ニシノフラワーは日本の競走馬、繁殖牝馬。1991年に阪神3歳牝馬ステークスを制し、同年のJRA賞最優秀3歳牝馬に選出、翌1992年には桜花賞とスプリンターズステークスに優勝し、同年最優秀4歳牝馬および最優秀スプリンターに選出された。アメリカ合衆国からの持込馬である。※馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一して記述する。本馬の生産者である西山牧場は、日本において社台グループに次ぐ第2位の生産規模を持った牧場であったが、大雑把な牧場経営から長らく目立った活躍馬が現れなかった。この状況を打開するため、1987年より生産・育成各部門の改革に着手。1989年2月、その一環として約2億円を投じてアメリカより4頭の繁殖牝馬を輸入した。各牝馬はいずれも産駒を受胎した状態で購買され、そのうちの1頭に本馬の母・デュプリシトがいた。同年4月、デュプリシトは牝駒を出産。期待を受けての誕生であったが、細身の体格で目立つ所はなかった。数名の調教師に管理を断られたのち、最終的に滋賀県栗東トレーニングセンター・松田正弘の管理馬と決まった。松田は初めて本馬を見たときの印象を「脚ばかりヒョロッと長くて幅のない、バンビみたいな馬」と語っている。1991年、競走年齢の3歳に達し、ニシノフラワーと命名されて松田厩舎に入ったが、調教でも目立った動きはなかった。1991年7月7日、札幌開催の新馬戦で、佐藤正雄を鞍上にデビュー。これより前に骨膜炎を生じており、脚の状態を考慮して負担の少ないダート競走が選ばれた。当日は単勝4番人気であったが、2着に4馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。次走にはGIII競走の札幌3歳ステークスに出走。「使える適当な番組がない」からという消極的なレース選択だったが、道中2番手から直線で後続を突き放し、ディスコホールに3馬身半の差を付けて優勝。重賞初勝利を収めた。騎乗した佐藤にとっても、これがデビュー22年目で初めての重賞制覇となった。連勝で松田も本馬の素質を認め、いったん休養に出された。帰厩後、3歳女王戦阪神3歳牝馬ステークスへの前哨戦として、デイリー杯3歳ステークスに出走。騎乗停止中だった佐藤に代わって田原成貴が手綱を執り、前走と同じく3馬身半差で圧勝した。次走に迎えた阪神3歳牝馬ステークスでは騎手が佐藤に戻り、1番人気に支持された。レースは道中5-6番手から直線で抜け出し、ゴール前で追い込んだサンエイサンキュー、シンコウラブリイを退けて優勝。人馬ともに初のGI制覇を果たした。また、この勝利は西山牧場にとっても開業25年目で初めてのGI優勝となった。当年4戦4勝・うち重賞3勝の成績で、翌年1月には当年の最優秀3歳牝馬に満票で選出された。翌1992年、4歳クラシック戦線へ向けてチューリップ賞(桜花賞トライアル)から始動。当日は単勝オッズ1.2倍という圧倒的1番人気に支持された。しかし佐藤が第3コーナーで仕掛けを遅らせた結果、最終コーナーから馬群に包まれて抜け出せない状態となった。アドラーブルが先頭に立ったころに外へ抜け出して追い込んだが、同馬から3馬身半差の2着となり、初の敗戦を喫した。他馬と一緒に進出しなかった理由は「今から脚を使って、ゴール前で差されたらみっともない」というものだった。また後に佐藤は「桜花賞を勝つために一度馬群を経験させようと思ったら、出られなくなってしまった」とも語っている。競走2日後、自信を喪失した佐藤から松田へ、桜花賞の騎乗を辞退したい旨が要請され、佐藤自身の薦めでニシノフラワーの騎手は河内洋に変更となった。のちに佐藤は「(チューリップ賞は)私のミスです。これは桜花賞に乗るのは荷が重いなと思って、交代を申し出たんです」と内実を語っている。また馬主である西山正行の息子・茂行はインタビューに対し「どうしても心情的には佐藤騎手を乗せてやりたいんだけど、チューリップ賞を見た限り、ちょっと荷が重いということになったんです。(中略)本当は佐藤正雄騎手で勝ちたかったです。佐藤騎手で桜花賞を勝って、一緒に喜びたいというのが大きなテーマでした」と語った。ただ一方で、茂行が後に語ったところでは、正行は佐藤に対して怒り心頭で、チューリップ賞のレース直後には検量室で正行が「このへたくそ!」と叫びながら佐藤の頭を丸めた競馬新聞で叩いていたという。このためレース直後には既に騎手の乗り替わりの検討が進められていたといい(従って佐藤が騎乗を辞退したのは、正行の本音を察した結果ともいえる)、正行は3歳時に騎乗経験のある田原を推していたが、最終的に調教師の判断を尊重することになった。4月12日の桜花賞では前走より人気を落としながらも、オッズ2.3倍の1番人気に推された。レースは打って変わった先行策から直線入り口で先頭に並ぶと、アドラーブルに対して、前走から逆転となる3馬身半差を付けて優勝した。乗り替わりの責務を果たし、史上最多記録となる4度目の桜花賞制覇となった河内はのちに「(牝馬三冠を獲得した)メジロラモーヌ以上のプレッシャー」だったと回顧している。次走には牝馬クラシック二冠を目指して優駿牝馬(オークス)に臨んだ。しかし桜花賞後から急激に食が細り、馬体の維持に時間を割かれ、強い調教ができないままの出走となった。レースでは抑えようとする河内との折り合いも欠き、最後の直線入り口では先頭に立つも、直線半ばで失速して7着と敗れた。夏の休養を経て体調を戻したが、秋緒戦ローズステークスは4着、11月15日の牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯(当時は3歳牝馬限定戦)も3着と、勝利には至らなかった。桜花賞まで1600メートル以下の距離であったのに対し、オークス以降はいずれも2000メートル以上の距離で連敗した。河内は「距離に限界があった」とし、松田は「典型的なマイラー(1600メートル前後を得意とする馬)だった」としている(各競走距離については成績表を参照)。12月20日、シーズン最終戦として初の古牡馬混合戦となるスプリンターズステークスに出走。1200メートルという短距離で、マイルチャンピオンシップを連覇していたダイタクヘリオスに次ぐ2番人気に推された。レースでは「古馬と真っ向勝負では分が悪い」という河内の判断から、長所の瞬発力を活かすため後方に控える作戦を採った。最後の直線では大外から先行勢を次々と交わし、ゴール前でヤマニンゼファーを差し切り優勝。GI競走3勝目を挙げた。河内は前年騎乗したダイイチルビーに続く連覇ともなった。翌年1月に発表されたJRA賞表彰では、最優秀4歳牝馬と最優秀スプリンターの2部門を受賞した。5歳となった1993年はマイラーズカップから始動、前走で退けたヤマニンゼファーとの再戦となった。レースは先行するニシノフラワーをヤマニンゼファーがマークする形となったが、最終コーナーでニシノフラワーが後続を楽に突き離し、同馬に3馬身半差を付けて圧勝した。その後、当年より国際競走となった安田記念に向けて調整が続けられ、5月に迎えた同競走では1番人気に支持された。しかし先団でのレース運びから直線で伸びず、10着と大敗を喫した。以後調子を落とし、春のグランプリ・宝塚記念で8着。休養を経た秋緒戦・スワンステークスでは3着と復調の兆しを見せたが、続くGI・マイルチャンピオンシップでは13着と再び大敗した。連覇を目指した年末のスプリンターズステークスでは3着となり、これを最後に競走馬を引退。翌1994年1月9日、阪神競馬場で引退式が行われた。繁殖牝馬としては、1999年に若駒ステークスを制し、同年クラシック候補にも挙げられたニシノセイリュウ、6勝を挙げたニシノデュー、マイラーズカップなど重賞で2度の2着があるニシノマナムスメを輩出している。GI・重賞に勝利した産駒は出していない。2004年にはイギリスへ送られ、翌年に同地繋養のシングスピールと交配を行ったが、帰国後に誕生した牡駒は競走登録前に死亡した。
出典:wikipedia
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