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タモリのオールナイトニッポン

『タモリのオールナイトニッポン』は、ニッポン放送をキーステーションに、1976年10月6日から1983年9月28日まで毎週水曜日の25:00 - 27:00(JST)に生放送されていた、ラジオバラエティ番組。メインパーソナリティーはタモリであり、自身の冠番組。1975年のある日、『高信太郎のオールナイトニッポン』のディレクターを担当していた、岡崎(近衛)正通は、メインパーソナリティの高からある男について話を聞く。それは「福岡から来た早稲田出身の変な男が夜な夜な新宿のバーでデタラメな外国語を話している」というものだった。それを聞いた岡崎は、その変な男は以前早稲田大学のモダンジャズ研究会にいた森田一義、のちのタモリではないかと直感する。かつて自身も所属した同研究会で異彩を放った同い年の後輩を岡崎は記憶していた。高に名前を確認すると、やはりタモリであった。そこで岡崎は、高からタモリの連絡先を聞き、当時赤塚不二夫宅にて居候をしていたタモリと久方ぶりの再会を果たすこととなる。その年の夏に岡崎は有楽町にある、ニッポン放送にタモリを招き、オーディションを兼ねつつ遊びの感覚でタモリのトークをテープに録る。その内容は確かに面白いものであったがかなり過激であり、放送禁止の内容に溢れていた。その後、岡崎は『高信太郎のオールナイトニッポン』にてタモリの芸を披露する機会を設ける。すると、リスナーの反響は徐々に高まり、タモリの出演回数も増えていった。同番組は、1975年9月に最終回を迎える。その最終回のゲストは、アグネスチャンであったが、岡崎はその回にもタモリを出すことを思い付く。そして、当日の放送でタモリはアグネスのファンを名乗る中国人として電話出演、デタラメな中国語を披露する。これによってニッポン放送社内の、まだ無名だったタモリに対する注目が高まることとなった。同じ時期、TBSラジオで放送されていた、林美雄がメインパーソナリティを務めていた『パックインミュージック』に高がゲスト出演した際にタモリも出演。林が話すデタラメなニュースにタモリがこれまたデタラメな外国語で同時通訳をした。この放送はかなりの印象をリスナーに与え、当時の10代目柳家小三治もTBSに問い合わせをしたという。こうした状況のもと、1976年以降、『オールナイトニッポン』全般を取り仕切る立場にあった岡崎は、タモリの起用を決断する。当時のタモリは芸能活動を始めてまだ2年目の新人タレントではあったが、彼を起用することに対して、ニッポン放送社内では特に大きな反対はなかった。ほか当番組が終了した要因は、1982年10月4日から長寿バラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系列)が始まったためである。この番組のため、タモリは土曜日・日曜日を除いて、毎朝10時に新宿のスタジオアルタに行かなければならず、毎週水曜日深夜27時まで生放送をするのは体力的に不可能であった。しかし、タモリや所属事務所の田辺エージェンシーとしては「オールナイトニッポン」が当時のタモリの唯一とも言える看板番組であったため、多少スケジュールが厳しくても番組を続けたい意向が強かった。タモリ本人にとっても、この「オールナイトニッポン」で自分の乗せ方や乗り方が分かったと後日述べているように、タレントとしての自分を形成する重要な場所がこの番組であった。それ故『笑っていいとも!』の放送開始後も約1年は当番組を続けていた。タモリが勝手にスポンサーにキャッチコピーをつけていた。など他にブルボン、白泉社などキャッチコピーをつけない場合もあった。

出典:wikipedia

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