豊州線(ほうしゅうせん)は、かつて大分県宇佐郡高家村の日本国有鉄道(国鉄)日豊本線豊前善光寺駅から同郡四日市町の豊前四日市駅を経て同郡東院内村の豊前二日市駅までの間(走行区間はすべて現・宇佐市)を結んでいた、大分交通の鉄道路線である。当初から経営は苦しく、少ない客貨の輸送量の上に自動車の攻勢と久大本線の開通で収入は減少、さらに自然災害にも苦しめられた。元々、玖珠郡玖珠町まで路線を延ばす予定であったが、経済的理由から放棄された。累積赤字を抱えバス代行にした矢先のルース台風の被害により廃止を迎えた。1932年(昭和7年)12月当時1932年12月改正当時1950年(昭和25年)5月改正当時豊州線は国鉄四日市駅(豊前善光寺駅)を起点とし高家、八幡、四日市町、豊川、両川を経て安心院村までの軽便鉄道を敷設し将来は日出生台陸軍演習場に延長することを地元有志が立案したことがはじまりであった。1911年(明治44年)7月に鉄道免許状が下付されたので会社設立に向け株式募集をすすめた。1912年(明治45年)5月28日創立総会を開催し、名称を日出生鉄道、資本金を30万円として初代社長には水之江文二郎が就任することになった。1913年(大正2年)2月15日に着工となり、1914年(大正3年)3月に注文していた機関車2両、客車2両、貨車8両が到着すると工事列車に使用した。3月31日に新豊川まで完成したので鉄道院の竣工監査を合格すると5月に四日市- 新豊川間が開業となった。その後延伸開業を繰り返し1922年(大正11年)2月に豊前二日市まで開通したが安心院村までの敷設免許は失効した。しかし経営は苦しく社長交替や減資を繰り返した。1926年(大正15年)に乗合自動車に対抗するべくガソリンカーを導入し増発するもの経営は好転せず、さらに1929年(昭和4年)12月久大線豊後森駅開業により日出生台行きの貨物は皆無となった。そんな状況のなか社長に就任したのは当時相模鉄道の社長であった南俊二であった。南は1929年(昭和4年)4月に社長に就任すると豊州鉄道と社名を変更し、軌間を国鉄と同じ1067mmにするため資本金を50万円にして再建に乗り出すことになった。じつは南俊二の狙いは「ハイリスクを承知で不振企業に照準を合わせ、最安値で株式を取得し経営権を握り、強引に整理を推進し株価急回復後に売り抜けて短期間に極大の利鞘を狙う」ことであった。ところが不況で思うようにはいかず南の投資は失敗に終わり、1931年(昭和6年)1月に社長を退任。豊州鉄道は同年上期に債務不履行のため債権者である日本勧業銀行より競売に付せられることになった。ところがわずか11万円と評定されたため整理を図り、勧銀の債務額を除き借入金及び未払金を桐田益夫ら旧重役3人で弁済することになった。前任の日出生鉄道社長の桐田が復帰したがまもなく過労と心労から死亡し、後任社長は京王電気軌道取締役で四日市町出身の渡辺孝が就くことになった。豊前善光寺駅 - 城駅 - 豊前四日市駅 - 新豊川駅 - 拝田駅 - 鷹栖観音駅 - 三又川駅 - 香下神社前駅 - 香下駅 - 円座駅 - 豊前二日市駅
出典:wikipedia
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