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快川紹喜

快川 紹喜(かいせん じょうき、文亀2年(1502年) - 天正10年4月3日(1582年4月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧。諱は紹喜(じょうき)。字は快川。俗姓は土岐氏で、美濃国の出身といわれるが、別説もある。永正10年(1513年)、12歳で出家。天文14年(1545年)5月16日、快川の母が亡くなる。妙心寺の仁岫宗寿の法を継いだ。美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職となる。美濃国主の斎藤義龍との間で「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教上の混乱が起こり、一旦美濃を離れるが、義龍の死去に伴い帰国。永禄7年(1564年)には甲斐国の武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めている。甲斐では信玄に機山の号を授けている。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に、信玄嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた(「天正玄公仏事法語」)。天正9年(1581年)、正親町天皇より大通智勝国師という国師号を賜る。天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐により武田氏が滅亡して領内が混乱すると、中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため、信長に敵対した佐々木次郎(六角義定)、三井寺の上福院、足利義昭の家臣の大和淡路守らを恵林寺に匿い、織田信忠の引渡し要求を拒否したが、その後に焼討ちにあい、一山の僧とともに焼死した。「滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に」という言葉でも知られる。弟子には伊達政宗の教育の師として有名な虎哉宗乙がいる。1582年に恵林寺において焼死したとき、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世を残したといわれている。この言葉は、碧巌録による禅の公案であるが、もとは杜荀鶴の詩である「夏日題悟空上人院」の転結句である(原典は「…火も自ずから涼し」)。「心頭、火を滅却すれば、また涼し」の誤読とも言われる。なお、この辞世は『甲乱記』では快川と問答した僧・高山の言葉とされており、同時代文献には見られず近世の編纂物に登場していることから、本来は快川の逸話でなかった可能性が指摘されている。

出典:wikipedia

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