仙南温泉軌道(せんなんおんせんきどう)は、かつて宮城県柴田郡大河原町と同県刈田郡宮村(現・蔵王町)の遠刈田温泉を結んでいた軽便鉄道およびその運営会社である。その社名から察することも可能なように、遠刈田や青根と言った温泉地、一般にも登山が解禁され始めた蔵王連峰など、沿線の観光地へと向かう旅客を強く意識した経営がなされた。始め城南軌道として創始され、紆余曲折の後、自社とほぼ同じ路線敷設計画を持っていた仙南軌道を買収。当初の予定通りの軌道線を完成させるに至った。しかし勾配区間における列車の鈍足さを克服できなかったことなどから、特に全線開通後はバスとの競争に苦しみ、僅か20年ほどで早々に廃線へと追い込まれた。その後は一時バス専業の会社となるも、秋保電気鉄道との合併によって再び鉄道経営を行う立場となる。しかし、程なくこれも廃止となり、最終的には再びバス専業の会社として、宮城交通発足の際にはその母体の一つとなった。廃止時点後に当軌道の終着地点となる遠刈田温泉は、江戸時代の間こそ目立たない存在だったものの、明治期に入ると次第に観光地として発展を見せるようになった。そのため1887年(明治20年)に日本鉄道線(後の省線。現在のJR東北本線)が開通すると、それから間もない1891年(明治24年)頃には、駅が設置された町まで人力車、馬車を使った送迎が行われ始めたが、しかしその当時はまだ温泉へと至る道は未整備で、本格的な旅客輸送方法が登場することへの期待は少しずつ高まりつつあった。こうした状況を受けて、また現在の川崎町青根地区に産出していた鉄鉱石の輸送も目的として、1900年(明治33年)に「柴田鉄道」が設立された。この会社は最初、日本鉄道線大河原駅を起点とし、現在の大河原町金ヶ瀬地区、蔵王町宮地区、永野地区、遠刈田地区を経て川崎町青根地区まで馬車鉄道を敷設。最終的には内燃化ののち路線の電化までをも計画するなど、非常に意欲的な企図を持っていた。しかしその構想は資金難のため、あえなく終わらざるを得なかった。1904年(明治37年)、川崎町青根地区において本格的なマンガン鉄などの鉱脈が発見されたことから、「日本製鉄」(八幡製鐵所などを運営した日本製鐵とは無関係。別名を青根鉄山)が発足。1906年(明治39年)には遠刈田地区へ製鉄所を建設すると共に、当時の製鉄業界の中心地であった九州北部へも搬出できるよう、鉱石運搬用の馬車鉄道を敷設するむね申請を行った。この馬車鉄道は、青根地区の採掘場から遠刈田地区の製鉄所を経由、現在の蔵王町永野地区、大河原町堤地区を経て大河原駅へと至る計画とされたが、急傾斜地への対応や路線ルートから外された地域より反対を受けたことなどが問題となり、結局、遠刈田 - 永野間が先行して開業する運びとなった。1907年(明治40年)には、永野駅より先のルートを蔵王町宮地区を経て省線白石駅に変更しようとする誘致運動が起き、話し合いのため建設工事が一時中断されるが、この事態に危機感を募らせた大河原町が工事労働者の手配などを約束したため、路線の敷設は予定通りに行われることとなった。翌1908年(明治41年)には予定を一部変更し、青根 - 遠刈田間を貨物用索道として開通させている。こうして様々な困難を克服しながら徐々に軌道は敷設されて行ったが、しかしその建設母体である日本製鉄が不況などを原因とし、1910年(明治43年)ごろに解散を決めてしまう。このため馬車鉄道の計画そのものが立ち消えとならざるを得ない事態となったが、ただ会社そのものは東京資本であったものの地元の富裕層からも投資を受けていたため、高炉などは遠方に移設された一方、遠刈田 - 永野間の既開業線については「仙南軌道」として地元資本に引き継がれることとなった。仙南軌道の経営は、主に現在の蔵王町や福島県在住の資産家が中心となって行われた。懸案となっていた永野駅以遠の路線ルートについては、旧日本製鉄時代の予定を変更。永野駅から現在の蔵王町永野地区、宮地区、白石市白川地区を通り、省線北白川駅へと至るものとした。しかし程なくして現在の大河原町、村田町在住の資産家が中心となり、「城南軌道」が発足した。この会社は省線大河原駅から、現在の村田町中心部を経由し、蔵王町平沢地区から、永野地区・駅へと至る路線ルートを想定していた。この計画は仙南軌道と同様、遠刈田温泉と省線の駅とを結ぶことをその目的としており、そのため両社の路線計画は完全に重複することとなった。この"競願"という事態に認可を行う立場の宮城県は苦慮し、そののち約2年もの時間が調停のために費やれることとなった。結局、当時の郡長の奔走によって調停は成立。仙南軌道が遠刈田 - 永野間を、城南軌道が永野 - 大河原間をそれぞれ開業させることとし、1915年(大正4年)に再申請を行って両社とも開業に漕ぎ着ける運びとなった。しかし請願を行った両社ともに、会社の設立から長く続いた紆余曲折がその経営に影を落とす結果となった。仙南軌道は他の近代的な交通網から孤立して存在することとなり、馬車や自動車による連絡こそあったもののその業績は伸び悩まざるを得なかった。また永野駅以遠の路線計画が凍結となったことで事態を根本的に解決する望みも絶たれ、会社の発起人と社長が共に持ち株を城南軌道に売却して引退する羽目となった。城南軌道は開業の実現を危ぶむ声が出資者の間で高まり、資本金の返還を求められてやむなく減資を行わざるを得ない事態となったうえ、この騒動の影響で開業予定がさらに遅れることとなった。これら事情のために両社の間ではかなり早い時期から合併の機運が高まっていたが、1920年(大正9年)、ついに城南軌道が仙南軌道を吸収すると言う形で両社の合併が行われるに至った。そして翌年の1921年(大正10年)に、社名を「仙南温泉軌道」と改称。さらに1922年(大正11年)には永野駅 - 村田駅間のレールが繋がったことで、最初の柴田鉄道の計画から約20年をかけ、ようやく目的が達成されることとなった。事業者名等は廃止時点のもの
出典:wikipedia
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