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河合栄治郎

河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の社会思想家、経済学者。第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれる。尾崎行雄を崇拝していた父親の影響で、少年時代から社会的関心が強く、特に徳富蘇峰の平民主義に惹かれていた。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、第一高等学校をへて、1915年東京帝国大学法科大学政治学科卒、銀時計受領。在学中に農商務省が刊行した『日本職工事情』を読み、「労働問題は人間の問題である」と感奮し、労働問題に生涯を捧げる決意をもって農商務省に入省する。1918年、工場法の研究のため米国に出張し、ジョンズ・ホプキンス大学に滞在、米国労働総同盟(AFL-CIO)会長のサミュエル・ゴンパーズら労働運動の指導者と会見する。帰国後第1回ILO(国際労働機関)会議に対する日本政府方針草案の起草に尽力したが、その改革案は容れられず辞職した。この間の経緯を『朝日新聞』紙上に「官を辞するに際して」として連載し、自己の所信を論じて世上の話題となった。1920年東京帝大助教授となり経済学史を担当。1922年より英国に留学し、イギリス理想主義とりわけトーマス・ヒル・グリーンの社会哲学に強い感銘を受ける。帰国後(1926年)に教授となり、社会政策講座を受け持った。河合の学問の対象はアダム・スミス、ベンサム、J・S・ミル、グリーン、を経てフェビアン協会、イギリス労働党に至るイギリスの社会思想史であり、それに基づいて社会政策学を構築した。その成果は『社会思想史研究』(1923年)、『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』(1930年)、マルクス経済学も取り入れた『社会政策原理』(1931年)であった。また、河合門下三羽烏と呼ばれる大河内一男・安井琢磨・木村健康らを育てた。河合は、以前より存在した東大経済学部の勢力争いの中、多数派の領袖格として行動し、少数派のマルクス主義派と対峙していた。1936年3月31日から1年間、経済学部長。妻、国子は初代経済学部長であった金井延の娘。その後、ファシズムが勢力を伸ばしてくると、河合はファシズム批判の論陣を張った。それがために、右派陣営からの攻勢は強まり、かつて河合についていた教授も国家主義派(革新派)土方成美の派閥に鞍替えするなど、学部では勢力を失いつつあった。1938年に『ファッシズム批判』など4点の著作が内務省により発売禁止処分に付され、翌年これらの著作等における言論が「安寧秩序を紊乱するもの」として、出版法違反に問われ起訴された。また学内においても、河合の対立勢力であった土方らとの対立が激しくなり、1939年総長平賀譲の裁定により、1月31日、河合は休職を発令されるに至った(平賀粛学)。この過程で、「粛学抗議の辞表を撤回するべからず」との師の言に逆らって経済学部に残留した大河内・安井は事実上の破門となった。退官後は裁判闘争に明け暮れることとなったが、1943年大審院の上告棄却により、有罪が確定した。以上が河合栄治郎事件と呼ばれる。晩年は1940年(昭和15年)『学生に与う』を箱根の旅館で執筆するなど、学生叢書の刊行を継続しながら学生・青年に理想主義を説き続けた。また河合と共に辞職した山田文雄や木村健康、門下の猪木正道、関嘉彦、土屋清らと定期的に勉強会を開き、研究を継続していた。1944年、心臓麻痺により逝去。2日前に53歳の誕生日を迎えたばかりであった。河合は日本人には珍しく自己の哲学を持つ思想家であった。その思想は哲学分野では理想主義 (アイディアリズム)、人格主義、教養主義であった。河合は教養主義者として、学外では『学生叢書』『教養文献解説』を編集発行し、『学生に与う』を著し、学内では社会科学古典研究会を主催して、人格陶冶と教養の意義を説いた(昭和教養主義)。河合は社会思想を、現実社会に対する保守、改良、変革などの態度とし、そのために現実社会の科学的分析と、どのような社会が望ましいのかの社会哲学とが必要であるとした(社会思想モデルを提示)。河合は自らの自由主義を「第三期自由主義」と称していた。河合によると、それは資本主義を無条件で肯定する第一期自由主義とも、資本主義の弊害を認め適宜是正していく改良主義=第二期自由主義とも異なり、個々人の人格の成長に最高の価値を置く理想主義を根底とし、社会の成員全ての人格の成長が実現される社会を理想とするものであり、共産主義や社会主義とは鋭く対立する、というものであった。また、多元的国家論も主張した。河合は早くから、理想主義(イデアリスム)、人格主義、自由主義の立場から、マルクス主義の否を打ち鳴らし、コミンテルンの批判、マルクス主義理論の批判を行った。さらに時代状況が軍国主義の色合いを濃くする中、次第にファシズム批判の立場を強めていった。1936年に二・二六事件が起こると、河合は『帝大新聞』に軍部批判論文「二・二六事件の批判」を寄稿し、軍部批判・抵抗の姿勢を明確にした。ファシズム最盛期において、面と向かってファシズム批判論を展開したことは画期的なことである。満州事変以降、日中戦争、太平洋戦争直前まで時局評論も行った。戦後十数年間は別として、その後は河合の名前は戦後ほとんど忘れられたに等しい。例外として、河合の後継者たちが社会思想研究会、社会思想社、民社社会主義研究会を創始し、河合の精神を受け継ごうとした。関はその後民社党参議院議員となり、猪木、土屋も民社党のブレーンになっている。渡部昇一は河合を尊敬し、朝日新聞批判を行ったときに河合を追想していた。また、1972年、三國一朗司会の東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の番組「私の昭和史」に、木村健康が出演し河合のことを語った。理想主義 (アイディアリズム)、人格主義、教養主義は戦後廃れた。それは価値観の多様化、科学主義の隆盛、マルクス主義の跋扈などによるものであるが、それでよいのかは大いなる疑問として残る。河合がなした社会思想モデルの創出、マルクス主義批判、ファシズム批判は史上長く記憶されてよい。河合栄治郎全集(全23巻、社会思想社、 1967-70年)蝋山政道、山田文雄、塩尻公明、木村健康、安井琢磨、土屋清、関嘉彦、猪木正道、音田正巳、吉田忠雄編

出典:wikipedia

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