越智 大祐(おち だいすけ、1983年6月30日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(投手)。今治市立菊間中学校では捕手だったが、新田高等学校時代に正捕手争いに敗れ、2年夏までは控え捕手。内野手を経て投手に転向した。卒業後は早稲田大学人間科学部へ進学。早稲田では和田毅や清水大輔に次ぐ投手として、1年春から2年秋まで無傷の11連勝、早大野球部史上初の「東京六大学リーグ4連覇」に貢献した。3年次には一時調子を落としたがすぐに復調し、秋には防御率1.01で最優秀防御率賞を受賞。大学時代の通算成績は43試合登板し15勝5敗、防御率2.61。投球回数(183回)を上回る205三振を奪った。2005年の大学・社会人ドラフトで読売ジャイアンツから4巡目指名され入団。ドラフト直前には栂野雅史を指名予定だった横浜ベイスターズが巨人に先に栂野を指名された場合は、越智を報復指名すると報道されたが、越智が横浜入りを拒んだため、指名回避される一幕もあった。、2軍でシーズンを終え1軍登板無し。翌年から背番号が35から62に変更された。、2軍での生活に終始したが、シーズン序盤に二軍投手コーチの小谷正勝からアドバイスを受けて投球のポイントを掴む。6月15日の登板で結果を残して以降は投球が安定し、150km/hを越える速球を武器に好投した。イースタン・リーグでは主にリリーフで22試合に登板して3勝1敗・防御率3.07、44奪三振だった。同年夏には北京プレオリンピック野球日本代表の候補にも挙がったが、故障のため辞退した。、初の開幕1軍入りを決め、3月28日の対東京ヤクルトスワローズ戦で中継ぎとしてプロ初登板。しかし、制球難から打たれる場面が多く、4月18日に2軍落ち。5月4日に再登録された後は敗戦処理での登板が主だったが、しだいに制球難・防御率が改善され、7月25日の東京ヤクルトスワローズ戦で初勝利を挙げる。シーズン途中からは山口鉄也と共に中継ぎの柱を担った。チーム最多の68試合に登板した一方で、セ・リーグ最多の15暴投を記録した。11月9日、埼玉西武ライオンズとの日本シリーズ第7戦では1点リードの7回から登板。ところが、8回に片岡易之への死球を機に同点を許すと、連続四球でピンチを広げ平尾博嗣に決勝適時打を打たれた。結果的にチームは日本一を逃したが、原監督は試合後に「越智と心中したのだから間違いは無い」とコメントし、一介の無名投手から名を挙げたシーズンとなった。シーズンオフには年俸も大幅に上がり、背番号も22に変更された。、開幕前、越智とともに前年に飛躍した山口とのコンビ名がスポーツ報知で募集され、応募総数1290通の中から越智と山口が選んだ「風神雷神」に決定。越智は「雷電フォーク」で打者をねじ伏せる「雷神」を目指すという意気込みをみせた。開幕からシーズンを通じてブルペンに待機し、山口や豊田と共にリリーフとして貢献。4月30日にはマーク・クルーンの代役として抑えを務め、プロ初セーブを記録。夏場以降は登板間隔や点差が開いた試合で制球が乱れ、打ち込まれる場面がみられた。防御率は前年の2.40から3.30と1点近く悪化したが、1年を通して山口と共に勝利の方程式として活躍を見せた。8月2日の阪神戦では山口が迎えたピンチを越智が抑えるという場面もあり、試合後には山口と自分は「2人で1つ」とコメントした。、59試合に登板し、3年連続50試合以上登板を達成。久保裕也、山口鉄也らとともに勝ちパターンにおける中継ぎとしての役目を果たした。シーズン終盤には不調だったマーク・クルーンの代わりに抑えを務める場面も見られた。防御率は前年と同水準の3.20だったが、投球回は56.1と減少。シーズン終了後、前年比500万円減の8000万円で契約更改を行った。オフにはアパレル関連会社に勤務していた当時24歳の女性との入籍を発表。「守るものが増えた。家庭の守護神でもあり、巨人の守護神にもなれるように頑張りたい。」とコメントした。翌年4月16日には長女が誕生している。、クルーンの退団にともない抑えへの転向も期待されたが、キャンプから調子が上がらず開幕1軍を逃す。4月下旬に負傷した山口に代わり1軍昇格したが、8月8日に再度の3軍落ち。8月26日に一軍に復帰し終盤戦では安定した投球を見せたものの、登板数は42試合に留まった。シーズン終了後は復活への期待をこめて秋季キャンプの投手陣リーダーに指名された。は開幕を1軍で迎えるが、4月4日の広島戦後に登板後に両足の違和感を訴え、19日に登録抹消。2軍で調整を続けていたが症状は消えず、病院で診察を受けた結果、特定疾患指定の難病である黄色靭帯骨化症であることが判明。医師からは「野球を続ければ、2年後には車いすの生活になる」と告げられた。手術を受けることになり、シーズン中の復帰は絶望的となった。6月28日に手術は無事成功し、7月からリハビリを開始。8月下旬には近距離からの投球を行った。9月末にはブルペンにも入り、12月の契約更改の時点で本人いわく「8割の力で投げられる」程度にまで回復した。、故障の影響もあり1軍登板は無かったが、10月に宮崎で行われたフェニックスリーグのメンバーにも選ばれる。また、2009年からこの年まで着けていた背番号22を、2013年のドラフト会議で巨人から1位指名された小林誠司に与えることが決まったため、2014年から背番号を67に変更することになった。も1軍登板できず、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。その後、現役引退を表明した。麻布で焼き肉店を営んでいる。150km/h前後の直球と「雷電フォーク」と呼ばれる落差が大きいフォークボールを軸に三振を奪う投球スタイル。投げる際に前足を大きく前に踏み込む2段モーション気味のフォームを使用する。速球は最速155km/hを記録し、フォークも140km/hを超える。また、ややシュート気味に変化するツーシームとスライダーやカーブも時折り投げる。その一方で暴投も多く、2008年には中継ぎ投手ながら15暴投を記録している。これは、リリーフのみで登板した投手としては最多記録である。2008年の一軍デビュー以来、中継ぎ投手陣の柱の一人として活躍する一方で、2009年以降は毎年夏場に不調に陥ることが多い。2011年はそれまで空振りをとれていたフォークを見送られる場面が増えた。
出典:wikipedia
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