ガルニエ宮(Palais Garnier)は、フランスの首都パリにある歌劇場である。単にオペラ座(l'Opéra)と呼ばれることもある。パリ国立オペラの公演会場の一つである。フランスの王立オペラの歴史は1669年にさかのぼる。作曲家ロベール・カンベール()と組んで宮廷オペラを作っていた詩人ピエール・ペラン()の請願が、財務総監コルベールの仲立ちでルイ14世に許可され、『音楽アカデミー』ができたのである。この名称は時代とともに、政治体制とともに変わった。パリの王立ないし国立のオペラ劇団が公演する劇場も転々と変わり、ガルニエ宮は13代目である。それまでの劇場は、ルーヴル美術館(フランス革命までは『ルーヴル宮』)の中や隣だったことも、約1.5km離れていたこともあった。1800年12月、第一統領だったナポレオン・ボナパルトが爆弾に見舞われたのは、8代目のテアトル・デ・ザール()への途次であった。1858年1月14日、ナポレオン3世が爆弾を投げられたのは、11代目のサル・ル・ペルティエ()の正面であった。これを機に、以前からの新オペラ座建設計画が1860年9月29日の政令で具体化し、同年12月29日、ナポレオン3世の第二帝政を称える記念碑的建造物の設計が公募された。折から、セーヌ県知事オスマンのパリ市街区の整理再構築(パリ改造)が進行中で、建設用地は取り払われ空き地となる現在地と決まっていた。171の応募の中に一等賞はなく、佳作が6件であった。その中からシャルル・ガルニエの案が採択され、1862年7月21日に最初の礎石が置かれた。1874年12月に工事を終え、1875年1月5日に落成式が行われた。この劇場は設計者の名から「ガルニエ宮」と呼ばれることとなった。着工から完成までの十余年間のフランスには、1867年のメキシコ出兵の失敗、1870年の普仏戦争の敗戦とナポレオン3世の亡命(翌年没)、1871年のパリ・コミューンと第三共和制の発足などの大事件が多く、新劇場の工事を休むこともあった。外観および内装はネオ・バロック様式の典型と言われ、たくさんの彫刻を飾り、華美な装飾を施した豪華絢爛たるものである。また建材には当時、最新の素材とされていた鉄を使用した。これによって、従来不可能とされていた巨大な空間を確保することに成功した。2167の座席が5階に配分されており、観客収容規模でも当時最大の劇場であった。なお、ガルニエ宮正面からパレ・ロワイヤルへ直に南下するオペラ座大通り()は、この建設工事の一環として開かれた。第二次世界大戦中のドイツ軍の占領下では、ドイツ軍の管理下で営業を続けた。1964年以降、劇場の天井画はマルク・シャガールによるものが飾られて、現代的な新味も盛り込まれている。1989年には新しいオペラ劇場としてオペラ・バスティーユ(Opéra Bastille)が完成し、以来ガルニエ宮では、バレエと小規模オペラ、管弦楽コンサートを中心とした運用が行われている。ガルニエ宮は際立って絢爛な建築物である。建築様式は記念碑的かつ重要な第2帝政期のボザール様式のものであり軸対称に計画されている。ネオ・バロック様式の装飾要素を伴った折衷主義の外観の装飾である。これらには大変手の込んだ大理石のフリーズ、円柱および豪華な彫刻が含まれる。彫刻の多くはギリシャ神話の神々である。第一ファザードは建物の南に位置しオペラ座広場を睥睨し、オペラ座通り沿いの視点を終わらせている。装飾の制作には40人の画家と、モザイク職人と73人の彫刻家が参加した。2体の黄金の彫像、シャルル・ギュムリー(:w:Charles Gumery)の「ハーモニー("L'Harmonie")」「詩情("La Poésie")」は第一ファザードの左右の前方張り出し部分(:w:avant-corps)の頂点に据え付けられている。この彫像は両方とも電気による金メッキが施された銅像でである。二つの avant-corpsの基礎は(右から左まで)フランソワ・ジュフロワ(:w:François Jouffroy)「詩情(または調和)」ジャン・バティスタ・クロード・ウジェーヌ・ギョーム(:w:Jean-Baptiste Claude Eugène Guillaume)の「器楽」、ジャン・バティスタ・カルポー(:w:Jean-Baptiste Carpeaux)の「舞踏」そしてジャン・ジョゼフ・プロー(:w:Jean-Joseph Perraud)の「抒情劇」と4人の彫刻家による4つの彫刻群によって装飾されている。ファザードはまたギュムリー、アレクサンドル・ファルギエール( :w:Alexandre Falguière)その他による他の作品を組み込んでいる。多数の偉大な音楽家の金メッキの電気鋳造の青銅の胸像は劇場前のファザードの円柱の間に位置しており、左から右へとロッシーニ、オーベール、ベートーヴェン、モーツァルト、スポンティーニ、マイアベーアとアレヴィである。中央ファザードの左と右の側面の「返し」には台本作家のウジェーヌ・スクリーブとフィリップ・キノーの胸像が、それぞれ置かれている。劇場吹き抜けの南破風の頂点に位置する、「アポロ、詩情及び音楽」の彫刻群がエメ・ミレー(:w:Aimé Millet)の作品であり、ウジェーヌ・ルイ・ルケスヌ(:w:Eugène-Louis Lequesne)作の2つのブロンズのペガサスの彫刻が南破風の両端にある。皇帝のロタンダ(Rotonde de l'Empereur)として知られている、この複数の部屋は建物西側に位置し、安全が確保されるように、そして皇帝が直接入室できるように建物へ二重の斜道で連絡されている。皇帝が失脚すると、機能は停止された。石造の装飾は未完成のままであった。ここはいまはオペラ座図書博物館(:w:Bibliothèque-Musée de l'Opéra de Paris )になっている。ここには10万冊の書籍、1680点の定期刊行物、1万点の上演プログラム、手紙、10万点の衣装、セットの写真、スケッチと歴史的名演のの記録を含む60万点の資料が保管されている。建物東側に位置する皇帝のパヴィヨンと対になる部屋は、劇場の支援者ら(Abonnés)が四輪馬車から建物内部へと直接入れるようにデザインされている。直径13.5mのドームによって覆われている。2対のオベリスクによって示されたロタンダの入り口の前に左右(北と南)にある。内装は、多数の人々の動きを受け入れることができる複合された廊下、階段吹き抜けと幕間に人々が社交の場とする空間から構成される。ヴェルヴェットと黄金の葉、智天使とニンフが豊富に使われ、内装はバロックの壮麗さで特徴づけられていた。建物は赤と緑の大理石の欄干のある白大理石の大きな儀礼上の階段によって特徴づけられ、この階段一階から上階に向かって踊り場を経由して大休憩室へと導く2つの階段に末広がりに分かれる。この階段のデザインはヴィクトル・ルイ(:w:Victor Louis)のボルドー劇場(:w:Théâtre de Bordeaux)の階段に着想を得たものである。階段の柱脚はアルベール・エルヌス・キャリエ・ベルーズ(:w:Albert-Ernest Carrier-Belleuse)による女性の姿をかたどった燭台によって装飾されていた。階段の上の天井はイシドール・ピル(Isidore Pils)によって「アポロの勝利」「その魅力を展開する音楽の魔法」「オリンポスの神々に見られる無慈悲と戦うミネルバ」「新しい歌劇場の計画を受け取るパリの街」が描かれていた。これら絵画は劇場のオープン2か月前に初めて取り付けられたとき、ガルニエ宮においては空間に対して暗すぎたことが明らかになった。二人の弟子の助けを借りて、61歳で病になったピルは天井にあるキャンヴァスに再製作しなければならなくなった。彼の弟子はオープン前に作品を完成させ、足場は撤去された。このホールは高さが18m、長さが154m、幅が13mで、パリ社交界の応接間として機能するようデザインされた。それは2004年に修復された。その天井にはパウル・ジャック・エメ・ボウドリー(:w:Paul-Jacques-Aimé Baudry)によって天井画が書かれている。天井画の題材には音楽の歴史の様々な場面が取り上げられている。休憩室は外のロッジアに向かって開いており、それぞれの端は「月のサロン(Salon de la Lune)」と「太陽のサロン(Salon du Soleil)」になっている。観客席は伝統的なイタリアの馬蹄型であり、1979の座席を有する。舞台はヨーロッパ最大であり450人程度を受け入れることができる。緞帳は表面にタッセルと組みひもなどが絡み、めくれ上がり、しわがよったカーテンの絵が直接描きこまれた。シャンデリアで囲まれた天井部分ははもともとジュール=ウジェーヌ・ルヌヴーによる天井画があった。1964年に新しい天井画がマルク・シャガールによって描かれ、オリジナルの向こうにある撤去できないフレームに取り付けられた。この天井画は14人の音楽家のオペラの場面を描いている。ムソルグスキー、モーツァルト、ワーグナー、ベルリオーズ、ラモー、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、チャイコフスキー、アドルフ・アダム、ビゼー、ヴェルディ、ベートーヴェン、グルックである。称賛するものいたにもかかわらず「ガルニエの繊細に組み合わさった内装の失敗の記録」と感じる者もいた。ガルニエによって重さ7トンのブロンズとクリスタルのシャンデリアがデザインされた。ジュール・コルボ(Jules Corboz)が模型を用意し、それは「ラカリエール、デュラトゥール&シ(Lacarière, Delatour & Cie)」によって製作された。費用は総額3万ゴールドフランであった。中央のシャンデリアの使用は物議をかもした。舞台の様子と天井画を遮るという理由で第5ボックス席のパトロンによって批判された 。ガルニエはこれら不利益を予想していた。しかし1871年の著書『劇場論("Le Théâtre")』で強い反論を用意していた。「ほかに何がこのような楽しい生活とともに劇場を満たすことができようか?ほかに誰が、私が枠組みのパターンに有している様々な形態を提供できるだろうか?これら光の点の列、これら輝かしい点によってまだらになった自然の色調、そしてこれら水晶のような高貴な光のほかに?」。1896年、シャンデリアの一つが釣り合いを取っていた重りの破壊によって天井から客席へと落下し、観客に死者が出た。この事故はよりガストン・ルルーが1910年のゴシック小説の『オペラ座の怪人』の有名な場面の一つの着想となった。もとはシャンデリアは洗浄のために天井を通って観客席向こうのクーポラへと引き上げられていた。しかしその時は降ろされていた。クーポラの空間は1960年代にはオペラのリハーサルに使用されていたし、1980年代にはのダンスのリハーサルのフロアへと改修されていた。下の階は「ヌレエフの間(Salle Nureïev (Nureyev)」と「バランシンの間(Salle Balanchine)」からなり、上のフロアは「プティパの間(Salle Petipa)」によって構成されていた。グランド・オルガンがアリスティド・カヴァイエ=コルによって製作された。抒情的な作品に使用するためにである。このオルガンは数十年間使用されていない。ガルニエ宮は独自に劇場にレストランを導入している。予算的な理由で、レストランは独自の設計で完結されていない。1875年以来3度目のレストランの導入が試みられたさい、2011年に東側にオープンした。「オペラ座レストラン(:w:L'Opéra Restaurant)」はフランスの建築:w:Odile Decqによってデザインされた。シェフは クリストフ・アリベールであった。。2015年10月、:w:Guillame Tison-Malthéが新しいシェフ長になった。レストランは3つの異なる空間と大きな戸外にテラスを有する。一般の利用も可能である。1821年パリオペラ座は「サル・ド・ペルティエ (:w:Salle Le Peletier)」と知られる「リュー・ル・ペルティエ(:w:Rue Le Peletier)」の仮設の建物に移転した。それから、新しい恒久的な建物が求められてきた。1846年に、オペラ座の公式建築家に任命されていた、シャルル・ロール・ド・フルーリー(:w:Charles Rohault de Fleury)は、適切な用地とデザインに関する様々な研究に着手した。1847年までにセーヌ県知事、クロード・フィルベール・ド・ランビュトー(:w:Claude-Philibert de Rambuteau)が リュ・ド・リヴォリ(Rue de Rivoli)の拡張した部分としてパレ・ロワイヤル広場の東側の用地を選定した。しかし、1848年のフランス革命とともに、ランビュトーは失脚し、新オペラ座の建設の関心は減退した。用地はのちに大ルーブル館(:w:Grand Hôtel du Louvre、シャルル・ロール・ドフルーリー設計)に使用された。1852年に第2帝政が樹立と1853年のジョルジュ・オスマンのセーヌ県知事の任命にともない、新オペラ座への関心が再燃した。1858年1月14日にサル・ル・パルティエの入り口でナポレオン3世の暗殺未遂事件が起きた。サル・ル・パルティエの建設された通りは分離と国家元首のために一層安全な入り口の必要性とアクセスしていた。この懸念と不十分な公共施設と劇場が仮設という性質は新しい国立オペラの建物への付加的な緊急性を与えた。3月までに、オスマンはフルーリーが提案したブールヴァール・デ・キャピュサン(Boulevard des Capucines)の向こうの用地に決定した。しかしこの決定は1860年まで発表されなかった。新しい建物はこの地域の通りの厄介な収束を解決し、用地は地代に関しては経済的であった。1860年9月29日、公に新オペラ座のための用地のための勅令が出された。この勅令ではの土地を接収することになっていた。1860年11月までにロールト・ド・フルーリーはこの彼のキャリアの頂点の作品にして、市からの報酬が支払われる、周りとの調和を確かなものとする、新しい広場の裏手の建物のファザードのデザインの仕事を完了させた。だが、同じ月にアアレクサンドル・ヴァレフスキ伯爵によってアシル・フルド(:w:Achille Fould)に国務大臣が交代した。ヴァレフスキの妻のマリ・アンヌ・ド・リッシ・ポニャトフスカヤ (Marie Anne de Ricci Poniatowska)はナポレオン3世の公妾の地位を夫による国務大臣の任命を認めさせるために使用した 。デザインのコンペがないまま、ウジェニー皇后の庇護があるウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクに報酬を支払うようにとの圧力のもとで、ヴァレフスキは建築案を選定する建築デザインコンペを決定をする必要性を放棄した1860年12月30日、ナポレオン3世はは公に新オペラ座のために建築デザインコンペをすることを発表した。応募期間は1か月。2段階の選考が行われる。シャルル・ガルニエの計画はおよそ第一選考にかけられた170の提出案の一つであった。応募作のどれもがデザインを要約するモットーの提出を求められた。ガルニエのものは「多くを欲し、少しを望む("Bramo assai, poco spero")」というイタリアの詩人トルクァート・タッソの作品の一節であった。ガルニエの計画は15か所の賞を受賞しており、彼は第2選考では7人の最終候補者になった。ガルニエには加えて、ほかの間では彼の友人、レオン・ジネン(Leon Ginain)、アルフォンス・二コラ・クレピネ(Alphonse-Nicolas Crépinet)とジョゼフ・ルイ・デュク(Joseph-Louis Duc) (彼は他の仕事のせいで辞退した)がいた。多くの人が驚いたことに、ヴィオレ・ル・デュクとシャルル・ロール・ド・フルーリーの両方ともが選外になった。ヴィオレ・ル・デュクの選外となった計画(1861年)第2選考ではオリジナルの計画の速やかな修正と一層の厳格さが求められ、4月18日に直ちに渡される、オペラ座の監督アルフォンス・ロワエ(:w:Alphonse Royer)によって書かれた58頁のプログラムがあった。新しい提出物は1861年5月半ばに審査員に送られ、5月29日にはガルニエの計画は、「その、計画の美の配置における、たぐいまれにして傑出した質とファザードとセクションの記念碑的かつ特徴的な様相(アスペクト)」によってえらばれた。ガルニエの妻ルイーズはのちに以下のように書いている、フランスの建築家で審査員のアルフォンス・ド・ギゾー(:w:Alphonse de Gisors)はつぎのように論評した。「ガルニエの計画は簡潔さ、明瞭さ、論理的さ、壮大さにおいて顕著であり、外観の性格のおかげで、3つの異なる部分、休憩所、観客席、舞台における計画とも区別されている…あなたは、第一選考から大幅に計画を改善した。一方で第1選考で1位となったジネン(Ginain)は自身の計画を台無しにした」。言い伝えでは、ナポレオン3世の皇后のウジェニーが、お気に入りのヴィオレ・ル・デュクが選外になりいらいらするようになり、相対的に無名のガルニエに尋ねた「これは何?何様式よ?ルイ14世様式でもなければルイ15世様式でもなくルイ16世様式でもない!」と。するとガルニエは「なぜですか皇后陛下、これはあなたの夫君のナポレオン3世様式ですよ」と返答し「陛下は文句をおっしゃている」と。アンドリュー・アイア―(Andrew Ayers)はガルニエの定義をいかのように書いている。「議論の余地もなく、多くの人がそうだと言い残しているようにガルニエ宮は第2帝政という時代に作られたものの象徴のように見える。規範的な論理性よりも、日進月歩の技術の目もくらむ混交、あふれんばかりの電気と驚嘆すべき華やかさ、ガルニエのオペラ座にはその時代の散開した傾向と政治的社会的野心が凝縮されている」。彼はコンペの判定がガルニエのデザインを特に称えて「彼の計画の明瞭さ、それはボザール建築の("beaux-arts")のデザインのメソッドの輝かしき例でそこには彼とそれらは徹底的に熟達している」。1861年7月2日建設開始のための最初の資金が投じられたのち、ガルニエはオペラ座事務所(Opéra "Agence")を建設用地内の彼の事務所に設立した。そして建築家の集団を雇用した。彼は、自分の次席にジャン・ジョールデン(Jean Jourdain)とエドモン・ル・デスシャウル(Edmond Le Deschault)にフォローされたLouis-Victor Louvetを選んだ。建設用地は8月27日と12月31日の間に掘削された。1862年1月13日、どのセクションのコンクリートが投じられてすぐに下部の石造部分の配置が始めると最初のコンクリートの下地が形成された。オペラ座は他の同様の建造物に比べて非常に深い基礎をサブステージに必要とした。しかし地下水のレベルは予想以上に高かった。1862年2月には井戸が沈み、3月には8つの蒸気ポンプが投入された。しかし24時間続けての作業にも関わらず、用地が渇くことがなかった。この問題に対処するために、ガルニエは湿気から上部の建物を守るために二重の基礎をデザインした。水路と巨大なコンクリートの貯水池("cuve")が組み合わされた。両方とも基礎壁の外からの地下水のからの重圧を和らげ、防火用貯水池として機能させるものとされた。建設のための契約は6月20日に署名された。すぐに根強い伝説が起きた。オペラ座は地下湖の上に建設されたというものである。これに着想を得たのが、ガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』である。7月21日には礎石が建物のファザードの天使の南東に置かれた。10月には、ポンプは撤去され、11月8日には貯水池の煉瓦のアーチ天井が完成した。そして下部構造はこの年の終わりまでには基本的には完成した。皇帝は建物の模型を見ることに関心を表した。そして石膏の縮尺模型(1m=2cm、50分の1)がルイ・ヴィルミノ(Louis Villeminot)によって1862年4月から翌1863年4月の間に、8,000フランを投じて製作された。それを見たのち、皇帝はいくつかの建物デザインの変更を要求した。最も重要なものは、ファザードの頂点の角のグループとともに、欄干に支えられたテラスの高さの抑制と、最後の翼棟の向こうにある皇帝のクアドリガ(馬車)の彫刻を配置する、横へと連続するフリーズの前にある大規模な屋根裏の階層の取り換えであった。組み合わされた変更とともに、模型は特別に1863年の万博で公開された産業館(:w:Palais de l'Industrie)に導入されたレールの向こうに輸送され、展示された。テオフィル・ゴーティエは模型について書いている(『モニテュール・ユニヴァースル』紙1863年5月13日付("Le Moniteur Universel
出典:wikipedia
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