見沼(みぬま)とは、かつての武蔵国、今の埼玉県さいたま市、川口市にあった巨大な沼である。現在も広い水田があり、「見沼田圃」と呼ばれている。以下に、見沼に当たる区域を挙げる。縄文時代までは、古芝川が大宮台地を浸食した谷に奥東京湾が入り込んでいた。このため、この地の周辺には貝塚が点在している。奥東京湾は弥生時代に入ると海岸線が後退し(海退という)、見沼・入江沼・鳩沼・深作沼(鶴巻沼)など多数の沼が繋がる広大な沼沢地となった。見沼は三沼・箕沼・御沼とも表され、Y字型3方向に湾曲して伸び、岬や入江も多い複雑な地形であった。氷川神社はこの沼の水神を祀ったことから始まったとする説があり、沼岸には氷川神社・中氷川神社(現中山神社)・氷川女体神社がある。江戸時代に入ると、それまで手付かずであった見沼も開発が始まった。1629年、関東郡代の伊奈忠治が、多くの新田が開発された芝川下流域(現川口市)の灌漑用水を確保するために、木曽呂村・附嶋村(現・さいたま市緑区大間木八町・附島付近と川口市木曽呂付近)に長さ約870m(8町)の堤防「八丁堤」を建設し水を溜めた。この灌漑用ダムを「見沼溜井」と称した。平均水深2.7m(8尺)、周囲約40km(10里)にも及ぶ溜井により下流の灌漑は成功したが、その一方で、見沼周辺では多くの田畑が水没した(「水いかり」)。1675年、江戸商人・加田屋の坂東助右衛門は一部を干拓して新田を開拓するが、この干拓により溜井の一部を綾瀬川へ流下させたため貯水能力が低下、下流の村から新田取り潰しの訴訟が起き、結局1718年に溜井へ復元させられた。しかしながら土砂堆積で溜井の貯水能力は低下の一途をたどり、水害も頻発するようになった。享保年間、輪王寺6代・輪王寺宮4代、公寛法親王が江戸往来の途上、膝子村で水害に悩む村民から溜井廃止を懇願され、窮状が江戸幕府へ伝わった。1727年、折りしも享保の改革の一環として新田開発を進めていた8代将軍・徳川吉宗は勘定吟味役に紀州藩士・井沢弥惣兵衛を登用して見沼溜井の干拓を開始した。井沢は溜井に代わる水源として見沼代用水を現・行田市の利根川から約60kmにわたり開削して灌漑用水とする一方で、八丁堤を破り、溜井最低部に排水路を開削して芝川と結び荒川へ放水する工事を1年で完成させた。見沼干拓後は加田屋など商業資本も加わった新田開発が進み、開発面積1,228ha、新田面積1,172haの見沼田圃が完成した。それ以後、この地は肥沃な穀倉地帯となった。さらに、見沼干拓に併せて八丁堤跡に建設された見沼通船堀により、江戸とを結ぶ見沼通船が開通、見沼代用水流域の川船輸送の発達にもつながった。1934年、東京市は村山貯水池(多摩湖)・山口貯水池(狭山湖)に続く第三の貯水池の建設場所を見沼田圃一帯とする計画を発表した。しかし、水没対象となる地域の市町村、すなわち浦和市 、尾間木村、三室村、野田村、大宮町、七里村、春岡村、片柳村、大砂土村(以上現さいたま市)、原市町(現上尾市)、芝村、神根村(以上現川口市)、大門村(現さいたま市および川口市)の農民らの反対運動により、1939年、東京市は貯水池計画を撤回した。20世紀後半に入ると、埼玉県は積極的に見沼田圃の保全に向けた動きを次々と打ち出していった。1965年、県は「見沼田圃農地転用方針」(通称「見沼三原則」)を制定した。この結果、見沼地区の農地転用は制限され、原則として開発行為が不可能となった。1969年には、県は「見沼田圃の取扱いについて」(通称「見沼三原則補足」)を制定した。1995年には、県は「見沼三原則」・「見沼三原則補足」に代わる新たな土地利用の基準として「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」を策定した。これ以後現在に至るまで、急速な都市化の波が押し寄せたにもかかわらず、首都圏最大と言われる緑地帯を保ってきている。現在も見沼全体としては一部市街化、公園化しているがほぼ原型を保っている。最も市街地に近いところではさいたま新都心駅から東方900mの北袋町に農地が残っている。さいたま市は今後見沼セントラルパーク構想に基づき、見沼に100haの公園緑地帯を創出させる計画としており、見沼田圃公有地化推進事業を実施し、公園化を促進している。先行事業として2007年には大宮区に「合併記念見沼公園」が開園している。見沼には竜神が住んでいるとされ、周辺の村々にはさまざまな竜神伝説が残っている。たとえば、その竜神が住んでいると考えられていた四本竹という場所(現緑区大字下山口新田字四本竹)では近隣の氷川女体神社が竜神を鎮めるために磐船祭という行事を江戸時代の終わり頃まで行っていた。見沼の干拓が始まる頃、竜神は見沼に住めなくなってしまうので美女に姿を変え井沢弥惣兵衛のもとに工事の延期をお願いをしに行った、また怒って嵐を起こしたなどといわれている。しかし見沼の干拓は完了してしまった。や現川口市の差間村、などでは竜神は印旛沼に引っ越したとも言い伝えられる。干拓前の出来事を伝える見沼の笛の物語もある。まだ大きな沼であった見沼の周辺の村々では、夕暮れ時になるとどこからか美しい笛の音が聞こえてきて、村人の若い男性たちは、この音色に誘われて歩いてゆき、見沼で姿を消してしまうという事件が相次いだ。見沼の主が若者を生贄として連れ去ったと考えた村人達は供養塔を建立した。それが大和田にある塔だという。このように、見沼周辺の村々には多くの伝説、伝承の類が伝わっており、地元で発行された郷土資料や絵本に収録されている。市民、自治体は熱心に保全活動をしてはいたが、首都圏25キロ圏といった立地や戦後からの劇的な市街化によって見沼も少なからず影響を受けている。芝川、加田屋川では下水の流入により水質は悪化、以前の清流を失ってしまっている。見沼の緑地においても、広大な水田は、国の減反政策による畑への転作や、耕作放棄による荒れ地となり、良好な景観とはいえなくなっている。また、市街地化が先行したが故に水田保全を積極的に進めた旧浦和市域に比べ、現在も市内に緑地・水田が多く残されている旧大宮市域のほうが、見沼の開発が進められている。埼玉県が設立したさいたま緑のトラスト協会によって緑のトラスト保全地第一号地として南部領辻の斜面林が保全されている。緑区上野田にある野田山は「野田のさぎ山」とよばれ、鷺の繁殖地であった。これは、日光御成街道を通る江戸幕府の将軍も立ち寄って鷺を見たという有名な繁殖地で、明治には禁猟区、昭和には特別天然記念物に指定された。しかし、都市化の波は避けられず、日光御成街道は国道122号となり交通量も増加した上に、水田も減少(畑に転作)したことで、いつしか鷺は姿を消した。天然記念物の指定も1984年に解除されて、「さぎ山記念公園」としてその名をとどめている。現在の見沼田圃は農地の放棄が進み荒地となっている箇所も増えたことから、さいたま市は見沼田圃の歴史と自然を後世に残すため『さいたま市見沼田圃基本計画』を策定した。主に見沼セントラルパーク構想を軸とするもので、区域内を100haの公園に整備する構想である。その先駆けとして合併記念見沼公園(1ha)が開園している。今後その南側に防災公園(16ha)を整備する計画である。他にも見沼代用水に沿って日本一の桜並木を整備する取り組みも行われている。緑区には芝川第一調節池が整備され、往時の見沼の姿が一部復活している。以下は現代の見沼田圃の土地利用状況である。公園のほか学校等の公共施設も建つ。また昭和期に一部宅地化された部分も存在する。
出典:wikipedia
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