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伊号第八潜水艦

伊号第八潜水艦(いごうだいはちせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦で伊七型潜水艦(巡潜3型)の2番艦。第二次世界大戦の最中に遣独潜水艦作戦としてドイツと日本を往復したことで知られる。1934年(昭和9年)のマル2計画により同年10月11日川崎造船所にて起工、1936年(昭和11年)7月20日進水、1938年(昭和13年)5月27日艤装員事務所を神戸海軍監督官事務所内に設置し事務開始、12月5日竣工。横須賀鎮守府籍。第3潜水戦隊所属。1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃時には後詰めとしてオアフ島付近に出撃した。その後、アメリカ西海岸偵察任務に就く。1942年(昭和17年)5月6日にルオット島で第十一航空艦隊の一式陸上攻撃機に誤爆されて一時行動不能となり、第5潜水戦隊に編入後、呉で修理を行った。第3潜水戦隊の旗艦は、急遽同戦隊に編入した伊号第十一潜水艦に変更される。修理完了の後、9月15日呉を出港。9月下旬より12月末まで南方作戦(数次にわたるガダルカナル島への輸送作戦や撤退作戦)に従事。12月6日にカミンボ岬着。翌年1月23日と31日の2回カントン島を砲撃、続いてフィジー諸島、サモア島等偵察のあと、トラック島を経て3月21日呉に入港後、修理と遣独作戦に備えた改造を受ける。1943年6月1日にドイツ派遣第2艦として呉を出港。目的はヒトラーから無償譲渡されるUボートU 1224(日本名:呂号第五百一潜水艦)の日本回航の搭乗員(乗田貞敏少佐以下51名)の輸送のためであった。作戦時の暗号名は「フレッツィア」又は「リラ」。この作戦のために3月21日より呉海軍工廠で魚雷発射管室を居住区にするなどの改造を行った。艦長の内野信二大佐と士官はパリ経由でベルリンを訪問し、カール・デーニッツ海軍総司令官と面会する。この訪問の最中、9月8日にイタリアが無条件降伏している。この他、通信長の桑島斉三大尉他数名がベルギーのオーステンデの電波兵器学校に派遣され、レーダー装置の取扱い訓練を受けている。呂号第五百一潜水艦の回航要員の他、積み込んでいた酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置(図面)、錫、天然ゴム、雲母、キニーネ等がドイツ側に提供された。ドイツ側からの提供品として、Sボート用のダイムラー・ベンツ製ディーゼルエンジンMB501、電波探知機「メトックス」、エリコン20ミリ機銃等が搭載された。また、後甲板にはドイツから譲渡された20ミリ4連装対空機銃が装備された。呂501(U 1224)に乗田貞敏少佐以下51名を移乗。1944年1月25日艦長に有泉龍之助(兵51)中佐(10月15日大佐)が着任。インド洋で通商破壊の任務につく。2月19日呉出港。3月上旬、ペナン進出。以後、5隻の船を撃沈した。7月には日本へ回航中の呂号第五百一潜水艦との会合に向かうも、同艦が5月に米駆逐艦の攻撃により戦没してしまったためやむなく帰還。10月9日横須賀入港後修理に従事。12月1日艦長篠原茂夫(兵62)少佐着任。有泉が艦長であった期間に、以下の事件が起きたとされる。後者は7月2日に撃沈したニコレットの乗員百名ほどが海に飛び込み、救命ボートや筏六隻に分乗して逃れようとした。すると、有泉はボートを銃撃させ、海上に浮かんでいる者達を殺傷した。そのうち、英哨戒機が現われたので伊八潜は急速潜航し、かろうじてポートにしがみついていた二十数名はなんとか助かり、その後、イギリス領インドの軍艦に救い上げられたという事件である。この二つの殺傷事件には背景があった。1943年9月、有泉の上司に当たる第八潜水戦隊司令官・市岡寿少将(42期)は、東京の軍令部首脳から「ドイツのリッベントロップ外相から日本に対して、連合国の商船を撃沈した場合、乗組員も全滅させてもらいたいという要請があり、海軍も同意した。貴官もそのつもりで敵船乗員の処分は徹底的にやってもらいたい」と言われていた。ドイツは、大西洋でUボートによりいくら米・英の船を撃沈しても、新たに大量に建造されるので効果が現れない。そこで船員を殺すことを考えついたわけである。ドイツ側から要請があったことは、戦後の軍事裁判で米国の弁護士が明らかにした。有泉は、司令として搭乗していた伊号第四百一潜水艦で終戦を迎え、米軍の接収後に自決した。この事件については戦中から連合国の抗議が行われていたが、第八潜水戦隊の副官であった近藤道生は自決していた有泉に責任を負わせている面があることを証言している。1942年3月から1943年6月まで第六艦隊司令長官を務めた小松輝久中将(37期、北白川宮の第四子)は、戦後この事件の責任を問われ、横浜の軍事法廷は重労働15年を言い渡した。また、市岡少将には1948年2月、重労働20年の判決が言い渡された。直接関係のない前任者の石崎昇少将(42期)にまで重労働10年の刑が課された。1945年3月20日アメリカ軍の沖縄来攻により佐伯を出港した。3月28日の敵情報報告後、日本側からは消息不明となる。3月30日23:08に沖縄本島沖で、油槽船、輸送艦及び駆逐艦を含む機動部隊の一艦として慶良間諸島に向かう途中の米駆逐艦「」に目的地から東南90マイルの地点で、12000ヤードの位置にレーダーで捉えられた。米機動部隊司令官は、隊内通話(無電)で、この見慣れぬ艦に話しかけようとした。なぜなら、この海域は友軍船団の集結地点だったからである。しかし応答はなかった。ストックトンは目標を追跡せよとの命令を受けた。直ちに変針すると、潜航しようとする一隻の潜水艦が映った。3月30日の夜間23:39から翌日の暁02:39の間、駆逐艦ストックトンは深度70、爆雷攻撃をもって、潜航中の伊八潜に対して攻撃した。7回目の攻撃の後、海面に重油が噴き出し、伊八潜は損傷した。やがて、米対潜攻撃機が照明弾投下のため現場に飛来した。新たに近接してきた駆逐艦「」(艦長J.R.ハンセン)はストックトンを援護するように命令を受けた。指定集結地点に到着すると、モリソンは煌々と照らし出されている伊八潜を発見し、ストックトンが照明攻撃を指揮しているところであった。ストックトンは伊八潜との接触を見失った。しかしモリソンも2分以内に捕捉し、これを援護した。ストックトンは03:24に攻撃目標を再び捕捉し、爆雷を深度11と浅く調整して03:30に投下した。伊八潜は艦首から浮上してきた。伊八潜の艦首は、ストックトンの後方わずか900ヤードであった。転舵するにも衝突させるにも近すぎるのでモリソンは全火器で水平射撃を開始した。伊号潜水艦の上部構造物は吹き飛び、気泡を噴出した。ストックトンは片舷用爆雷投射機3基で攻撃した。伊八潜は30分以上もローリング・ピッチングしながら集中砲火を浴びた。船体は命中弾を受けて穴があき、全甲板は剥ぎ取られ、艦橋は爆発によって粉砕され、04:12に艦尾から沈んでいった。夜が明けるとともに、重油と破壊された残骸が混ざって大量に現われた。この漂流物の中に2人の日本人の死体が浮遊し、1人の潜水艦乗組員(向井隆昌二曹)が泳いでいた。米側が通訳を介して沈んだ潜水艦名を尋ねたところ、「もし逆に貴様の艦が沈められたら、貴様は自分の艦名を公言するか」と向井は返答した。伊八潜の艦名は、戦後になって、沈没時の第六艦隊司令長官・三輪茂義中将の記録に載っていたことで米側に確認された。なお、伊八潜を撃沈したモリソンは1945年5月4日沖縄洋上で特攻機によって撃沈された。向井は「伊号第8潜水艦史」(伊8潜史刊行会編)で以下のように証言している。沈没地点は、沖縄那覇の南東約1026km(N25゚29' E128゚35')。同年4月10日、沖縄方面で沈没と認定、8月10日除籍。

出典:wikipedia

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