岸田 護(きしだ まもる、1981年5月10日 - )は、大阪府吹田市出身のプロ野球選手(投手)。現在はオリックス・バファローズに所属。吹田市立西山田小学校1年から地元の少年野球チーム「高野台バード」で野球を始め、3年生から投手となる。吹田市立西山田中学校では軟式野球部に所属、履正社高等学校に進学後は硬式野球部に入部し1年生からベンチ入りする。同校は初の甲子園出場を果たしたが、本人の登板機会はなかった。その翌年は第80回記念大会で大阪を北と南に分けて代表校を決めたが、北地区の決勝で久保康友擁する関大一高に敗れ2年連続出場はできなかった。高校卒業後は東北福祉大学を経て社会人野球のNTT西日本に入社、1年目に第75回都市対抗野球大会出場。の第76回都市対抗野球大会出場、社会人野球日本選手権大会準優勝に貢献し、同年秋の大学生・社会人ドラフトでオリックスから3巡目指名を受け入団。なお、同僚の山崎隆広、藤井淳志、齊藤信介、脇谷亮太らもこの時指名されプロ入りした。5月30日の対中日戦でプロ初登板。シーズン最終戦の対楽天戦で初先発し、塩川達也にプロ初本塁打となる決勝ソロを浴び、8回までその1失点に抑えたが味方打線の援護が無く敗戦投手になった。二軍ではウエスタン・リーグで先発とリリーフの両方で起用され、31試合に登板して防御率1.80で最優秀防御率のタイトルを獲得。規定投球回に達した9人中、唯一被本塁打0で四死球も2番目に少なかった。は一軍に定着。4月5日の対ロッテ戦で同点の場面で登板して、8回表に青野毅に勝ち越しソロ本塁打を打たれるも、その裏にグレッグ・ラロッカが逆転決勝2ラン本塁打を放ち、プロ初勝利を挙げた。先発投手が試合の序盤で降板した際のロングリリーフが多く、その後の失点を殆ど許さない好投を見せた。シーズン後半は先発ローテーションに入り、11試合に先発して2勝と勝ち星には恵まれなかったが、防御率2点台で126回を投げて115奪三振を記録するなど活躍した。は開幕からのローテーション入りが期待されたが、開幕直前に腰の張りを訴え離脱。4月22日の対日本ハム戦でシーズン初登板初先発を果たし、5月5日の対ロッテ戦で8回3失点でシーズン初勝利。しかし、5月17日に右足内転筋を痛めて、離脱。8月29日の対日本ハム戦で復帰後初登板すると3連勝してチームのAクラス入りに貢献したが、故障による離脱が響き投球回数は前年の半分近くに減り4勝に終わった。なお、この4勝は全てスカイマークスタジアムで挙げた。は課題としていた怪我克服のために、オフには同僚大引啓次の実家である神須牟地(かみすむち)神社でお祓いをしてもらい、ヨガにも取り組んだ。その甲斐もあり、開幕ローテーション入りを果たし、4月にプロ初完封を含む3連勝で、一時は投手部門三冠上位につける安定した活躍を見せていた。ところが、5月10日に右肩の張りで戦線離脱。その後、7月4日に戦線復帰を果たすと、着々と勝ち星を積み重ね、最終登板戦である10月8日の対日本ハム戦で自身初の二桁勝利を達成。しかし、規定投球回数到達にはわずかに及ばず、自身が離脱した間にチームは5月に9連敗、6月に7連敗と大型連敗を繰り返したのもあり、またしても故障による長期離脱が悔やまれるシーズンとなった。、背番号を18に変更。開幕第3戦で4回からリリーフ登板すると、6回1失点の好投で最後まで投げきり、シーズン初勝利を挙げる。しかし、先発としては要所で踏ん張りきれない投球がやや目立ち、5月9日の対ロッテ戦からリリーフに転向。更に、開幕当初は抑えを務めていたジョン・レスターが安定感に欠く投球内容が目立ってきたため、6月10日の対巨人戦で初セーブを挙げ、クローザーに指名された。同じくリリーフへ転向した平野佳寿と共に勝利の方程式として交流戦優勝に貢献し、リーグ戦再開後も抑え投手として活躍。先発としては6試合に先発、防御率4.85、1勝4敗、WHIP1.38、奪三振率6.61であったが、救援としては51試合に登板し、セーブ数こそなかなか伸びなかったものの、防御率2.18、5勝1敗、11ホールド、12セーブ、WHIP1.16、奪三振率9.43の好成績を残した。オフには日高剛に代わって選手会長に就任。一般女性との結婚を発表した。も抑えとして開幕一軍入り。前年度に引き続き勝利の方程式としてセットアッパーの平野に次いでリーグ2位の68試合に登板し、日本ハムの武田久に次いでリーグ2位の33セーブ、リリーフながら奪三振も79を記録した。しかし、リードしている場面での失点や同点の場面で登板して痛打を浴びるなどして6敗を喫し、防御率2.61と被安打66、自責点も23など安定感の面で課題も見られるシーズンとなった。首位ソフトバンクには防御率2.00で2勝、2位日本ハムには2敗しながらも防御率0.93と善戦する一方で、シーズン中何度も3位争いをした楽天とは9試合で防御率5.40・自責点6の2敗を喫するなど苦戦した。また、この年には監督推薦で自身初のオールスターゲームに選出され、第1戦の9回に5番手で登板して三者連続三振、大学時代に過ごした東北での第3戦でも9回に登板し、被安打1の無失点で抑えるなどの活躍を見せた。オフの契約更改では1億1,000万円でサインし、わずか1年で選手会長を鈴木郁洋に譲り副会長に就任。1月22日に大阪府茨木市で開かれたイベントでメジャーリーグ志向があることを明らかにしたが、メジャー挑戦の時期については「まだまだ(日本で)やることがいっぱいありますから。それを全部クリアしないと納得して行けないでしょう」と語った。この年も開幕から抑えとして君臨し、5月は11試合の登板で防御率4.50とやや打ち込まれるものの、6月は一転して10試合で無失点に抑える等、他球団も抑え投手が不調・故障等で固定しきれない中でまずまずの働きを見せていた。しかし、8月19日の対ソフトバンク戦で1点ビハインドの9回表に登板するも、牽制死により1死を奪うものの長谷川勇也に2ランを浴びるなど4連打3失点と打ち込まれ、この試合以後は平野と配置転換で中継ぎに回った。中継ぎに転換されてからは3試合で無失点に抑えていたが、9月1日の対楽天戦で投球中に右内転筋の肉離れを発症して翌日に登録抹消。本拠地最終戦となった10月7日の対西武戦で復帰登板を果たし、最終回を1回無失点に抑えた。この年は52試合に登板して4勝2敗18S、防御率2.42の成績を残した。対ソフトバンク戦は前述の試合に加えて、5月10日の対戦で3点リードの9回表2死から3連打で、松中信彦に通算350本塁打となる同点2ランを打たれた事もあり、7試合の登板で防御率8.59となった。は先発再転向を目指すも、2月のキャンプ中に左太もも裏を肉離れし、調整が遅れ開幕は二軍でむかえた。しかし、チームは開幕カードの千葉ロッテマリーンズ戦で2度延長12回を戦うなど、中継ぎ投手をつぎ込んだことから、岸田を昨年までと同様に中継ぎとして起用することを決めた。8月13日の日本ハム戦にて、8回に中前打を捕球しようとジャンプした際に右足甲を痛め登録抹消。検査の結果、リスフラン靱帯の損傷と判明し、シーズン中の復帰は絶望となった。も先発転向を目指して開幕ローテーション入りし4年ぶりの先発初登板で勝利をマークした。しかし、その後成績が振るわず再び中継ぎに配置転換された。主に勝ちパターン系統投手の前や休養時などバックアップ要員として55試合に登板し自己新となる12ホールドをマークした。は故障の出遅れもあり序盤は不調だったが、ほかのリリーフ陣が軒並み調子を落とす中盤以降勝ちパターンに定着し15ホールドを記録した。投げる際に少し首を傾け、ゆっくり足を上げて鋭く腕を振る独特のフォームから投げる平均球速143km/h、最速152km/hの手元で伸びるストレートとスライダー、チェンジアップを軸にし、カーブやシュートも交える。フォークを投げることはできないが、その代わりにチェンジアップをフォークのように意識して扱っているという。監督の岡田彰布は2010年のシーズン途中から抑えに転向させた経緯について「岸田に関しては、来季からの抑え役として考えていた。だが、チーム状況を考えて、あの段階で抑えに廻ってもらった」と語り、当初から抑えとして起用する意向を明らかにしていた。
出典:wikipedia
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