元帥(げんすい)は、ドイツ軍人にとって、尉官、佐官、将官を超える軍人に与えられる最高位の階級である。陸軍、空軍では と呼ばれ、海軍では と呼ばれた。日本語では共に「元帥」と訳される(海軍だけは大提督と訳される場合もある)。本項では、帝政ドイツ成立(1871年)以降のドイツにおける元帥位について述べる。Marschallは、語源的には古高ドイツ語の馬屋番であるmarahscalcという単語に遡る。17世紀末からヨーロッパ各国の軍隊で軍人の最高位の階級として使用され始めた。ドイツにおいてこの頃 という表現が一般的であった。この時代の元帥は軍の最高指揮官であるのみならず、外交儀礼上は国務大臣と同格に位置付けられ、政治的な広がりを持っていた。元帥杖() には君主の主権紋章が彫り飾られ、君主が自らこれを手渡した。つまり君主の権能の一部を所有する者であることを元帥杖は示している。プロイセン陸軍においてはと呼称された。現役の軍人が平時ではなく、戦時に敵の要塞を占領した場合にのみ付与されることのできる階級であった。元帥が叙任されるのは、原則として戦時のみであったが、平時に同盟国の君主に名誉称号的に元帥位が与えられることがあり、また、軍功著しい将軍が退役するにあたって元帥に叙されることもあった。このため1940年以前には元帥位を有する上級大将 () という地位が設けられていた。これは「元帥は戦時にのみ任命される」という原則を崩すことなく、平時に上級大将を昇進させるために考案されたものだった。プロイセン陸軍では元帥は生涯現役が許された。また、元帥には個人警護が付けられ、公邸には儀仗兵が立哨する等の特権が与えられていた。1870年10月28日、普仏戦争で活躍したプロイセン王子フリードリヒ・カール・ニコラウスおよびプロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムに対し の地位が与えられた。これはプロイセン王族が元帥となった最初の事例だった(それまでプロイセン王国においては、プロイセン王族には元帥位を与えない伝統があった)。以降、帝政ドイツ時代には総計40名の元帥が誕生している。この時代の元帥杖は軸の部分が空色であった。第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制下において、ドイツは共和国となり、陸軍兵力を10万人に、海軍兵力を1.5万人に制限されることとなった。ヴァイマル共和政期のドイツ軍は国軍 () と呼ばれた。この時代には元帥は制定されておらず、最高位は上級大将 にとどまった。1933年、ナチスが政権を掌握しナチス・ドイツが成立。1935年には国軍が、国防軍 () に改称され、1936年、元帥位が復活させられる。同年4月20日、国防軍総司令官兼軍務大臣 () のヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将が元帥に任ぜられ、国防軍最初の元帥が誕生した。しかしブロンベルクは1938年1月26日、ヒトラーの戦争計画に反対してスキャンダルをきっかけに罷免された。1940年7月19日にはフランス侵攻での軍功を讃え、9名の陸軍元帥が誕生した。彼らの元帥杖は軸部分が真紅のビロードで覆われていた。これ以降、終戦までに総計19名が陸軍元帥に昇進した。1940年8月31日に元オーストリア・ハンガリー帝国元帥であった男爵エードゥアルト・フォン・ベーム=エルモッリが国防軍元帥に叙されているが、当時84歳のベーム=エアモッリは既に軍務を退いて久しく、これは名誉称号として授与されたものだった。一方、第二次世界大戦中に連合国軍で誕生した陸軍元帥は、アメリカ軍4名、イギリス軍9名、ソ連軍13名であり、ドイツ軍においては元帥の起用の多さが見てとれる。1900年5月3日、海軍における陸軍元帥と同格の階級として、海軍元帥(, 直訳すると大提督)の階級が皇帝ヴィルヘルム2世によって制定された。制定と同時にヴィルヘルム2世自身がこの階級を帯び、帝政ドイツ期には総計6名、第三帝国(国防軍)期には総計2名にこの地位が与えられた。第三帝国期には、もっぱら海軍総司令官のみがこの階級に叙されている。ヴァイマル共和政期には海軍元帥は任命されていない。海軍元帥には、陸軍元帥の元帥杖に相当する海軍元帥杖 () が与えられた。帝政ドイツ時代の海軍元帥杖は軸部分が真紅のビロードで覆われていたが、第三帝国期には紺色のものに変更されている。ヴェルサイユ条約で空軍の保有を禁止されたドイツだったが、1935年のヴェルサイユ条約破棄・再軍備宣言以後ヘルマン・ゲーリングが長い空白期を乗り越えて空軍を建設した。この功績を讃え、1938年にはゲーリングが最初の空軍における元帥となり、以後、空軍からは終戦までに総計6名の元帥が誕生している。ただし、ドイツ語では陸軍元帥も空軍元帥も「」と呼ばれ、呼称に違いはなかった。ちなみにヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは47歳の若さで元帥に任官しており、これはプロイセン軍以来最年少の記録である。また、1945年4月25日(ヒトラーが自殺する5日前)に任官したローベルト・フォン・グライムは、全軍で最後の元帥となった。1940年7月19日、ヘルマン・ゲーリングに、新たに国家元帥 (,帝国元帥、大ドイツ総元帥とも訳されている) の地位が与えられた。このReichsmarschallという称号は、かつて神聖ローマ帝国で使用されていたもので、ヒトラーによりゲーリングにこの称号が与えられた。他の国防軍三軍の元帥よりも上位に置かれ、ゲーリングが第三帝国においてヒトラーに次ぐ序列であることを指す。国家元帥は階級章も特別のものが用意され、元帥杖をX字に交差させたモノグラムの上に鷲の国章を配したものが用いられた。また、ゲーリングには軸部分が白色の元帥杖(象牙製だったと伝えられる)が与えられた。1944年、ヒトラーの指示により、武装親衛隊に民族元帥 () の名称で元帥位を新たに導入することが計画された。理由は武装親衛隊員を国防軍の元帥に任命することはできないからである。この元帥位は、ヨーゼフ・ディートリヒ親衛隊上級大将が1944年12月のアルデンヌ攻勢を成功させた場合、ディートリヒに与えられる予定だった。しかしアルデンヌ攻勢は失敗に終わったため、この昇進は実現しなかった。結局、この階級に任ぜられた者は1人も出現していない。しばしば、親衛隊全国指導者ヒムラーを元帥と同格の階級に位置付ける記述が散見される。しかし親衛隊全国指導者は、武装親衛隊のみならず、SD () やゲシュタポ等の情報機関・警察組織をも統括する親衛隊全体の最高指導者としての職位であり、階級ではない。国防軍の階級と単純比較することはできない。第二次世界大戦後、ドイツは東西に分裂した。再軍備が始まり、西ドイツにはドイツ連邦軍、東ドイツには国家人民軍が生まれたが、ともに元帥の階級を廃止した。ドイツ連邦軍において陸軍、空軍の最高位は大将 ()、海軍の最高位は海軍大将 () となった。東ドイツにおいては上級大将 () が陸軍および空軍の最高位となり、海軍の最高位は海軍上級大将 () にとどまった。1982年5月25日、ドイツ民主共和国では新たにドイツ民主共和国元帥 () の階級が制定され、元帥位が復活。これは上級大将よりもさらに高位に位置付けられるもので、戦時においてのみ付与されるものとみなされていた。1985年に国防大臣のカール=ハインツ・ホフマン上級大将が死去した際、ホフマンにドイツ民主共和国元帥の称号を追贈することが計画されたが、これは結局実行されなかった。1989年、国防大臣テオドール・ホフマン海軍大将はドイツ民主共和国元帥の階級を廃止し、その後東西ドイツは統一されたため、この階級を授与された者は1人も出現していない 。ドイツ軍には正式な元帥の他に、元帥位を有する上級大将(, あるいは )と呼ばれる元帥に準ずる地位も存在した。この称号を与えられた者は階級としてはあくまでも上級大将にとどまりながらも、元帥の地位に付随するいくつかの栄誉を帯びることができた。例えば俸給は上級大将と同額だったが、宮廷序列は上級大将よりも高位で、元帥と同格とされた。既に述べたように、プロイセン軍以来の伝統によれば元帥は原則として戦時にのみ任命されるものだった。それ故、平時において上級大将を昇進させる必要が出た場合、しばしばこの元帥位を有する上級大将の称号が贈られている。功績著しい上級大将が退役する際に名誉階級として与えられた他、諸侯に名誉称号として贈られることも多かった。オットー・フォン・ビスマルクも首相を退任する際、この称号を得ている。帝政ドイツ期の元帥位を有する上級大将は、元帥位を表す元帥杖を交差させたモノグラムと上級大将の階級を表す星3つとを組み合わせた階級章を用いていた。元帥位を有する上級大将は第三帝国期の国防軍においても制定されていたが、階級章は帝政ドイツ期と異なり、星4つを長方形の頂点の位置に並べたものと定められていた。ただし国防軍時代にこの階級を与えられた者は1人もいなかった。
出典:wikipedia
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