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那須資之

那須資之那須 資之(なす すけゆき、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、那須氏3代当主。初代当主那須資隆の五男。福原資広・女子(那須頼資妻)の父。那須光資の祖父。初名は之隆。通称は五郎。屋島の戦いで扇の的を射落としたとされる那須与一は弟に当たる。治承・寿永の乱の際は平氏方に味方したため、那須氏本家は源氏方に味方した弟の与一(宗隆、後に資隆)が継いだ。資之ら与一の兄達は初め敵対したがのちに帰順し与一から所領を与えられた。後に与一が子がないまま出家したため、資之が那須氏の跡を継いで当主となった。息子資広は兄の福原久隆の養子となっていたため跡継ぎがなく、継承時期は不明だが那須頼資(宇都宮朝綱の子、または初代資隆と朝綱娘との庶子)に娘を娶わせて跡を継がせている。那須 資之(なす すけゆき、生年不詳 - 正長元年(1428年))は、室町時代中期の武将で、那須氏12代当主。那須資氏の子。官位は越後守。沢村資重の兄。妻は上杉禅秀の娘。子に氏資、資朝。岩松満純、千葉兼胤は相婿。白河結城氏を継いだ結城氏朝は孫(資朝の子)。応永21年(1414年)頃より弟の沢村資重と対立し、那須家の分裂を招いた。また、応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が勃発すると、舅である禅秀方につき、鎌倉公方足利持氏の討伐を受けた。このような事情もあり、資重は持氏を頼って資之に抵抗を続けたので、資之は那須家の統一を果たすことはできず、資之の上那須家(福原城に拠る)と資重の下那須家(沢村城、後に烏山城に拠る)が以後しばらく併存することになった。この状態は永正13年(1516年)の上那須家滅亡まで続くことになる。

出典:wikipedia

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