勧修寺 経顕(かしゅうじ つねあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。藤原北家高藤流甘露寺支流の名家勧修寺家の初代当主。元徳元年(1329年)に蔵人頭に任じられ、翌元徳2年(1330年)には参議に任じられた。暦応3年/興国元年(1340年)に権大納言となり、2年後の康永元年/興国3年(1342年)に権大納言を辞しているが、「光厳院の寵臣」(『椿葉記』)と称されていたように光厳上皇の元で院伝奏・評定衆・武家執奏を長く務め、また妻が上皇の皇子の乳母になるなど相応の地位が確保された。正平一統の際に宮中の混乱を鎮め、失意の二条良基を叱咤して、妻の乳母子である後光厳天皇の擁立を画策した。応安3年/建徳元年(1370年)には内大臣従一位に任じられているが非難も多く、翌年には辞職している。光厳・後光厳両天皇の信任が厚く、北朝方の重鎮として活躍した。
出典:wikipedia
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