迷宮(めいきゅう、ラビリンス)は、漫画批評誌『漫画新批評大系』を刊行するとともに、同人誌即売会の『コミックマーケット』、創作同人誌即売会『MGM(Manga Gallery & Market)』創設の母体となったグループ。現在はコミックマーケットからは分離している。ただし、創業者特権でサークル参加での抽選を免除されている(帳簿上は、コミックマーケット創設時に迷宮からの借金でまかない、それが現在でも残っている代償ということになっている)。1975年4月創設。亜庭じゅん、原田央男(霜月たかなか)、米澤嘉博、高宮成河、式城京太郎が中心メンバー。関西系の批評集団「構雄会」・同人誌名『漫画ジャーナル』と関東にあった「コミック・プランニング・サービス」・同人誌名『いちゃもん』の中心メンバーが合流して結成された。亜庭、高宮が『漫画ジャーナル』、原田、式城が『いちゃもん』のメンバーであり、米澤は新グループ発足に当たって原田から勧誘されてメンバーとなった。メンバーの大半は大学を卒業し新社会人になっていた。今後もファン活動を続けるかという岐路にあったが、新グループを結成して「延長戦」を戦うことを選択した。「延長戦」は原田がそれまでの活動で培ってきた人脈をフィールドとして始められ、亜庭がゲームを主導する形になっていった。全員がCOM世代であり、『COM』の自壊を目にしながら不満を口にするだけだった自分たちへの深刻な反省から自らを「運動体」と規定した。まんがファンとしての「自分たちの場所」を作り出すことを目標として、漫画批評誌の発行、新たな形でのイベント創出を2本柱とした。亜庭じゅん が漫画批評誌『漫画新批評大系』の編集責任者、原田央男が同人誌即売会『コミックマーケット』の代表、米澤嘉博は両者のサポートという体制であった。後年原田が代表を辞任した後、米澤がコミックマーケットの二代目代表となり、亜庭は創作同人誌即売会『MGM』を主催した。全活動を一貫していたのは一介のまんがファンでしかないアマチュアに一体何ができるのかという意識だった。迷宮の活動は先ず言葉を生み出す場所を作ることから始まった。漫画批評誌は亜庭じゅんを主筆とし、山上たつひこの『喜劇新思想大系』に倣い、誌名を『漫画新批評大系』とした。創刊準備号は日本SF大会を模した日本漫画大会に合わせて発行される手はずとなっていた。ところが、『迷宮』同人の知人が、漫画大会を批判したとの理由で参加を拒否される事件が起こった。批判内容は、漫画大会の警備員に「態度がおーへい」な人物がいたこと、そして「内容がつまらない」と評したことだったが、漫画大会の運営はこの批判に「開催目的にそぐわない意識を持つ者の参加は認められない」「委員の血と汗と涙に対する重大な屈辱」と主張した。迷宮はこの事件を重く見て、「漫画大会を告発する会」を結成し、大会事務局に説明を求めると共に、漫画大会の内情を告発するレポートを発行した。さらに、抗議に対して黙殺を続ける漫画大会に見切りを付け、主催者を含めた全員が平等であることを原則とする新たなイベントの創出を急務と認識させた。『漫画新批評大系』創刊準備号は、自らを「運動体」とする亜庭の『マニア運動体論』をマニフェストとしてメインに据え、原田が萩尾望都研究会『モトのトモ』の主宰であったこともあり、山上と並んで同人に評価の高かった萩尾の『ポーの一族』のパロディ『ポルの一族』も掲載された。それは、パロディもまんがへの有効な批評の一つの形態だとする意識と共に、読者に受け入れられるために内容の硬さを冗談で緩和する目的だったが、「まんがで遊ぶ」ことの提示でもあった。この真面目と冗談の入り交じった誌風は最後まで維持されることになったが、同様の気分はコミックマーケットにも持ち込まれることになった。青焼きコピーで発行された創刊準備号は漫画大会で約100部が完売し、さらに100人以上の予約購読者を得た。批評誌を出すに当たって、批評の方法として、先行する世代の批評に見られた既存の価値や概念にまんがを沿わせる手法を排して、「まんがをまんがとして語る」こととし、従来の言葉に頼らない自前の言葉を作っていくことを方針とした。漫画批評誌の主筆として亜庭じゅんは質量ともに並外れた筆力を示すと同時に編集者としての構想力を発揮し『漫画新批評大系』刊行の持続的な原動力となった。夏の創刊準備号に続いて秋の創刊号はほとんど全てのページを一人で埋め、周囲を驚かせたが、グループを結成したその年の冬に第3号まで刊行する爆発的な生産力を示し、更に周囲を驚嘆させた。亜庭によって書かれた評論自体も他を圧倒した。まんがの歴史的な流れのなかでの作家の意味を示し、その作家の個々のまんがを繊細に読み解きながら作家の作品史を辿ることで浮かび上がる作家の微妙な変化を掬い上げ、作家と作品が身にまとう「スタイル」と、それを読んでいる自分との間で揺れ動くまんがの意識を捉えようとした。意味論にも構造論にも偏らず、まんがの「スタイル」に身をさらす言葉は、読む者にとってまんがを新しく別な目によって再発見する快感を伴った「体験」だった。まんがを読み続けてきた蓄積を基にして日々目の前に現われる「いま」のまんがに寄り添うことで生まれる思考と言葉は、「まんがとはこんな風に読めるのだ」という個人的な切実さを伴ったレポートであり、「まんがとは読むに値するものだ」という読者へのメッセージでもあった。確信を伴ったこのメッセージは、変わっていくまんがを前にして大人の入り口で立ち止まっている読者に強い共感をもって迎えられ、批評誌としての『漫画新批評大系』への支持と信頼に繋がっていった。亜庭じゅんを中心とした迷宮同人達の言葉は常に「まんがを読む自分とは」という問いを含んでいた。それは後に「ぼくら語り」という揶揄を交えた評語により「世代的自閉」と「他の排除」として批判されることになるが、これらの批判に亜庭じゅんは既に「『ぼくら』はCOM世代でも全共闘世代でもない。自分がまんがにとらわれていると自覚したものたちが、同じくとらわれていると自覚したものたちを予感する時たちあらわれる幻のことだ」と簡潔に答えてしまっている。更には「ニューコミック」を論じて、「戦後まんがとは、史上初めて、『少年・少女』を対象として成立した、世界性を持ったジャンルだった。その意味は世界史的なものかもしれない」と30年以上の時を隔て、クールジャパンと言われるものを突き抜けてその先にまで届く認識を示している。亜庭の評論は同人たちに影響を与えるとともに対抗心を抱かせ、米澤は「亜庭じゅん」をもじった「阿島俊」をペンネームとし、原田は後年「アニメ・ジュン」をペンネームとした。亜庭自身もペンネームを使い分け、主に少女まんがを扱う場合は「亜庭じゅん」を、女性の視点から少女マンガを見る場合は「かがみばらひとみ」を、少女まんが以外を批評する場合は「葉月了」を使った。『漫画新批評大系』の刊行は3期に分かれる。快調な滑り出しを見せた『漫画新批評大系』の第1期は亜庭の「マニア運動体論」を連載しファン活動の実体を個別に評価・批判しつつ自らの位置の測定と考察を行ない「運動」の今後への展望を探った。並行して萩尾望都を中心とした24年組による少女まんがの変貌を積極的に評価した。第1期の終わりに刊行されたCOM特集号はとりわけ力のこもった号となった。第2期では「戦後少女マ ンガの流れ」を連載し歴史的なパースペクティブのなかで現在の少女まんがを捉えることを試み、個々の作家への評論と合わせて当時少女だけに読まれるものという意識が主流だった少女まんがへの認識を変えることに大きく寄与した。通巻10号では24年組が少女まんがに残した意味とそれを置き去りにしていこうとする少女まんがの現在とを取りあげて衝迫した号となった。少女まんが以外でも「三流エロ劇画」という言葉を最初に使用しその特集を組むことで三流エロ劇画ブームの起点となった。第3期ではCOM以後のまんがの多様性を「ニューコミック」という概念で提示し、「ニューウェーブ」という言葉の更にその先を見ようとした。他にも当時の新雑誌の刊行ブームのなかで各編集部へのインタビュー特集や、まんがとその映像化との関係について特集を組んだ。亜庭以外の同人も精力的に評論を掲載し誌面の充実をみたが、同人以外にも外部に寄稿を依頼し、評論では村上知彦、有川優、中島梓、高取英、小谷哲、川本耕次、竹内オサム、コラムでは飯田耕一郎、増山法恵、まんが実作では高野文子、柴門ふみ、たむろ未知、吉田あかりが寄稿した。編集者の途に進んだ迷宮周辺のサポーターとして佐川俊彦(JUNE)、中原研一(コミックアゲイン)、赤田祐一(QuickJapan)等がいる。大塚英志も大塚エージというペンネームで読者投稿を行なっている。『漫画新批評大系』本誌以外の叢書として『萩尾望都に愛をこめて』、『ときめき』(千明初美作品集)、『シングル・ピジョン』(さべあのま作品集)を刊行した。『漫画新批評大系』は時々のまんがの情勢をムーブメントとして捉えることを特徴とした。ファン活動も頻繁に紙面に取りあげ、コミックマーケットの開催と絡みながら、COMの総括、同人誌特集や同人誌作家の作品掲載を行いファン活動の活発化と意義の形成に力を尽くした。部数は最盛期は2000部近くに達した。当時としては破格の部数であった。1981年のvol.15を最後に『漫画新批評大系』の刊行は中断したが、7年間の刊行期間を通じてまんがの「いま」を言葉で提示することにより、読者にとって単なる批評誌であることを越えてまんがのジャーナリズムを形成する拠点であり続けた。『漫画新批評大系』創刊準備号の漫画大会での成功や、これまでに培った人脈をテコに、迷宮は新たなイベントの実現に動いた。これがコミックマーケットである。同人誌即売を一つのイベントとして開催するのは、初めての試みだった。コミックマーケットの主催は参加するサークルが構成する「コミックマーケット準備委員会」ということになってはいたが、実質は迷宮そのものだった。全国の漫画研究会に参加を求めるダイレクトメールを送り、友人知人にも呼びかけ、ようやく32サークルの参加を確保。1975年12月21日、原田央男を代表として第1回のコミックマーケットが開催された。原田はささやかに始まったコミックマーケットの継続に意を砕き、1979年のC12までの代表を務めコミックマーケットの基礎固めを行った。原田が代表であった期間は規模が小さいこともあり、マーケットという形はとりながらも一 面では高揚するコミューンの気分も溢れていた。原田はコミックマーケットはあくまでサークルの自由な総意として開催されるという原則を崩さなかった。サークルを「企画参加者」、一般入場者を「一般参加者」と呼び、それにサークルの総意を代表する主催者及びボランティアスタッフを加えて、コミックマーケット全体が立場を超えた平等な「参加者」で構成されるとした、コミックマーケットのデフォルト意識である全てが参加者だとする「総参加者主義」は原田時代に作られた。事前集会を行い、会場の準備や撤収は参加者が自然にボランティア参加し、閉会時にはサークルとともに反省会 を開き、毎回レポートを発行、経費も公開した。自主性を重んじた「自分たちの場所」として参加サークルの一体感の維持を計ったが、次第に二次創作とファンクラブの無際限な増加による規模の拡大に違和感を覚え、周囲からの慰留の声を振り切って代表を辞任するに至った。原田時代に固められた、総参加者主義、非営利、ボランティアスタッフ、参加サークルの無選別、事前集会、毎回のレポートといった基本フォーマットはそのまま次代に引き継がれていった。原田が代表を辞任した直後のC13は代表不在のまま開催された。C14から二代目の代表には米澤嘉博が就任し2006年に死没するまで一貫して代表を務めた。米澤が新代表に就任する前後から拡大する規模に対して運営の改善が追いつかず、同人誌の即売会という機能そのものが危うくなっていた。これに対応するために規制を強化して運営の効率化を図るべきだという意見と、現状の自由なやりとりを残しながら運営の改善を行おうという 意見が対立し、表面化するようになった。亜庭じゅんは対立が決定的になる前に方針を示すことを米澤に促していたが、米澤は積極的な収拾を行わず曖昧な態度に終始した。運営の限界と内部対立を抱えながらコミックマーケットは何時崩壊してもおかしくないバランスのなかでかろうじて維持されていた。1980年には、亜庭じゅんが「代表」という開催者を置かない形で、創作漫画専門の同人誌即売会「まんが・ミニ・マーケット」をコミックマーケットの補完を目的として開催を始めたが、コミックマーケットとまんが・ミニ・マーケットとが補完関係を保っていた時期は短かった。それはコミックマーケットが川崎市民プラザで開催されていた1980年春から1981年春にかけての一年間にすぎなかった。1981年夏から秋にかけて に規制強化派によるクーデター騒動が起った。米澤は一時は引退まで考えたが代表の継続を選択した。結局コミックマーケットは二つに分裂し、規制強化派はコミックマーケットから分かれることになった。亜庭じゅんは、以前から準備会内部で顕在化していた不満を放置することで分裂騒動を起こし、結果的にせよ「昨日までの仲間を切り捨てる」ことになった米澤の行動を厳しく批判した。米澤からの反論は遂になかった。会場を晴海に移した米澤は1982年夏のC21で「コミケットマニュアル」を作り、「準備会」を運営組織としてサークルから分離し独立した主催主体とした。原田時代の総参加者主義を「理念」として掲げ、サークルから切り離された主催主体として参加者の一員となった「準備会」は、開催の責任は負いつつコミケットの生み出すものについては関知しない立場を明確にした。それは迷宮が掲げた「運動体」であることの放棄でもあった。この時点で米澤の迷宮の一員としての立場とコミケット代表という立場も分離され、迷宮はコミケットの運営から消えることになった。晴海に落ち着いてからの米澤コミケットは、まんが以外の表現に関わるものも全てを受け入れながら急激に膨張を重ね、次第に「おたくの祭り」の色を濃くしていった。さらに1984年には法人組織の「株式会社コミケット」(のちに有限会社、特例有限会社に)を設立し、「準備会」とは別に法人組織を設立することで原田時代の「非営利」もまた曖昧なものになった。まんが・ミニ・マーケットは1981年にMGMと改称、82年春のMGM8からコミックマーケットと入れ替わるように都内の産業会館から川崎市民プラザに会場を移した。晴海でのコミックマーケットのなし崩しの変質に対応し、補完の立場を離れた一個の独立した即売会として迷宮主催で開催を続けた。原田時代の「運動体としての迷宮」はコミケットから消え、MGMが単独で引き受ける形になった。膨張し続けるコミックマーケットは「マーケット」であることに重点を置かざるを得なくなり、フラットな市場を維持し続けることが至上課題になっていった。参加の希望をすべて受け入れることの結果として、現状を追認しながら市場としてどこまで拡大していけるかというコミックマーケットの路線に対して、MGMは即売会の主体が「創作同人誌」であることに重点を置き、代表という立場の主催者を置かず、「即売会は単なるイベントではなく、作品が生まれる場であり、共に伸びていく場だ」という認識を基本とした。そのための「お祭り」ではない創作のための「日常的」な場所として隔月の開催を実践した。コミックマーケットの「プロもアマも」という姿勢に対して、「プロでもなくアマでもなく」第三の場としての即売会を目標とした。亜庭じゅんも「MGMスタッフ」を名のり、スタッフの一員である立場をとり続けた。MGM開催毎に発行するMGM新聞とともに、お茶の水駅前の喫茶『丘』で定期的に開くMGM集会を、スタッフ、サークル間のコミュニケーションの場とした。当時各地に生まれていた即売会とも連絡を取り合い、特に名古屋の『グループ・ドガ』が主宰する『コミック・カーニバル(略称コミカ)』、松山の『まんがせえる(略称せえる)』との連携を重視した。『コミカ』はMGMよりもなお厳密に「創作」にこだわり、『まんがせえる』はコミケットやMGMから既に失われてしまった「みんなで作る即売会」を実践していた。お互いの即売会に自分の即売会に参加した同人誌を持ち込み紹介しあうことで即売会と同人誌の濃度と質の向上を目指した。それらの即売会が相次いで終了した後も、規模の拡大に足をとられることを拒否し、単純に市場であることよりも同人誌がやりとりされる場としてのありかたを模索しつつ開催を続けた。即売会と同人誌のメディアとしての可能性とコミュニケーションの方法を様々な試みで実験し、「フォー・レディース」(運営・参加サークル女性限定)、「アダルト・オンリー」(一定年齢以上のサークルのみ)、「イン・パーソン」(個人誌・二人誌限定)、「ザ・ギャラリー」(原画展示併設が必要)、「オフセット・オフ」(オフセット印刷の参加不可)、「ア・ロング・ロング・ストーリー」(50枚以上の長編限定)、「とんでもねえ本大会」(形態や内容がとんでもない本)を、通常のMGM開催の間を縫って特別版として企画・開催し、主催する側とサークルとの間に信頼さえあれば、即売会の形はどのようにでも変化できることをアピールしながら参加サークルに刺激を与え続けた。80年代後半から90年代にかけて、コミックマーケットが晴海で起こした同人誌バブルにMGMも無縁ではなかった。会場の容量を超えた参加希望を捌ききれず、長机一つに3サークルを割り当てる荒技を使っても会場から溢れるサークルの参加を断るケースが相次ぐ事態を迎えたが、規模を拡大することで起こる即売会の変質を拒み、MGMは会場を移そうとはせず頑強にそこに留まり続けた。会場を移しながら膨張を続ける米澤コミケットに対して、頑なに一点に留まろうとした亜庭MGMは鮮やかな対照を見せたが、それは同人誌バブルに押し流されない「定点」であろうとする強い意志だった。MGMから溢れるサークルを吸収しつつ徐々に参加サークルを増やし、MGMの模倣から始まったと自称するコミティアが 「日本最大の創作同人誌即売会」を標榜しコミケットの後を追って規模を拡大していく路線を鮮明にしたが、それに対してもMGMは動くことのない定点に留まることを選んだ。やがて同人誌バブルは抵抗し続けるMGMだけをその場に残して他に移り、MGMは同人誌の波と無縁の場所として存続した。波が去ったあとのMGMには固いコアだけが残り自律的な変化を起こす芽の多くは波とともに流されていった。バブルは常態となり、常態となることによる同人誌そのものの変容と即売会への意識が溶解していく過程のなかで、次第にMGMは縮小の道を辿った。縮小の道を辿りつつも参加サークルとともに粘り強く開催を続けた。その後、即売会自体が全体としてゆるやかな創作サークルであるような形態を取るに至り、即売会のありかたの一方の典型を示すことになった。コミックマーケットに次ぐ歴史を持ち、その歴史を通じて創作系同人誌にとって、コミックマーケットの喧噪とは違った穏やかな「顔の見える」即売会として長く貴重な存在だった。会場としていた川崎市中小企業婦人会館が閉館となり、開催は2007年3月の97回を最後に中断した。一方のコミックマーケットは規模の拡大の限界に行き着き、身動きできない状態の中で、参加希望するサークルを抽選で振り分け、更には表現の自主規制を行なわざるを得ない事態を迎えている。両方の実験はそれぞれ明快な答えが出せるものではないが、同人誌即売会のあり方をそれぞれの方法で模索することは「運動体」としての迷宮の必然だった。原田コミケットから米澤コミケットへと連続してコミケットは続いたように見えるが、実際は代表の交替による断絶があった。原田の辞任後に開かれたC13の代表不在はその断絶を示している。この断絶を経て原田コミケットは米澤コミケットと亜庭MGMの二つの即売会に枝分かれした。それは枝分かれすることによって原田の時代に胚胎した矛盾を分解し、それぞれが一方を引き受けるための「迷宮のケジメ」としての結果だった。米澤コミケットは1980年から2006年、亜庭MGMは1980年から2007年、誤差はあるもののほとんどピタリと重なるこの期間の間、グループとしての実体を失った『迷宮』は二つの即売会が作り出す距離の間を浮遊する見えない「潜在意識」として存在し続けた。この潜在意識は同人誌即売会の意味を問い続け、結果として二つの即売会は、二十数年の間お互いの周囲を巡る連星軌道を描き続けることになった。迷宮のグループとしての実質的な活動は『漫画新批評大系』の発行とコミックマーケットの開催が両輪として噛み合っていた1975年から1980年までの期間と見ることができる。その6年間の活動で、まんがを語る言葉を作り出しながらCOM以後のまんがの流れを集約し、同人誌即売会というまんがファンのメディアを生み出すことにより「COM後」のファン活動の内容を決定的に変え、それを80年代以後に繋いだ。全員が全速力で走り続けた「奇跡の6年間」だった。原田央男はコミックマーケット初代代表の辞任後、アニメ評論家に転身しまんがとの関わりを絶ち、亜庭じゅんは『漫画新批評大系』の休刊後、コミックマーケットと距離を置きながらMGMの開催を続けた。高宮成河は関西の同人グループ・チャンネルゼロから村上知彦、峯正澄らと『漫金超・まんがゴールデンスーパーデラックス』を5号まで刊行し以後沈黙を守った。米澤嘉博は漫画評論家としての活動とともに、コミックマーケットの代表を死の直前まで務めた。コミックマーケットの開催ごとに用意される『迷宮』のスペースは、若くて貧乏で無名だった彼らの「運動」の小さな記念碑でもある。2006年10月に米澤嘉博が死去し、通夜には原田央男が駆けつけた。四半世紀を越す時間を隔てた無言の再会となった。翌日の葬儀では亜庭じゅんが米澤の棺を担いだ。既に予定されていた5ヶ月後のMGM97以後、亜庭じゅんによってMGMが開催されることはなかった。そして、コミックマーケットは市川孝一、筆谷芳行、安田かほるによる共同代表制に移行した。2008年12月霜月たかなか(原田央男)による『コミックマーケット創世記』が上梓された。米澤没後に無責任な放言が跋扈することに危惧を持ち正確な記録を残すことを目的とした。記録の正確を期すために当時の関係者一同を招いた「記録集会」を2007年から2008年にかけて本郷の更新館にて4回に渡って開いた。4回ともに徹夜の集会となった。「記録集会」にはオブザーバーとしてCOMの元編集者も招かれた。米澤の没後4年を経た2010年10月23日に、米澤嘉博記念図書館にて「コミックマーケットの源流」展の関連イベントとして行われたトークショー「コミケ誕生打ち明け話」に亜庭じゅん、原田央男、高宮成河の三人が出席した。迷宮として公開の場に顔を揃えるのは30年ぶりのことだった。会場には三人に並んで米澤の席も設けられていた。世話人を務めた森川嘉一郎はTwitterで「ほとんど宿命のようなトークショー」と記した。トークショーから三ヶ月後の2011年1月21には亜庭じゅんが鬼籍に入った。没後三ヶ月経った4月24日、亜庭じゅんを偲ぶ会が、迷宮'11と亜庭夫人との共催で、東京・山の上ホテルで開かれ、多くの友人知己が集まって故人を偲んだ。会の前半の受付は米澤英子と安田かほるが務めた。2012年1月22日に、板橋産業連合会館に会場を移し、亜庭じゅんと共にMGMを支えてきた長谷川秀樹と往時のスタッフによってMGM98が開催された。亜庭じゅん没後一周忌を期して高宮成河・原田央男編集による亜庭じゅん遺稿集・『亜庭じゅん大全』が、30年ぶりの『漫画新批評大系』vol.16として刊行された。表紙カバーを亜庭が「一番好きなまんが家」と言っていた樹村みのりのイラストが飾り、村上知彦と原田央男がそれぞれに亜庭じゅんの「言葉」と「同人誌即売会」への評言を寄せた遺稿集はA5判2段組み・800ページを越える大冊となった。2011年冬のコミケットで部数限定で先行発売したが、2012年1月22日、一周忌の翌日のMGM98が正式の発売日とされた。2013年1月27日100回目のMGMが開催された。その事後集会で迷宮主催とする即売会はこれを最後とすると宣言され、亜庭じゅんのMGMは完結することになった。続いてMGMの古くからのスタッフである壬生頼之によって新しい同人誌即売会をMGM2.0として起動することが参加サークルの賛同によって決定した。MGM100のカタログには長谷川英樹、亜庭夫人の挨拶と共に、亜庭じゅんのコミケット17での発言の採録、高宮成河と原田央男の原稿も掲載され、亜庭MGMの最後を締めくくるカタログとなった。迷宮の手を離れた「MGM2.0」は、初回となるMGM2.01が9月8日に開催され、以降も存続している。
出典:wikipedia
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