻撃により航行不能となり、秋月型駆逐艦「冬月」に処分された。竣工順に記載初期〜中期の8隻はそれぞれ4隻で駆逐隊を組み、最終ロット2隻は陽炎型2隻と駆逐隊を編成した。佐世保鎮守府籍の朝潮・大潮・満潮・荒潮で編成。1937年(昭和12年)10月31日に解隊した樅型駆逐艦4隻からなる先代に続く三代目の第二十五駆逐隊である。1939年(昭和14年)11月1日付で横須賀鎮守府の吹雪型駆逐艦4隻からなる先代第八駆逐隊が呉鎮守府第二十駆逐隊に転出し、入れ替わりに横須賀に転籍したため、四代目の第八駆逐隊となる。就役当初よりタービン翼の折損事故が相次ぎ、全艦とも改善工事のため水雷戦隊に所属するのは横須賀転籍後となった。横須賀鎮守府籍の山雲・夏雲・朝雲・峯雲で編成。編成時に横須賀鎮守府所属駆逐隊が第一から第十まで全て存在していたため、第四十一駆逐隊となった。1939年(昭和14年)11月15日付で初春型駆逐艦2隻および白露型駆逐艦2隻からなる先代第九駆逐隊が佐世保鎮守府第二十七駆逐隊に転出し、入れ替わりに第九駆逐隊に改称したため、五代目の第九駆逐隊となる。こちらも改善工事のため水雷戦隊に所属するのは当初より遅れた。呉鎮守府籍の霰・霞と陽炎型の陽炎・不知火で編成。1935年(昭和10年)4月1日に解隊した磯風型駆逐艦4隻からなる先代に続く三代目の第十八駆逐隊である。
出典:wikipedia
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