2003年アジア冬季競技大会(にせんさんねんアジアとうききょうぎたいかい)は2003年1月30日から2月8日まで日本の青森県で開催された第5回アジア冬季競技大会。アジア29カ国、地域から1,016名の選手、役員が参加した。13年ぶりに北朝鮮が出場した。青森県で初の総合的国際スポーツ競技大会の開催となった。大会マスコットには、ウィン太君が決まった。1997年6月19日、日本オリンピック委員会の八木祐四郎専務理事が青森県を訪れて、開催の受け入れを要請した。12月のアジアオリンピック評議会で、青森県での開催が決定した。アジアオリンピック評議会に対して青森県は開催地負担金として20万ドルを支出した(2003年に全額返還された。)。平成10年度に青森県体育協会理事長、青森スポーツクラブ社長を兼ねる人物が、大会組織委員会事務総長に就任した。同人物は2000年4月に事務総長を退任した。1999年6月の青森県議会第218回定例会で、八戸市選出県議会議員より、屋内スケート場建設の提案がなされたが、既存の長根運動公園スピードスケートリンクで行われることとなった。実行委員会議委員長を務めていた田名部匡省参議院議員は、2002年2月28日に委員長を辞任した。開会式、閉会式会場となる青い森アリーナは、新青森県総合運動公園内に平成12年度に着工、2002年11月完成した。アルペンスキーのダウンヒルは、当初から予定種目に入らなかった。アルペンスキー会場の大鰐スキー場国際コースは、国際スキー連盟の公認規格を満たしているため、改修の必要はなかったが、クロスカントリー会場の大鰐スキー場クロスカントリーコースは高低差が不足していることから、コース整備が必要となった。競技会場での記録速報用の電光掲示板は経費節約のため、レンタルで準備がなされた。大鰐町のジャンプ台では、選手搬送設備、インラン整備機及び転倒防護板等の設置がなされた。また八戸市、三沢市のアイスホッケー会場ではフェンスボードの改修が行われた。屋内施設で行われるアイスホッケー、ショートトラック、フィギュアスケートについては日本スケート連盟などからの意見もあり、JOCなどとの協議の結果、入場料が有料となった。その一方で平日の昼間に行われる競技については、無料の青少年優待席も設けられた。入場券の発売は、大会スポンサーに選定されている大手コンビニエンスストアの発券システムが活用され、開会式、閉会式のチケットも有料販売された。三沢アイスアリーナで行われたスピードスケートショートトラックのリハーサル大会は、氷の中に異物があり競技実施に支障が出るため、2日目を急遽中止した。各国のトップレベルの選手が出場できるよう、各国際競技連盟に要請がなされ、ショートトラック、バイアスロンを除き、競技日程は重ならなかった。当初のエントリー締切時点では10カ国713名しかエントリーしていなかったことから、エントリー期間の延長がなされた。大会には8,000人のボランティアが協力した。大会経費は当初の試算では8億円と見込まれたが、1997年8月の臨時県議会で、大鰐にリフト分1億円を含めた9億円が全会一致で承認された後、1999年11月17日、約56億円になることが発表された。その後特別委員会での議論により38億9400万円となり、県費負担額は22億700万円となることが2000年9月に公表された。大会終了後取りまとめられた最終収支見込では、大会歳入歳出は35億3500万円、県費負担は17億1200万円に減少した。この内、青森県民、企業、団体などからの寄附金が11億円以上、協賛金が2億円以上、助成金が2億5000万円であった。核燃料サイクルを進めている電気事業連合会や日本原燃などから5億5000万円が寄付された。青森県出身の吉幾三は2002年10月14日、五所川原市でチャリティーショーを2度に渡って行い、その収益を全額寄付した。マスコットは、白神山地に生息するクマゲラをモチーフにした「ウィン太」。名前は、冬を意味するWinterと、勝利を意味するWinにちなむ。アジア冬季大会ということで日本国内の認知度も低く、開催地である青森でも盛り上がりはいまひとつであった。障害者の冬季スポーツのアジア大会開催への期待の声もあるが、まだ検討段階の域を出ていない。しかし、この大会をきっかけに国内に数少ない専用カーリング場(青森市スポーツ会館)ができたことにより、「チーム青森」が誕生するきっかけとなった。カッコ内は参加人数:選手数:役員数 以下は選手の参加は無し
出典:wikipedia
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