エーミール・ニコラウス・ヨーゼフ・フォン・レズニチェク(Emil Nikolaus Joseph von Reznicek(稀にRezničekとも), *1860年5月4日 ウィーン – †1945年8月2日 ベルリン)は、ドイツ後期ロマン派音楽のオペラ作曲家。チェコ系貴族の末裔としてオーストリア帝国に生まれた。オーストリア=ハンガリー二重帝国の将軍ヨーゼフ・レズニチェクを父に、ウィーンのボヘミア系の家庭に生を享ける。実家は騎士階級であり、1860年1月2日に男爵位を授かったばかりであった。画家のフェルディナント・フォン・レズニチェク(1868年–1909年)は異母弟である。グラーツにおいて、法学と音楽とを同時に学ぶが、法学では学位を取得せず、代わりにライプツィヒ音楽院で音楽の学習を続けた。その後チューリヒやグラーツ、シュテッティン、マインツ、マンハイム、ヴァイマルの劇場で指揮者を歴任し、1886年から1894年までプラハの楽長に就任した。1894年12月16日には、プラハで《ドンナ・ディアナ》の初演の大成功を見届けている。1902年の春にベルリンに定住し、時折りロシアやイングランドにも演奏旅行を行なった。1909年から1911年までベルリン・コーミッシェ・オーパーの首席指揮者に就任した。1920年からベルリン高等音楽学校作曲科で教鞭を執った。プロイセン芸術アカデミーの会員ならびに役員となった。レズニチェクの作品は、アルトゥール・ニキッシュやグスタフ・マーラー、フェリックス・ワインガルトナー、リヒャルト・シュトラウス、レオ・ブレッヒらの指揮者によって世に送り出された。第三帝国期には一目置かれる作曲家となり、1933年7月には、愛国歌「ラインの守り」で締め括られる1925年完成の祝典序曲を、新たに《解放されたドイツ("Befreites Deutschland")》と題して初演している。1934年から1942年まで「作曲家国際協力常任顧問」ドイツ全権使節を務めた。1935年には、芸術科学ゲーテ勲章を授与され、1936年4月20日にはアドルフ・ヒトラーから教授職に任命されている。1938年に《弦楽四重奏曲》が第三帝国音楽祭で上演され、同年に帝国文化評議員として帝国音楽院に提言した。1940年より月々の恩給を、1944年12月には1回限りの3万帝国マルク以上の贈与金を授かった。歿後は、ヴィルマースドルフの森霊園に葬られた。レズニチェクはリヒャルト・シュトラウスと個人的な友人同士ではあったが、両者の関係はどっちつかずであった。レズニチェクの交響詩《シュレーミール("Schlemihl")》(1912年)はシュトラウスの交響詩《英雄の生涯》の直截のパロディである。(しばしば冷笑的な)ユーモアの活用というのが、ほとんどのレズニチェク作品の特色であり、歌劇《騎士ブラウバルト("Ritter Blaubart")》の早口でわけの分からないことを口走るブラウバルトから、交響詩《勝者("Der Sieger")》(1913年)の嘲るような「金の子牛をめぐる踊り」を経て、《舞踏交響曲(交響曲第5番)》(1925年)の表現主義的な最終楽章「タランテラ」に至るまで、その例は枚挙のいとまがない。このような(ある意味ではティル・オイレンシュピーゲルばりの)悪ふざけのせいで、レズニチェクは、ユーモアの利用に不慣れな音楽や芸術の分野でしばしば面倒に捲き込まれた。こんにちレズニチェクは、もっぱら歌劇《ドンナ・ディアナ》の序曲で覚えられており、この序曲は、ドイツは素よりイギリスやアメリカ合衆国でもテレビ番組のテーマ音楽に転用されて親しまれてきた。しかしながらレズニチェクが手懸けたジャンルは、交響曲や管弦楽組曲、セレナーデ、序曲、ヴァイオリン協奏曲、室内楽があり、歌劇も多数存在する。以前はレズニチェク作品のまとまった音源を入手することは難しかったが、現在では、ドイツのレーベルcpoから、交響曲や交響詩など、管弦楽曲の連続録音が発表されており、3幕のメルヘン・オペラ《騎士ブラウバルト》はベルリン放送交響楽団によって録音が制作された。
出典:wikipedia
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