辻 竜太郎(つじ りゅうたろう、1976年6月8日 - )は、大阪府箕面市出身の元プロ野球選手(外野手)。選手時代の登録名は竜太郎(りゅうたろう)。箕面市で生まれ、父親である辻哲也が中日ドラゴンズに在籍していたことから「竜太郎」と名付けられた。父の影響で4歳頃から野球を始め、箕面第六中では投手を務めていた。中学3年の時に選手権大会での上田佳範の活躍を見て、松商学園への進学を決めた。高校では外野手に転向して1年夏から四番を務め、2年夏には選手権大会に出場。初戦で長崎日大と対戦し、中村隼人から9回に長打を放って同点への足がかりを作ったものの、延長の末に敗れた。明治大学では小笠原孝と同級生で、1年次からレギュラーとして活躍。1年秋には中村豊・筒井壮・野村克則・橿渕聡といった、のちにプロ入りする先輩選手が大勢いる中で4番レフトを任されていたこともある。4年時には主将を務め、春季リーグ戦ではリーグ3位の打率.367をマークして初のベストナインに選ばれ、優勝に大きく貢献した。同年の秋季リーグでも打率.311でベストナインに選出されている。4年間でリーグ通算81試合に出場し、307打数86安打、打率.280、4本塁打、39打点の成績を残した。大学卒業後はヤマハに進み、1年目の2月にはアマチュア全日本候補選手として巨人のキャンプに参加し、長嶋茂雄監督から直接打撃の指導を受けている。同年の都市対抗では若獅子賞を受賞した。翌は都市対抗で2試合連続本塁打を放ち、初の社会人ベストナインに選ばれている。2001年のドラフト会議でオリックスから8巡目で指名を受け、契約金2000万円、年俸600万円(金額はいずれも推定)で入団した。プロでの登録名は竜太郎となり、1年目は34試合に出場。翌は大島公一とともに自主トレを行い、野球に対する高い意識に大きな影響を受けたという。同年は79試合に出場して7本塁打を放ち、特に岩隈久志から記録した初本塁打はNPBで一番の思い出になった。は規定打席未満ながら打率.325をマークし、近鉄とのシーズン最終戦では勝ち越しの3ランホームランを放ったものの、一軍出場は52試合にとどまっている。同年オフに選手分配ドラフトを経て東北楽天ゴールデンイーグルスへの移籍が決まった。背番号は自ら当時編成部長だった広野功に希望を伝え、一旦は希望通り7に内定していたが、少し遅れて自由契約でオリックスから移籍した山崎武司も7を希望し、自ら竜太郎を説得する意向まで広野に直訴したため、最終的にはオリックス時代と同じ48となった。は開幕前に監督の田尾安志から「荒削りだが理想的」と打撃を高く評価された一方で、守備を課題として指摘された。楽天のファンサイトではレギュラーメンバー予想で名前が挙げられていたが、同年は31試合の出場に終わった。移籍2年目のは、打撃こそ好調だったが守備・走塁の技術不足を露呈し、さらに出場機会が減ってしまった。移籍3年目のはオープン戦は好調だったが、一転してシーズン開幕後は機会を生かせず、チームの戦力構想から外れて退団。現役続行を目指し、12球団合同トライアウトを受験したが獲得球団はなかった。から高校時代を過ごした長野県を本拠地とするBCリーグ・信濃グランセローズに打撃コーチ兼任で入団。2008年シーズン終了後にNPBの12球団合同トライアウトを再び受験したが、ここでも獲得球団は現れなかった。以降も引き続きコーチ兼任選手として信濃でプレーし、2009年は首位打者に輝いた。を以ってコーチ職を退任し、からは選手に専念していたが、からは再びコーチ兼任でプレーしている。5月30日の福井戦でBCリーグ史上2人目となる通算400安打を達成。6月21日に選手契約を解除し、コーチ専任となったが、7月2日に再び選手登録された。7月21日の試合後に、監督の大塚晶文がBCリーグ憲章に反する行き過ぎた指導があったとして、7月23日に活動自粛したため、7月25日の群馬戦から7月29日の新潟戦までの4試合で監督代行を務め、3勝1敗の成績を残した。10月14日に現役引退が発表された。引退と同時にから古巣・オリックスに指導者として復帰することが発表された。背番号は79。2015年は二軍外野守備走塁コーチ、から二軍打撃コーチ。
出典:wikipedia
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