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阿修羅・原

阿修羅・原(あしゅら はら、1947年1月8日 - 2015年4月28日)は、日本のプロレスラー。ラグビーの日本代表選手を経てプロレスに転向した。本名は原 進(はら すすむ)。長崎県北高来郡森山町(現諫早市)出身。中学時代は柔道に打ち込み、諫早農業高校では当初は相撲に打ち込んでいたが、高校2年にラグビーに転向。この時からラグビー選手として頭角を現し、東洋大学を経て近畿日本鉄道(近鉄)に入社。近鉄では入社数年後に駅係員として勤務していた実績がある。また入社と同時に近鉄ラグビー部に所属した。近鉄時代の1970年に日本代表に選出され、同年3月22日のブリティッシュ・コロンビア州代表戦(於・秩父宮ラグビー場)でNO8として初キャップを獲得した。ところが、1971年に、イングランド代表の来日テストマッチが二試合(1971年9月24日於・近鉄花園ラグビー場)(9月28日於・秩父宮ラグビー場)組まれるにあたり、当時日本代表監督だった大西鐡之祐が、スクラムの第一列の大型化を図らなければ勝負にならないと考え、182センチ、87キロ(当時)の体格を誇った原に対し、テストマッチが行われる2か月前となる7月、日本代表の菅平合宿において、プロップへのコンバートを命じた。当時、プロップの経験がなかった原は大西から特にしぼられ、菅平合宿では肩は上がらず、腰は立たずという、肉体的に極限のところまで追い詰められる羽目になった。そして迎えた同年9月の対イングランド戦。日本は、二試合ともイングランドに敗戦したが、ともに接戦という好勝負を展開。その理由として、戦前は歯が立たないと見られていたスクラムで、日本が予想以上に健闘したことが一因として挙げられ、これを契機に、上記のイングランド戦において、二試合とも左プロップとして出場した原は、日本代表の不動のプロップ選手として確立していくことになった。一方、所属した近鉄は1974年度、リコーの3連覇を阻み、5年ぶりに全国社会人ラグビーフットボール大会を制覇。続く日本選手権でも、早稲田大学を破り、こちらは7年ぶりとなる日本一を果たしたが、いずれの大会も、原が右プロップとして優勝に貢献した。当時、近鉄と日本代表で原とともにプレーした坂田好弘は、原をこう評している。『ものすごい突進力。タックラーを吹っ飛ばすというよりも、相撲のすくい投げみたいに、相手を次々と転がしてはどんどん前に進んでいく。何人も引きずって走ることもありましたね。ラグビーではないスポーツみたいでした』上記のイングランド戦以後、主として左プロップとしての他、右プロップ・NO8としてのものも合わせて1976年までに日本代表キャップ17を獲得。当時としては世界規格と言われた恵まれた体格や強いスクラムとコンタクトを武器に日本を代表するラガーマンとして活躍した。1976年には日本人として史上初めて世界選抜メンバーに選出されている。しかし、近鉄は上記の坂田や小笠原博、さらには今里良三といった、日本代表でも、ともにプレーした選手たちが相次いで引退したこともあり、チームの弱体化が急速に進んだ。また、近鉄は当時、ラグビー選手だからといって待遇が優遇されているわけでもなかった上に、原自身も人事異動で駅係員から列車の乗務員となり、その教習も受けることとなり、先輩の指導車掌や指導運転士から数々の教習を受け、実際に列車の車掌や運転士として乗務したりするようになったため、ラグビーの練習を行う時間も少なくなった。こうしたことが契機となり、原はラグビー選手として引退し、翌1977年に近鉄を退社。退社後は野坂昭如が率いる草ラグビーチームでコーチを務めた。近鉄を退社した1977年11月29日に国際プロレスにスカウトされ入門。新日本プロレスも原の獲得を狙っていたが、同じラグビー出身者であり、かつ国際プロレス所属であるグレート草津が原をスカウトした上で国際プロレスへ入団した。覆面レスラーとして試験的にデビューした後、1978年6月29日の「'78ビッグ・サマー・シリーズ」大阪府立体育館大会にて素顔で正式にデビューした。その時の対戦相手は寺西勇。同年7月3日に海外武者修行に出発し、修行先でのカナダ・カルガリー(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)ではファイティング・ハラ("Fighting Hara")を名乗り、2戦目に英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得(スケジュールの関係で即返上)、ビッグ・ダディ・リッターやブレット・ハートとも対戦した。同年9月に西ドイツへ移動し、トミー・ビリントン、ワイルド・サモアンズ、ミスター・ヒト、ミスター・サクラダ、ムース・モロウスキー、マイケル・セイズなどと対戦。12月8日に帰国後、12月27日にラグビーファンである野坂昭如に阿修羅・原と命名される。1979年の「'79新春パイオニア・シリーズ」より本格参戦し、5月6日にミレ・ツルノからWWU世界ジュニアヘビー級王座を奪取。その後はダイナマイト・キッド、ローラーボール・マーク・ロコ、ジプシー・ジョー、剛竜馬らを挑戦者に防衛を重ねた。国際プロレス次代のエースとして期待され、アレックス・スミルノフ、オックス・ベーカー、ジョー・ルダック、モンゴリアン・ストンパーなどエース格のヘビー級外国人とも対戦し、金網デスマッチやチェーン・デスマッチも行った。また、AWAのバーン・ガニアやニック・ボックウィンクル、WWAのディック・ザ・ブルーザーなど、特別参加の大物選手とのシングルマッチも行われた。1980年4月3日には新日本プロレスのリングに登場し、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗退しスランプに陥る。以後、WWUジュニア王座を返上して1981年1月からアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)で再修行を行い、ヘビー級に転向した。この遠征中に雪崩式ブレーンバスター(スーパープレックス)の開発者とされるスーパー・デストロイヤーと対戦、帰国第1戦となる4月18日、スティーブ・オルソノスキーを相手にこの技を初披露して勝利、以降も雪崩式ブレーンバスターをフィニッシュ技とするようになる。5月16日にはマイティ井上とのコンビでポール・エラリング&テリー・ラザンを破りIWA世界タッグ王座を獲得した。6月にはジプシー・ジョー&カール・ファジーなどのチームを相手に防衛戦を行うが、同年9月に国際プロレスは解散。8月8日に根室で行われたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの金網タッグ・デスマッチでの3回目の防衛戦が、国際プロレスにおける同王座の最後のタイトルマッチとなった。国際プロレス解散後は、当初は引退して郷里・長崎県の森山町に帰郷し、実家の農業を継ごうとした。この話を聞いたジャイアント馬場は、東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』の解説を務めていた門馬忠雄に「田舎に帰るのなら引き留めてくれ」と電話を入れ、門馬は原に現役続行を要請した上で、原と馬場との面談をセッティングし、三者による面談が行われた。この席で馬場は、全日本プロレスとのいきなりの直接契約はまずいと判断し、当初はフリーとしての全日本参戦となり、馬場と門馬との会談で練られたプランは原が天龍源一郎に喧嘩状を叩き付けるプランだった。1981年10月2日に天龍とのシングル戦で初めて対決して好勝負となり、最終的にこのプランは当たり、後に全日本と所属契約を結ぶこととなった。その後天龍と原は1984年4月にもシングルで2度対決し、いずれの試合も好勝負としてファン・マスコミの間で名高い。また、1981年と1982年には天龍&原のコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場している(まだ龍原砲とは呼ばれていなかった)。他にも井上や石川隆士と共にアジアタッグ王座を獲得するなど活躍した。1984年10月20日の「'84ジャイアント・シリーズ」下関大会からスランプを理由に失踪。その後1985年4月3日の「'85鮮烈!スーパー・パワー・ウォーズ」山形県体育館大会に突如現れ、長州力を襲撃し、その後地元長崎県に戻り長崎市にある稲佐山で特訓を行い(このシリーズでは4月15日に長崎国際体育館大会が行われ、翌4月16日に東京スポーツが稲佐山での特訓をスクープしている)、4月19日の神戸ワールド記念ホール大会で再度長州を襲撃。4月24日の横浜文化体育館大会で天龍とのコンビで長州力&アニマル浜口と対戦するも、天龍に椅子攻撃を加え、「俺は一人でやっていく!」と天龍に宣戦布告してそのまま試合放棄。1985年7月にフリー選手として全日本に正式に復帰。この時期はラッシャー木村の国際血盟軍(木村、鶴見五郎、剛竜馬、アポロ菅原、高杉正彦による旧国際プロレス選手のユニット)とともに闘うことが多かった。当時のニックネームは“野生のダンプガイ”。1985年に全日本に復帰後のニックネームは“ヒットマン”。1987年より天龍源一郎と共に「天龍同盟」を結成する。天龍とのタッグ「龍原砲」は全日本で一時代を築き、長州力らジャパンプロレス勢が離脱した後の全日本を支えた。1987年9月にはPWF世界タッグ王座を龍原砲で獲得している。一方でこの頃から派手好きで見栄っ張りな性格が災いし、後輩などに大盤振る舞いをしたために金銭面でルーズとなっていき、それが故に控室や事務所、さらには当時「世界最強タッグ決定リーグ戦」の記者会見場であったホテルパシフィック東京まで借金取りが来るほどであった。これらの理由で、1988年11月に栃木県足利市で行われた「'88世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕当日に「私生活の乱れ」を理由に全日本を解雇となり(天龍の代役パートナーは川田利明)、札幌で隠遁生活を余儀なくされた。約2年間の隠遁生活を経て、盟友・天龍の願いを受け1991年に天龍が所属していたSWSにて復帰。SWS崩壊後は天龍らとWARへ移籍。対抗戦の相手である新日本プロレスのリングでは、長州力や藤波辰爾とも対戦した。さらに、反WAR軍を結成し、スーパー・ストロング・マシーンとタッグを組むが、1994年に現役を引退した。引退試合では天龍の厳しい攻撃を真正面から受け続けた。試合後、天龍は会場にいた原の家族へ向けてマイクを握り、「長らくお借りいたしました。今日、原をお返しします」と語りかけ、はなむけとした。引退後は郷里・長崎県の森山町に帰り、町の教育委員会に依頼されて森山町立スポーツ交流館で町民の健康づくりのスポーツコーチを務めた。その後、母校の長崎県立諫早農業高校でラグビー部コーチとなり長崎北高校や長崎北陽台高校の壁に阻まれて凋落傾向にあったラグビー部の建て直しに当たったほか、その他の学校でも筋トレの方法などを教えた。諫早農高は2002年度の全国大会に出場した(ただし大会期間中に風邪が蔓延しベストメンバーが組めずに初戦で敗退している)。間もなくして長崎県立諫早農業高校でのラグビー部コーチの職からも離れ、講演活動や知人の生花店で働いていた。2010年に天龍プロジェクトの旗揚げと同時にプロレスラー復帰へトレーニングを開始したが断念した。2004年に母が亡くなり脳梗塞で体が不自由となった父の介護をしながら暮らしていたがその父も他界し、自分の体のリハビリをしながら暮らしていた。2011年10月28日に自宅で『週刊プロレス』のインタビューを受けた後、肺炎を起こして入院し、退院後に心筋梗塞で再入院する。その後、物忘れなど精神状態が不安定となり、精神科のある病院に転院し一般病棟と往復する療養生活が続くも、肺炎を再び患って2015年4月14日に一般病棟に戻り、面会謝絶となった。2015年4月28日午前5時15分、雲仙市内の病院で肺炎のため68歳で死去した。関係者によると、入院中は食事も食べられず、排尿もままならなかったという。天龍は原の死去に際して無言を貫いた他、大日本プロレスは原の死去当日に行われた後楽園ホール大会で1分間の黙とうを捧げた。同じ長崎県出身の大仁田厚は自身のfacebookで、2009年に原から激励の電話を受けたことを明かしたほか、「同じ長崎県人として一生懸命生きて行く!先輩の生きざまを忘れない!」と追悼コメントを寄せた他、武藤敬司やスタン・ハンセンも追悼コメントを寄せ、邪道は自身のtwitterで、「平成のプロレスファンは阿修羅原さんという偉大なプロレスラーを知ってほしい。昭和のプロレスファンは阿修羅原さんという偉大なプロレスラーを忘れないでほしい」と追悼コメントを寄せ、永田裕志、外道も自身のtwitterで追悼コメントを寄せている。ラグビーから転向したため、多くのプロレスラーが原のタフガイさを認めていた。ハンセンは全日本プロレス復帰初戦で原と対戦した際、「殴っても蹴っても立ち向かってきた。原を倒すにはラリアットしかなかった」と語っている。プロレス転向直後かつ国際プロレス時代は、東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』において海外遠征特集が組まれた他、TVマッチにも出場していたが、藤波とのWWFジュニアヘビー級王座戦直後からTVマッチにはほとんど出場しなくなった。『国際プロレスアワー』は、原の2度目の海外遠征から帰国する直前の1981年3月にレギュラー放送が打ち切られたが、特番枠再移行後に放送された3試合にはテレビに登場している。原の地元のテレビ局であったテレビ長崎における『国際プロレスアワー』の放送開始に関しては、地元後援会が尽力したという(『国際プロレスアワー』では長崎県で行われた試合の中継は一回もなかった)。入場テーマ曲である「阿修羅」は、ディスコナンバーやロックナンバーのアルバム収録曲を多く採用していた国際プロレスの入場テーマ曲の中で唯一、一から作曲されたテーマ曲であった。天龍との初シングル戦で30分引き分けに終わった後、原は「ゴングが鳴る前から真っ白になり、試合が終わったときはラグビーイングランド代表戦終了後と同じ感覚だった」と思ったという。グレート小鹿は全日本プロレス時代の印象について、「国際プロレスから移籍した当初は孤独な印象があり目立たない男だったが、天龍同盟を結成してからグッとよくなった」と語った他、2015年11月の天龍引退興行に於いて龍原砲復活計画があったことを明かしている。天龍同盟結成後は優しくて人好きな性格に変わり、邪道は「レスラーとして酒の飲み方を教えてもらった。あの人こそ本当のプロレスラー」と語った他、外道も「物への執着心がない人だった」と語っている。

出典:wikipedia

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