山脇 光治(やまわき こうじ、1962年10月13日 - )は、大阪府四條畷市出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)。浪商高校時代には、牛島和彦・香川伸行の1年後輩として、2年生だった1979年に控え選手ながら春夏とも阪神甲子園球場の全国大会に出場した。春の大会では決勝で箕島高校に敗退。夏の大会では、比叡山高との準々決勝に救援投手として甲子園初登板を果たしたが、準決勝で池田高校に敗れた。3年生だった1980年には、内野手および控え投手として、夏の全国大会大阪府大会に出場。北陽高校との準決勝に救援で登板したが、チームの勝利には至らなかった。同年末に、ドラフト外扱いで、内野手として阪神タイガースに入団した。背番号は64。入団3年目の1983年に一軍デビュー。1986年には、当時のレギュラー遊撃手・平田勝男の故障で一軍に昇格すると、4月26日の対中日ドラゴンズ戦(甲子園)で一軍初本塁打となる満塁本塁打を放った。この年以降は、主に三塁・遊撃の守備要員として、1990年代の前半までバイプレーヤーとして活躍。その一方で、背番号を36に変更した1988年には、9月7日のウエスタン・リーグ公式戦で全5打席敬遠を記録している。1990年の一軍公式戦では、左翼の守備を経験するとともに、主に2番打者として18試合でスタメンに起用。シーズン全体では、自己最多の88試合に出場するとともに、打率.282、1本塁打、8盗塁という成績を残した。1991年には、背番号を4に変更するとともに、二塁手としても起用されている。1992年には、9月11日 - 12日の対ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)に、試合途中から遊撃手として出場。同点の延長15回裏2死満塁で打席を迎えたが、1ボール2ストライクから岡林洋一が投じた4球目のスライダーにバットを止めたところ、ハーフスイングという判定で三振に倒れた。この結果、試合は3-3の引き分けで終わるとともに、NPB公式戦史上最長の試合時間(6時間26分)を記録した。1994年以降は、一軍公式戦への出場機会がなかった。1995年10月6日に球団から戦力外通告を受けたことを機に、同年11月15日付で現役を引退した。阪神に籍を置いたまま、1996年に外野守備走塁コーチへ就任。1997年・1998年には育成コーチ、1999年・2000年には二軍打撃コーチ、2001年・2002年には二軍守備走塁コーチを務めた。2003年に一軍の先乗りスコアラーを務めた。2004年に三軍リハビリ担当コーチとして現場に復帰。2005年・2006年には二軍守備走塁コーチ、2007年には二軍内野守備走塁コーチを歴任した。2008年から2015年までは、一軍のコーチを担当。2010年までは一軍守備走塁コーチ、2011年・2012年には一軍守備走塁総合コーチ、2013年以降は一軍外野守備走塁コーチを務めた。試合中に相手投手の投球動作の癖を見抜くことが得意で、三塁ベースコーチや一塁ベースコーチを任されることが多かった。2015年10月15日に球団からコーチ契約を更新しないことを通告されたが、2016年1月1日付で、チーム付のスコアラーへ転任。2016年から一軍監督を務めるかつての教え子・金本知憲からの要請で、球団史上初の動作解析専任スコアラーとして活動している。
出典:wikipedia
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