大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年8月29日 - 1980年5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。専攻は財政学。日本学士院会員。兵庫県三原郡高田村(町村制後:松帆村、現:南あわじ市松帆脇田)出身。旧制洲本中学校(当時の在校生に川路柳虹、高木市之助がいた)、第五高等学校を経て東京帝国大学法学部経済学科を首席で卒業(1913年に銀時計受領)大蔵省の書記官を経て、1919年に、新設された東大経済学部に着任、助教授として財政学を担当した。在任中は労農派の論客として活躍。1920年森戸事件に連座して失職、数年後復職。GHQの占領時には、当時大蔵大臣だった渋沢敬三が、日銀顧問に迎え、東京裁判でも証言台に立った。1949年に東大経済学部を退官後は、1950年より1959年まで法政大学総長。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者の一人として活躍した。1955年5月から6月にかけて日本学術会議のソ連・中国学術視察団に加わった。門下の美濃部亮吉の東京都知事立候補を強く支持し、美濃部都政を助けるなど、実践面でも社会主義を貫いた。また、鳩山一郎や吉田茂からの大蔵大臣への就任要請を断ってきた。社会保障制度審議会初代会長を務め、国民皆保険や国民皆年金の創設などを答申した。傾斜生産方式で日本の経済復興を促進させた有沢広巳は門下である。ソ連・中国学術視察団を経て、大内は社会主義について、「私も社会主義を勉強すること実に40年であるが、なにぶん進歩がおそく、社会主義がユートピアであるか科学であるかは、今まではっきりわからなかった。しかし、ここへ来て、いろいろの見学をして見て、それが科学であることはしかとわかった」と述べた。また、経済学の分野に関しては「ロシアの経済学は二十世紀の後半において進歩的な特色のある学問として世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。……こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよ光彩を加える名はレーニンとスターリンでありましょう」と、ソ連の計画経済を高く評価し、レーニン、スターリンの両名を経済学者として激賞した。しかし、ソ連の社会主義経済はその後30年あまりで崩壊することとなる。ハンガリー動乱について社会主義擁護の視点から、「ハンガリアは(米・英・日と比べて)政治的訓練が相当低い。そのためハンガリアの民衆の判断自体は自分の小さい立場というものにとらわれて、ハンガリアの政治的地位を理解していなかったと考えていい」、「ハンガリアはあまり着実に進歩している国でない。あるいはデモクラシーが発達している国ではない。元来は百姓国ですからね。」と、ソ連の圧政に対して蜂起したハンガリーの国民を批判的に論じた。東大安田講堂事件について論じた論文「東大は滅してはならない」(雑誌「世界」1969年3月号)で、「大学という特殊部落」という表現の記述があり、部落解放同盟の追及を受けたことがある(同誌3月号は回収し、4.5月号で謝罪)。また次男大内力も、同じくマルクス経済学者で元東京大学経済学部教授・副総長だった。東京大学経済学部には現在でも彼の名前を冠した「大内兵衛賞」が存在し、極めて優れた卒業論文を提出した学生が表彰されている。他に、吉田茂に請われ政府統計委員会委員長として戦後の統計の再建に尽力した業績を記念し「大内賞」というものもあり、統計界の最高栄誉とされている。岩波書店発行『世界』1969年3月号の巻頭論文「東大を滅ぼしてはならない」の中で、大内はこのように所感を述べた。この「特殊部落」という表現に対し、部落解放同盟の朝田善之助らは『世界』編集部と大内に激しく抗議し、謝罪文など多くの措置を約束させた。この結果、岩波書店は『世界』3月号を書店から回収する措置に踏み切り、翌4月号では編集部と大内の謝罪文を掲載した。この事件の影響で、岩波書店は1969年5月に『広辞苑』第2版の「部落」の項を改訂した。大内の事件から1年ほどのあいだに、岩波書店では部落解放同盟から数回抗議を受け、1970年7月には編集部長名で全社に「差別用語を死語とし、一切使わない。歴史的記述は伏字にする」という通達を出した。労組や職場ではこの通達に反対の空気も強かったという。
出典:wikipedia
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