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ソフト・セル

ソフト・セル(Soft Cell)はイギリスの音楽ユニット。マーク・アーモンド(ヴォーカル)とデイヴ・ボール(シンセサイザー)のふたり。ニュー・ウェーヴの代表的なグループのひとつである。二人とも出身はイングランド北西部にあるランカシャー州であるが、違う町で互いに過ごした。彼らが出会ったのはランカシャーから遠くはない地方都市リーズのアートスクールに通っていた1978年のことで、このリーズでソフト・セルは結成された。当時、最先端のアンダーグラウンド音楽だったスロッビング・グリッスルやキャバレー・ヴォルテールなどの影響を受けていた二人は、もう一つの彼らの共通のルーツであったノーザン・ソウルの要素を文学的な歌詞にのせてノイジーなエレクトロニクスに取り込むという斬新なスタイルでリーズを中心に活動していた。最初のリリースは1980年10月の"mutant moments ep"と呼ばれる4曲入り7インチ・シングルで、これはデイブが母親から借りた金で制作され、2000枚プレスされた。海賊版もあるが入手が困難なコレクターズ・アイテムになっている。この頃、彼らの存在に注目していたのがロンドンのキングスロードにあるチェルシー・ドラッグストアで月曜日のレジデントDJをやっていたスティーヴォ・ピアース(俗称Stevø)だった。左官職人の家に生まれた彼はフォノグラム・レコードの仕事を手伝いながらDJとしても活動しており、イギリスの各地から送られてくる無名バンドのデモテープから気に入ったものを勝手にチャートにして、当初はRecord Mirror誌で発表していた。その後それは Soundsに引き継がれるが、ソフト・セルもその中で取り上げられることになった。しかし実際に聴く機会のない音楽のチャートを紹介することにスティーヴォは疑問を感じ始め、自費でコンピレーション・アルバムをリリースすることを思いつく。このアルバムは"Some Bizzare Album"というタイトルで1981年にリリースされたが、無名のバンドばかりだったにも関わらず、最初の2000枚を完売して話題になった。ソフト・セルは2トラックの簡単なレコーダーで自宅録音しただけの楽曲"The Girl With A Patent Leather Face"(=人工皮革の顔の少女)でこのコンピレーション・アルバムに参加している。Some Bizzare Albumにはのちにミリオンセラーを出すが当時はまだ無名だったザ・ザやデペッシュ・モード、ブラマンジェなどが参加しており、スティーヴォの先見性を物語っている。ソフト・セルの存在に一目置いていた人物はもう一人、デペッシュ・モードの成功で名を上げたミュート・レコードのオーナー、ダニエル・ミラーだ。彼はSome Bizzare Albumに同じく収録されていた無名のデペッシュ・モードを初期の頃から支えていて、自らもThe Normalというユニットでインダストリアルなエレクトロニクスノイズを発表していた。そんな彼が、ロンドンでソフト・セルが活動するために重要な役割を果たしたシングル"A Man Can Get Lost" (7")とMemorabilia (12")をプロデュースすることになった。ただしリリースはスティーヴォがSome Bizzare Albumで稼いだ金で作ったレーベル会社Some Bizzare Recordsからだった。ソフト・セルはこの時既にスティーヴォにマネージメントを任せる決心をしていたが、驚くことにスティーヴォはまだその時17歳だったという。特に"Memorabilia"は当時のクラブシーンである程度の成功をおさめ、ソフト・セルの名前はロンドンでも徐々に浸透し始めた。1981年にグロリア・ジョーンズの1964年の曲(全くヒットしなかった)をカヴァーした『汚れなき愛』(Tainted Love)が大ヒットし全英チャートで1位になり、全米チャートでも最高で8位、43週間もチャートした。Tainted Loveの成功により初のアルバムが1981年にリリースされた。プロデューサーはWireやBronski Beatのヒットで名を上げたマイク・ソーン。レコーディングはニューヨークで行われた。平凡な都会生活に対するストレスなどを題材に、同性愛、ドラッグなどの裏社会的なエッセンスを取り入れた退廃的・文学的な歌詞、そして新鮮なエレクトロニック・サウンドとソウルフルなマークのボーカルという、それまでのエレポップ系アーティストにはなかった人間くさい曲が特徴的なアルバムだ。アルバムの成功から1982年に立て続けに出されたダンス・バージョンのミニ・アルバム。A面B面に各3曲、合計6曲が収録されており、2曲はミックスの再編集によってつながっている。プロデュースは同じくマイク・ソーン。Memorabiliaはボーカルも再録され、よりダンサブルなミックスにしあがっているほか、A Man Can Get LostはA Man Could Get Lostと名を変え、インストバージョンになっている。なおUK盤US盤では収録されている曲が違う。シングルにもなった"What!"(全英チャート3位)もまた"Tainted Love"の作曲で知られるFour PrepsのメンバーだったEdd Cobのカバー。"Where Did Our Love Go"はスプリームスの大ヒット曲のカバーでやはりソウルフルな選曲になっている。1stアルバムより全体的によりダンサブルでキャッチーに仕上がっているが、Sex Dwarfのリミックスは放送コードにひっかかる過激な内容になっている。日本未発売。1982年にリリースされたビデオクリップ集。さほど予算をかけた内容ではないが、彼らの貴重な動く姿が見られる。途中で例のスティーヴォが当時ロンドンのソーホーにあったサム・ビザー・レコーズの事務所で話す映像が写っている。なお、Sex Drawfのプロモ・ビデオは存在するにもかかわらず収録されていない。1983年にリリースされたフルアルバムとしては2枚目の作品。エレポップ路線のサウンドは影を潜めるが実際にはドラムもリン・ドラムを使ったサンプリングの打ち込みであり、全体にわたってシンセサイザーを多用していて生楽器の登場回数は少ない。しかし全体的には生楽器のようなオーガニックな印象を受ける。共同プロデューサーのFloodのセンスが垣間見える部分だ。また本来の彼らの持ち味としてのノーザン・ソウルの影響をより濃くしているが、退廃的イメージが強調され、タイトルどおりソフト・セルが滅びゆく鮮やかな散り際を演出した(既にこの頃解散の噂もあった)。初回プレスに付いていたボーナス・レコードにはジミ・ヘンドリックスのメドレーや007で知られるジョン・バリーの曲をカバーしている。このアルバムからのシングル曲"Where The Heart Is"は子供の目線から語られる家庭の不和と両親のエゴを、ストリングス風の美しいシンセサイザーの音色をバックにマークが哀愁たっぷりに歌い上げているのだが、マークの母親はこの曲があまり好きでないらしいことをインタビューで語っている。またこのシングルはクリスマスにリリースされたため、あまりヒットしなかった。もうソフト・セルはこのまま解散するものと誰もが思っていた矢先、1984年に突然リリースされたのがこのアルバム。赤地に金文字で殴り書きされたジャケットのアートワークは最も緊張感のあるこのアルバムのイメージを表しており、マルキ・ド・サドやジョルジュ・バタイユなどの背徳文学の世界をジョニー・サンダース的なニューヨーク・パンクの退廃感と織り交ぜ、さらにニューウェーブへと昇華させた。全体的にモノラルで録音されており、相変わらず打ち込みであるにもかかわらず、広がりのない音がまるでガレージ録音のような荒さを醸し出している。オルガンやエレキ・ギターなど、シンセサイザー以外の楽器を多用している。あえて汚した音に加工することで、これまでのエレポップ感とは違い、破壊的な躍動感を前面に打ち出している。この頃同時進行していたマークの別プロジェクト、マーク・アンド・ザ・マンバスの活動へとリンクしていく内容で、最もニューウェーブ的なアプローチがこのアルバムにはあった。この後、ソフト・セルは解散する。1984年の解散からマークはマーク・アンド・ザ・マンバス、そしてソロ活動へと移行していき、一方ボールはソロアルバムを出した後テクノユニット「ザ・グリッド」(The Grid)を結成、一時解散したが再結成し現在も活動している。そして2001年にはソフト・セルは再結成を果たした。そもそも1991年に「マーク・アーモンド フィーチャリング ザ・グリッド」という形で一時的に再結成し、マークのアルバムで数曲競演していたが、その後はあまり目立った活動はなかった。しかし2001年に17年のブランクを経てソフト・セルとしての再出発がようやく実現した。現在は主だった活動はしていない。2002年再結成から初のアルバムをリリース。解散のブランクの間に彼らは互いにダンス・ミュージックへの興味を深めていたことで、再結成後の作品はどれもテクノやトランスの要素が強い。文学的なマークの歌詞は健在だった。このアルバム発表後、イギリス国内を含んだヨーロッパツアーを行った。

出典:wikipedia

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