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国鉄115系電車

国鉄115系電車(こくてつ115けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した近郊形直流電車である。寒冷地区・急勾配路線での運用を目的にした近郊形車両で1963年(昭和38年)から1983年(昭和58年)まで改良を重ねながら1,921両が製造された。国鉄の新性能電車は、1957年に製造を開始した101系通勤形電車を祖とし、その後は151系特急形電車・153系急行形電車とともに増備が進められた。また、鹿児島本線・常磐線の交流電化により3扉セミクロス交直流両用となる401・421系が1960年から製造が開始された。しかし、東海道線東京口などでは80系電車や客車など2扉車が使用されており、増加する通勤客に対応できないことから、401・421系と同等の車体構造を持つ111系が製造された。さらに同時期には山間部路線でも電化が始まり中長距離列車が運行されるようになったが、111系が搭載する出力100 kW 級のMT46系主電動機では出力不足が如実であり、編成の組成において電動車を多くした高MT比とするか、補助機関車の連結が要求された。しかし電動車を増やす場合、製造・運転・保守ともに高コストとなり不経済であることから、111系をベースに主電動機の出力増強を目的に開発されたのが113系と本系列である。1985年度末時点で、新製車両1921両、113系への転用改造4両、113系からの編入改造6両で1923両の車両が存在していた。1985年から後継の211系電車投入が開始されたので、1986年から老朽廃車が開始されたほか、汎用性の高さから1987年の国鉄分割民営化前後に編成両数を減らして本数を増やすため中間車の先頭車化改造を多数実施した。JR発足時には事故廃車2両・老朽化廃車45両・他形式(401系)への改造1両を除いた計1,875両が東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継された。その後は老朽化や後継形式への置換えにより0・300番台車の多くは廃車となった。またJR東日本からしなの鉄道へ33両、伊豆急行へ27両が譲渡された。2012年3月末現在ではJR東日本・JR西日本・しなの鉄道で970両が残存する。同時期に製造された113系が暖地・平坦地向けであるのに対して、本系列は113系と基本的な部品の共通化をしつつも山間部・寒冷地・急勾配路線での運用を考慮し耐寒耐雪構造・勾配対策が施工された。またローカル線への投入が想定されたためクハ115形2両+モハ115形・114形ユニットで組成される4両編成を最小単位として運用できる構造を採用。1966年にはクモハ115形の製造開始により3両編成での組成も可能となった。本節では主に各区分の共通仕様について記述し、区分ごとに異なる部分は当該節を参照されたい。111系・113系と同設計となるモノコック構造による鋼製車体で前面中央に貫通扉と側面は片側3か所に開口幅1,100mmの客用扉を設置する。153系と同様に第1種縮小限界へ抵触させないため裾絞りとした車体幅は2,900mmである。客用扉は「半自動機能」を装備し、手動での開扉も可能である。これは寒冷地区で扉の開放を極力抑えるためのもので、気動車で採用した方式と異なり車掌スイッチによって容易に自動・半自動の切替ができる方式である。このため扉には取手を装備するが、開扉時に取手部分は戸袋に収納されない。ドアエンジンは鴨居の部分に新しく設計されたTK8が取り付けられた。側窓は戸袋部分を除いて2段上昇式または上段下降下段上昇式である。開閉方向は製造時期によって異なる。車体は耐寒耐雪構造であり、屋根上通風器は冬期に冷気や雪の遮断が可能な押込式を採用した。塗装は黄かん色の地に車体裾と上部に緑2号を配した「湘南色」を標準としたが、中央東線での運用車両はクリーム1号の地に青15号(濃青色)の「横須賀色(通称スカ色)」である。配色は前面下部を斜め(V字形)に塗り分けた113系に対し本系列では貫通扉を除き前面下部を直線状(U字形)に塗り分けた。後にこの2種以外の塗装も採用された。座席は他の一般的な国鉄近郊形電車と同様、扉間に対面式固定クロスシート(ボックスシート)を配し、扉周り戸袋部にロングシートを配したいわゆるセミクロスシートである(鉄道車両の座席も参照)。区分によっては一部の座席配置が異なるほか、クハ115形ではトイレが設置・未設置の差異もあり、設置車両では後位3位側隅部がトイレとなる。車内色は、当時の近郊形で標準的に用いられていた淡緑で、座席モケットは青をベースとした。※いずれも基本番台製造開始時に搭載された機器を基準に解説を行う。設計変更などによるマイナーチェンジ等は当該番台の項目を参照のこと。台車は枕バネ・軸バネはいずれもコイルバネとし、ウィングバネ式軸箱支持機構・スウィングリンク式揺れ枕機構を採用する国鉄新性能電車の標準形式となるDT21B形動力台車・TR62形付随台車を装着する。主電動機は定格出力120kWのMT54形直流直巻電動機を歯数比1:4.82 (17:82) で搭載する。走行系機器類は113系と同一仕様であるが、M車のモハ115形に搭載される主制御器は勾配区間での運用に対応するためノッチ戻し機構ならびに抑速ブレーキを装備したCS15A形とした。M'車のモハ114形には集電装置として国鉄標準型であるPS16形菱形パンタグラフ、2000L級空気圧縮機(CP)を搭載する。Tc車のクハ115形はMC37形マスター・コントローラーを搭載するほか、偶数(上り)向き・奇数(下り)向き両方への方向転換が可能な両渡り構造を採用した。本系列は同時期に製造された113系と異なり、すべて普通車のみで製造された。ただし以下の線区で1等車(現・グリーン車)となるサロ115形が計画されたが、いずれも見送られた。1963年1月から1971年(昭和45年)にかけて製造された569両のグループで、以下の特徴を持つ。また増備途上で以下の設計変更も実施された。1963年3月の宇都宮運転所を皮切りに、新前橋電車区(現・高崎車両センター)・三鷹電車区(現・三鷹車両センター)・小山電車区(現・小山車両センター)へ新製配置された。後に新潟・静岡・岡山・下関の各地区にも転出したために分割民営化時にはJR東日本・JR東海・JR西日本に承継。2015年度までに改造車以外は廃車された。狭小断面トンネルが存在する中央本線高尾以西では、レール面からのパンタグラフ折畳高さが4,000mmの制約が設けられていた。したがってモハ114形の4,140mmでは入線が不可能でPS16形パンタグラフの取付部分のみ屋根高さを180mm下げパンタグラフ折畳高さ3,960mmとした「低屋根車」として対応させることになり、801-の番台区分をされ汽車製造・日本車輌・川崎車輌で製造された。低屋根部の室内天井には扇風機の代わりに換気扇(ファンデリア)を、低屋根肩部に外気取入用の風道を設置する。他の仕様は同時期に製造された基本番台と同一だが車重が基本番台車に比較すると0.3t軽い36.4tとなったほか、本区分とMM'ユニットを組成するクモハ115形・モハ115形は基本番台の続番で製造された。後に折畳高さの低いPS23形パンタグラフが開発されたために300番台以降では、身延線用2600番台を除き低屋根構造は廃止された。113系1000番台同様のモデルチェンジが実施された区分番台。1973年(昭和48年)から製造開始され小山電車区・新前橋電車区・三鷹電車区に新製配置された。本区分番台は1977年(昭和52年)に製造を終了。それ以降は後述の1000番台へ移行した。上越線・信越本線などの寒冷地ならびに冬期降雪の多い地域での運用を考慮した耐寒耐雪強化構造が施工されたた区分で1977年から1982年(昭和57年)まで製造された。300番台をベースとするが、以下の設計変更・改良が行われた。伯備線電化名目で製造された昭和55年度第2次債務車(クハ115-1233- ・1149 - /モハ115-1107- /モハ114-1191- )からは屋根布がポリウレタン樹脂塗屋根に設計変更された。引き続き伯備線増備目的で製造された昭和56年度第1次債務落成車(クハ115-1236- ・1152- /モハ115-1113- /モハ114-1197- )では、外板腰板部やAU75G形集中式冷房装置キセのステンレス化などさらなる腐食防止対策が施工された。JR東日本・JR西日本では仕様が異なるが、内・外装のリニューアル工事も実施しているが、JR東海では313系3次車への置換えによって後述の2000番台車も含めて全車廃車された。1977年から1000番台と並行して80系などの旧形電車置換え目的で製造された番台区分である。山陽本線広島地区に投入されたグループと身延線に投入されたグループに分かれる。1000番台との相違点を以下に示す。1977年(昭和52年)から翌年にかけて山陽本線姫路以西に使用するため広島運転所に配置されたグループは、6両編成(TcMM'MM'Tc')×8本・4両編成(TcMM'Tc')×13本の電動車29ユニット58両と制御車42両の計100両が製造された。この投入で山陽地区の70系・80系は運用を終了し、新性能化が完了した。1981年(昭和56年)7月には身延線の旧形電車置換え用にクモハ115形+モハ114形が13ユニット26両、クハ115形は3両編成組成用偶数向き車13両(2022 - 2034)ならびに4両編成組成用奇数向き車8両(2122 - 2129)の計47両が製造され沼津機関区に配置された。塗装は甲州ぶどうをイメージしたワインレッド(赤2号)地に富士山の雪をイメージした白(クリーム10号)の粘着塩ビテープを使用した帯を採用し、後に国鉄車両の地方色の先駆としても言われるようになった。広島地区投入車との相違点を以下に示す。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には、広島地区の100両がJR西日本に、身延線の39両がJR東海に、新潟地区の8両がJR東日本に承継された。JR西日本では体質改善工事対象車とされ一部車両に施工済である。身延線は1941年に私鉄である富士身延鉄道を買収した経緯からトンネル内の架線高さが低く、レール面からパンタグラフ折畳高さが中央東線の3,980mmより低い3,960mmの制約があった。このためモハ114形300・1000番台PS23A形取付車の3,983mmでは絶縁距離の確保ができないことから、パンタグラフ搭載部分屋根形状を車体長手方向約2,750mmに渡り20mm切下げパンタグラフ折畳高さをレール面から3,960mmとしたための区分である。車内構造は他の2000番台車との差異はない。1981年に13両が製造され全車沼津機関区に配置。後に静岡運転所(現・静岡車両区)に転出しJR東海に承継されたが、2007年3月18日ダイヤ改正で定期運用を終了。2008年までに全車廃車となった。1980年代に国鉄では山陽本線広島地区の列車編成を6両から4両に短縮し、列車運転本数を増やすことでサービス向上を図る「ひろしまシティ電車」の導入方針を打ち出した(1982年11月15日国鉄ダイヤ改正・1984年2月1日国鉄ダイヤ改正も参照のこと)。また主に山陽本線広島以西で運用されていた153系電車も老朽化により置換えも計画されていたこと。競合交通機関との対抗策としてサービス向上も要求されたことから、これらのニーズに対応するため同時に設計変更も実施された。このため新たに設定された番台区分である。1982年11月ダイヤ改正用に4両編成x6本計24両と上述の編成短縮で捻出されたモハ111・110形を転用した4両編成組成用クハ115形15組30両が製造された。主要機器類は2000番台車から踏襲されたが、車体内外は117系電車に近い構造としたため、以下の設計変更が実施された。1983年6月には本系列最終増備車となるMM'ユニット6組x12両 (モハ115・114-3007 - 3012)が追加製造された。本グループの総数は66両である。1983年6月の最終増備まで冷房改造などを除き車種間改造などは施工されなかったが、それ以降多くの改造車が登場している。なお改造車については分割民営化後の会社ごとで解説を行うが、モハ115・114形についてはJR西日本のみの改造である。短編成化ならびに列車増発の観点から改造が施工されたが、以下の制約が課せられた。さらに当時の国鉄の財産事情を考慮して、種車の車端部を切断してあらかじめ製造しておいたユニット運転台を溶接して組立てる工法が採用された。基本番台に、あらかじめ工場で製造されたクモハ115形1000番台に準じた運転台を接合し先頭車化した改造車である。なお、改造の経緯から2つのグループに分類できる。改造車登場当時は溶接部が折れるのではないかといった懸念もあったが、現在に至るまでそのような事故はない。これらの編成で身延線で運用されていた62形が置換えられた。しかし、岡山からの転入ユニットはモハ114形がPS16形パンタ搭載の0番台のため西富士宮以北に入線不可の制約があった。このため1985年に三鷹電車区のクモハ115形+モハ114形800番台ユニット2本が転入し、508・509は新前橋電車区へ再転出。さらに1986年に509・520が岡山へ、1987年には511・517・519が飯田線用として豊橋機関区(現・豊橋運輸区)へ転出した。1987年の国鉄分割民営化に際しては、新潟地区のクモハ115・114形各7両と508はJR東日本に、御殿場線・飯田線用の510 - 519はJR東海に、岡山の509・520はJR西日本に承継された。JR東海承継車の513 - 515はC-AU711D形集約分散式冷房装置で冷房化され5513 - 5515と改番されたが、他は211系の投入により1989年から1990年にかけて非冷房のまま廃車された。冷房改造車についても1999年に廃車された。JR西日本承継車は非冷房のまま1996年に廃車。JR東日本承継車は501・503・504の3ユニットが1988年にワンマン運転対応に改造され、ほぼ弥彦線専用になった。7ユニットすべてインバータ制御のAU712形集約分散式2基搭載で冷房化された。502ユニットは車両更新を受け、2000年には506ユニットが訓練車に転用されクモヤ115-1+クモヤ114-1に改番された。新前橋配置の508は1993年に廃車された。2014年7月には507ユニットが、同年11月には502・505ユニットが廃車された。最後まで残存した501・503・504の3ユニットも2015年7月15日付で廃車され、廃区分番台となった(訓練車としては前述の2両が在籍)。モハ115形1000番台・モハ114形1000番台に新造車に準じた運転台ユニットを接合し先頭車化した車両である。伯備線・大糸線・山陽本線岡山地区の短編成化用(TcMM'MM'T'c / McM'MM'T'c → McM'T'c)として1983年から1986年にかけてクモハ115-1501 - 1551が、新潟地区の2両編成化用として1986年から1987年にかけてクモハ114-1501 - 1506に改造施工された。クモハ115形は、1501 - 1518・1536 - 1551が岡山、1519・1530 - 1535が長岡、1520 - 1529が松本にそれぞれ配置されたが、1986年に松本車は1521・1522・1527 - 1529が長野に、1520・1524 - 1526が神領に、1523が静岡に転出した国鉄分割民営化に際しては、岡山の36両がJR西日本に、長岡の14両(クモハ114形6両を含む)がJR東日本、神領の4両と静岡の1両がJR東海に承継された。JR化後はJR東日本が1992年にかけてクモハ115-1552 - 1566・クモハ114-1507 - 1520の追加改造を実施。この結果モハ115形1000番台は全127両中66両が先頭化改造されたことになり、JR西日本が改造した1600番台4両を含めると70両となる。床下機器が輻輳しているためにJR東日本所属の一部のクモハ114にはトイレを設置しているが水タンクは室内設置となるほか、JR西日本岡山電車区所属のクモハ115 - 1503・1505・1508・1515 - 1518・1551を除いたATS-P搭載車は運転台から前部客用扉のロングシートを撤去して、車掌台側後部に床置搭載となる。JR移行後の1988・1989年にJR西日本でモハ115・114形を先頭車化改造したグループで、4ユニット8両が改造された。前頭部分は廃車車両から流用したため原形の白熱前照灯が残る編成も存在したが、2006年に全車ともシールドビーム化改造が施工された。当初は湘南色で非冷房だったが、後に全車冷房化改造も施工された。座席はバケットシート交換によりシートピッチが拡大された。そのため戸袋窓部分のロングシートは設置されず座席定員は減少する。側面行先表示器の設置準備工事を同時に施工しているが、他社の2両編成と異なりクモハ115・114形とも前位側に設置とした。8両全車が下関車両管理室(現・下関総合車両所)に所属し、山陽本線の岩国 - 下関間で運用されていた。しかし、2008年時点で使用年数が最も長い本系列編成であることから老朽化が進んでおり、WAU202形冷房装置の効きが悪く故障も多い、トイレが未設置などの問題もあったため、223系5500番台置換えで捻出された後述の6000・6500番台が代替車となり、同年12月2日にT-01編成(クモハ115-551+クモハ114-551)が下関車両センターに回送された。さらに3編成が2008年度内に廃車され、残ったT-04編成(クモハ115-554+クモハ114-554)も2010年1月8日に廃車され、廃区分番台となった。舞鶴線の電化開業に伴いクモハ115形+モハ114形1000番台ユニットを種車に、モハ114形の先頭車化改造により2両編成とされた番台区分である。工事期間の短縮と簡素化の観点から新設運転台は既存の先頭車と同一の形状とする事を止め、窓や灯具の配置を踏襲しつつ種車の構体を活用した切妻形状とされたのが特徴で、クモヤ145形などに近い外観となった。また廃車発生品の流用などで工事費の低減も図られた。岡山電車区所属車から転用の2組は改造時に後述のブレーキ装置の高速化改造を受けて原番号+5000の区分。網干電車区(現・網干総合車両所)所属のブレーキ装置のてこ比改良車が種車の3組は車両番号下4ケタが引き継がれた6500番台の区分とした。クモハ115形には真空式の和式トイレ設置、クモハ114形には霜取りパンタを搭載して2パンタ化改造が施工された。体質改善40Nおよびワンマン運転対応化工事も施工されたが、通常の体質改善40N車と異なり座席構造は従来のセミクロスシートのまま(これは共通運用の113系にも共通する)で車内スピーカーも更新されず原型のままである。ワンマン運転対応化工事改造の内容を以下に示す。1999年(平成11年)に5本10両が改造された。「R編成」と命名されたが、既に福知山電車区に配置されていた113系5300・5800番台の2両編成(S編成)と共通で運用された。2008年8月の223系投入で経年の若い本車は他線区へ転属となり、同年11月にR4編成(クモハ115-6538+クモハ114-6625)・R5編成(クモハ115-6539+クモハ114-6627)の2本が下関車両管理室へ転出。12月11日に旧R4編成はT-13編成となり営業運転を開始した。さらに2008年度内に4本が転属し、自動解結装置を撤去して車両番号が-5000となる改番が実施された。2001年7月のダイヤ改正より伯備線・山陰本線の新見 - 西出雲間でワンマン運転が開始された。これに伴って岡山電車区に所属する3両編成の一部が2両編成に短縮された。この先頭車を捻出するため、上述の6000・6500番台と同様に伯備線新見以北閑散区間用として、モハ114形1000番台へ運転台を設置し2両編成・ワンマン運転対応化改造を施工した区分である。2001年に吹田工場、後藤総合車両所および下関車両センターで8本8両が改造された。併結運転時の貫通路使用を取り止めを前提としたため正面貫通路の廃止・運転台は先頭部ユニットの接合であり、運転台機器は同時期に廃車されたクハ115形の廃車発生品の再用であるなど改造工数低減が実施されたほか、窓や灯具の配置も異なっており103系低運転台車体質改善40Nに近い形状になっているのが特徴である。またワンマン運転実施のため運賃箱や運賃表示機などが設置され、その際の視認性向上のため運転室前に小窓が設けられ、雪切室が廃止され主電動機の冷却風の取入れ方法が運転室の下からの吸気に変わった。なお6000・6500番台と共に前面窓に後退角は付いていない。6000・6500番台と同等の体質改善40N・側引戸電気指令化も同時施工されたが、高速化改造ならびに転換クロスシート交換は未施工。このため車内はセミクロスシートとなっている。(クモハ114は定員138名/座席定員58名)また便所はクモハ115に設置されたためクモハ114には設置されていない。パンタグラフは霜切り用と集電用の2機を搭載するものが基本だが、クモハ114-1196には霜切り用パンタグラフは搭載されていない。当初は京阪神更新色だったが、現在は濃黄色に変更されている。全車岡山電車区に所属し、G編成として伯備線・山陰本線伯耆大山 - 西出雲間で運用される。車両番号はユニットを組むクモハ115形1500番台と共に改造前からのものである。2004年(平成16年)に岡山電車区の運用は、輸送力見直しのため4両編成が3両編成に変更された。これに伴い3両のD編成が増加したため、4両のA編成に組成されていたモハ115形に運転台を設置し対応させることになり、2004年に後藤総合車両所で4両が改造され発生した区分である。番号は原番号(6500番台は新製時の番号)に600を加えたものとなった。前面形状は再び貫通扉付きのものとなったが、運転台位置は上述1000番台と同じくやや低めで運転台仕切窓を従来より拡大。このため同時期に登場した103系3550番台に類似した形状となった。運転台機器は下関所属で老朽化余剰廃車となったクハ115形初期車からの発生品を流用し、ブロックごとにユニット化するなどコスト低減が図られた。このため運転室の仕切り壁は上側が切れている。また雪切室を廃止したため、主電動機の冷却風取り入れ口は運転室の下にある。なおワンマン運転に対応させるためと自動放送装置が取り付けられた。このため機器類を収める箱が設置され、運転室後部の窓が埋められたが、ワンマン運転は行われていない。全車30N体質改善工事が同時施工されており、座席も通常の体質改善車と同じ転換クロスシートに交換された。このため定員は124名(座席定員48名)となった。なおトイレは編成にクハ115形が組み込まれるために設置はされていない。塗色は、当初は京阪神更新色だったが、2012年までに全車両が濃黄色となっている。223系5500番台の導入に伴い福知山地区で115系6000・6500番台が余剰となり、下関地区に転用された際に高速化解除されて発生した番台区分。2008年 - 2009年に吹田工場と下関車両センターで4両が改造された。種車が先頭車改造される前にてこ比が変更された車両が1500番台、変更されなかった車両が1000番台である。また高速化解除とともに自動解結装置が撤去され、ワンマン設備も使用停止となったため出入口の表示器を不使用とした。下関総合車両所に配置され、岩国 - 下関間で主に運用されている。塗色は、転属後しばらくは京阪神更新色だったが、2012年に濃黄色に塗り替えられた。1991年(平成3年)に221系増備に伴い117系はJR京都線・JR神戸線での新快速運用が縮小された。これにより一部編成は6両から4両に短縮し、山陽本線岡山地区の快速「サンライナー」や福知山線(JR宝塚線)・奈良線へ転用し、余剰となった中間電動車ユニットを山陽地区に残存した非冷房車置換え名義で本系列に編入改造した番台区分である。当初11ユニット22両が、2001年(平成13年)には3ユニット6両が改造され、2007年現在14ユニット28両に施工された。7ユニットが下関総合車両所の3000番台クハと、残る7ユニットは岡山電車区の3扉クハと編成を組成する。本系列と117系は補助電源電圧が異なり、ジャンパ連結器も本系列のKE76形3本に対して117系はKE96形1本であるなど互換性が無い。このため、M'車からのサービス電源供給にはクハ115形に降圧装置を取り付け、ならびに車端部ツナギを改造したうえで、KE76形とKE96形を直接接続可能な特殊引き通し線を装備する。種車の関係で本区分のみパンタグラフはモハ115形に搭載される。側面行先表示器は本系列とは互換性がないため岡山電車区所属車は改造時点では使用停止とされ、広島運転所所属車は本系列用に交換。いずれも行先標受けが設置された。なお、車内側のドアはもともと白系の化粧板が張られていたが、体質改善工事施工時に本系列に合わせたステンレス無地に変更された。2006年(平成18年)より30N体質改善工事を開始し2009(平成21)年度に全車施工が完了した。この工事で117系時代の名残である新鮮外気導入装置は撤去され、外見上は3000番台とほぼ同一になった。内装面では、座席配置・フラット天井・冷房吹出口形状・照明灯カバーがいずれも種車のままであり、特に天井を見れば判別は容易である。京阪神快速用に電動車ユニットの最高速度を110km/hとしたものである。クハ115形の改造車は方向転換改造車を除き500番台(偶数向の車両は600番台)とし、種車が1000番台の場合は1500・1600番台に区分される。これはクハ111形からの改造車も同一である。また同じ運転台取付車両でもモハ115・114形を電装解除してクハ115形化した車両は550番台・650番台に区分され種車の判別が容易である。これは台車が付随車用のTR62形台車でなく電動車用のDT21形台車を付随車用に改造したDT21T形を装着しているのを車両番号で判別できるようにしたためである。1983年に、越後線・弥彦線電化開業用ならびに山陽本線広島地区短編成化頻発運転用としてモハ115形・モハ114形基本番台を電装解除し、500番台と同様の運転台を取付けてクハ115形に改造されたグループ。550番台が奇数向き、650番台が偶数向き先頭車である。550番台も650番台も奇数(上り)向きで種車の前位に運転台を取付け、550番台は偶数(下り)向きに方向転換させ、3位側隅にトイレを設置した。基本的に550番台はモハ115形からの、650番台はモハ114形からの改造であるが、552のみモハ114形からの改造で屋根上のパンタグラフ部の歩み板が残存する。550番台では551 - 553は新潟地区用で耐寒耐雪装備を追加。554 - 556と650番台の全車は広島地区用で暖地向けである。1987年の国鉄分割民営化では、新潟地区用の550番台3両がJR東日本に、広島地区用の550番台3両と650番台4両がJR西日本に承継された。JR東日本承継車はAU712形集約分散型冷房装置による冷房化を施工。新潟車両センターに所属し信越本線・白新線・越後線・弥彦線で運用されていた。551は2014年7月に、552は同年12月に、553は2015年8月20日にいずれも廃車となり、550番台は全廃された。JR西日本承継車は、554・556・652・654が国鉄時代の1985年にAU13E形分散式冷房装置を6基搭載する冷房化改造を施工され、1987年に651・653が試作のWAU101形を3基搭載して冷房化されたが、555は非冷房のまま1992年に廃車された。その後、2001年に651・653、2004年に554、2013年に556・652・654が廃車され、650番台は全廃された。600番台は種車の違いから以下の2グループに分類される。1983年に岡山地区短編成化用として偶数(下り)向き限定でクハ111形300番台6両へ以下の改造が施工された。その一方で種車のグローブ型通風器は残存させたほか床下の空気圧縮機は使用停止措置とした。国鉄分割民営化時には全車がJR西日本に承継。604・605にはWAU102形3基による冷房改造が施工されたほか、605にはベンチレーターやタイフォンへのカバーが装着された。1994年には冷房改造済みの3両が追加改造され、サハ115形改造グループの続番となる620 - 622が付番された。1996年に603・606、1997年に602、1999年に601、2002年に620・621、2012年に604・605・622が廃車され本グループは消滅。1983年に山陽本線広島地区では編成短縮により運転本数を増加させるダイヤ改正が実施された。これに対応するため中央東線で運用されていた本系列は8両から6両へ編成を短縮。サハ115形基本番台を捻出し、方向転換と偶数(下り)向きに1000番台に準じた運転台設置改造を施工したのが本グループである。後に広島地区のみならず高崎地区・新潟地区・松本地区・静岡地区用にも追加投入され1985年までに13両が改造された。車両番号はクハ111形改造車の追番となる607 - 619が付番された。当初の配置を以下に示す。沼津配置車は1985年3月に新前橋へ転出。さらに612は1986年11月にクハ401-901へ再改造。松本配置車は国鉄分割民営化により中央西線中津川以北がJR東海の管轄になることから1986年11月に神領へ転出。国鉄分割民営化時には以下に継承。JR西日本継承車は、607・608が国鉄時代の1984年および1985年に本系列では初のAU75形集中式冷房装置によらない冷房化改造を施工しAU13E形分散式冷房装置を搭載した。このため3両が異なった形態となった。2002年に609、2012年に607が廃車となり、2016年現在は608のみが下関総合車両所運用研修センターに配置される。JR東日本承継車は以下の経歴を変遷した。2015年8月までにいずれも廃車された。JR東海承継車は1000番台と編成組成されC-AU711A形集約分散式2基によって冷房化された。1988年に中央西線中津川以北の運用が165系電車に置換えられたことから静岡に転出し、全車が飯田線 - 篠ノ井線系統の運用に充当したが、1999年に2両を残して東海道本線系統に転用された。313系3次車への置換えで2007年4月に617が廃車されJR東海からは消滅した。老朽化したクハ115形初期形車置換えを目的にクハ111形750番台へMC54A形主幹制御器を本系列用MC53形へ交換・ブレーキ弁のカム構造変更・ジャンパ連結器交換の編入改造を2013年に施工した区分。759の1両が下関総合車両所運用検修センターに所属していたが、227系の導入により、2015年3月に廃車され廃区分番台となった。1984年にトイレ付奇数向きのクハ115-1148へ施工した偶数向き方向転換と改番である。分割民営化後にJR東日本が1991年と1992年に5両へ同様の工事を施工した。1986年に岡山配置の6両編成を短編成化する際に偶数向きのクハ115形が不足したことから、奇数向きのクハ115形1100番台車を偶数向きに方向転換を実施し、同時に1400番台への改番も実施した。同様な方向転換は、1984年にクハ115-1148→1244の事例があるほか、分割民営化後にJR西日本でも同様の方向転換改造が施工されているが、国鉄時代と異なり車番変更は実施されていない。国鉄時代の1983年からサハ115形1000番台を改造した番台区分。偶数向き。種車の関係でトイレは未設置。1983年・84年に新津車両管理所(現・総合車両製作所新津事業所)で1501 - 1504の4両が、民営化後の1989年から1992年までに1505 - 1513の9両が改造された。最後まで残存した新潟車両センター所属の1501・1504が2016年4月22日付で廃車され、廃区分番台となった。前述の1500番台と同じく1983年に登場したサハ115形1000番台からの改造車であるが、1500番台と異なり奇数向き固定使用とトイレ設置による独特の窓配置が特徴である。1601の1両が新潟車両センターに在籍。1983年に越後線・弥彦線電化開業用として身延線用2000番台奇数向制御車に施工した偶数向に方向転換改造である。車両番号は既存番号の続番とされた。2012年度にクハ111形2000番台へ750番台とほぼ同様に主幹制御器などの交換を施工したグループであるが、相違点として運転台に抑速ブレーキ表示灯を設置する。車番はクハ111形+500としたが、クハ111形時代に電気連結器取付工事を実施後に撤去した2500・2600番台は元車番に復帰後に+500とした。1994年(平成6年)に岡山地区の輸送改善のためサハ111形7000番台2両へ客用扉の半自動化などの改造施工した車両である。ドアエンジンは半自動対応のTK8A形とされた。1999年(平成11年)までに全車廃車となり現存しない。C-AU711D形集約分散式冷房装置の搭載・クハ115形に冷房専用電源SCV(静止型コンバータ)の搭載・客扉のステンレス化・化粧板の交換などの改造施工をした車両にされた番台区分で現番号+5000、SCV搭載クハ115形は+6000とされた。老朽化により1999年までに全車廃車されている。房総各線で運用している113系6両編成の一部を4両編成とするにあたりサハ代用で組込まれていたクハ111形を捻出するために、サハ115形300番台4両を1984年と1985年に編入改造を施工した。前項同様に房総各線で運用している113系6両編成の一部を4両編成とするにあたり、余剰となっていたクハ115形基本番台を1988年に編入改造した。種車はすべて非冷房車で基本番台・300番台ともに従来車の続番とされた。1993年までに全車廃車。常磐線の編成組み替えなどで先頭車が不足したため、1986年に1両のみ改造。詳細は国鉄415系電車#クハ401-901→101を参照のこと。新製車に合わせて国鉄時代に施工された改造工事はAU75形集中式冷房装置の搭載を前提としていたが、分割民営化後のJR東日本・JR東海の両社では経費削減の観点から独自の集約分散式を搭載する改造も施工された。非冷房で落成した基本番台は、300番台・113系0'番台が新製冷房車して落成したためサービス標準化の観点から以下に示す冷房化改造が施工された。冷房化改造を受けた車両は基本的には奇数番号車は奇数向き、偶数番号車は偶数向きに改造されたが、一部車両については方向転換も実施された。また1980年度以降には1000番台以降の冷房準備車にも取付工事が開始された。冷房設置に伴い補助電源装置も従来のMGに代わりSIVや静止形コンバータ(SCV)が適用された非冷房車は冷房搭載を前提とした設計をしていないため、構体の補強および電源用三相交流引き通し増設の工事が伴い、多額の費用と時間を要していた。そのためJR化後は非冷房車の冷房改造は以下の仕様に変更となった。冷房準備車ではAU75C形の後継機種となるAU75F形を搭載するのが基本であるが、上沼垂所属のクハ115-1502・1503・2035・2037・2039・2040・2129は編成を組成する電動車ユニットが非冷房車であったために以下に示す例外的措置で改造施工された。改造車のその後の経過を以下に示す。1988年頃からインバータ方式のC-AU711形集約分散式を番台に関係なく非冷房車両(冷房準備車も含む)に搭載する改造工事を施工。2分散冷房装置を正式に採用したのはJR東海のみである。1990年から改造が開始された基本番台の場合MGの交換が必要となるが冷房装置がインバータ式であること。国鉄時代と異なり通常は固定編成で使用されることなどからモハ114形のMGをそのまま残存させ、新たに冷房電源用として偶数向きクハ115形に静止形コンバータ(SCV)を搭載した。車番は電動車が5000番台、制御車は6000番台に改番された。クハ115-604・605・609・651・653には、大手私鉄で採用されているものに酷似したWAU101形・WAU102形集約分散式を3基搭載した。冷房搭載後も扇風機を装備し、集中式とは天井意匠が異なるほか、クモハ115・114形550番台は105系冷房改造車と同じバス用冷房を応用したWAU202形を搭載した。これらの車両は2013年現在いずれも現存しない。車齢が15年以上経過した車両は老朽化や設備の陳腐化が深刻になってきたが、当時の国鉄は財政状況が厳しく、それらの車両を新車に置き換えることは難しかったため、延命のために特別保全工事が行われた。改造内容は主に屋根や腰板、窓まわりの外板の補修および空気配管や配線の取り替えであった。この工事は全般検査2回分(約16年)分の寿命を延ばすことが目的だった。JR西日本では113系が不足したために本系列の一部をJR京都・神戸線などに転用することになり、対象車に以下の改造を施工した上で網干総合車両所などに配置した。さらに次の追加改造が施工された。その後は各路線から本系列の撤退により余剰となり、現在は福知山電車区に残る2両を除いて岡山・下関地区などに転出し一般車と編成を組成する。特別保全工事を発展させた車両更新工事。国鉄時代から施工されていた延命工事の内容に加え、新型車両に合わせた接客設備の改善や新型車両との部品共通化によるコスト低減、検修の効率化を目的として、1998年から施工が開始された。2009年までに2000・3000・3500番台の全車および1000番台の大半に対して施工が終了した。1000番台車は同時期に施工された2000番台・113系7000番台40N施工車とは次の相違点がある。改造車両は以下のとおりである。モハ115形1000番台では岡山電車区の2両のみに施行され、それらはいずれも行先表示器が埋められた。2002年以降の施工メニュー。40Nでは行われていた窓・屋根部の改造を省略し、コストダウンを図った。想定寿命は30年。2009年11月に下関総合車両所運用研修センター所属するクハ115-1151への施工を最後に終了した。この改造からは3000番台・3500番台などにも対象車が拡大されたが、これらの番台区分は当初から転換クロスシートのため座席配置に大きな変更はないが、モケットや化粧板の交換は実施された。30N工事とは逆に外装の更新のみを施工した内容。この工事では異端車が存在する。塗装は以下の仕様とした。国鉄時代の特別保全工事を発展させ、20年程度の延命を目的とした車両更新工事。外板や配管の交換、座席モケットや化粧板の交換、屋根の塗り屋根化、前照灯のシールドビーム化、方向幕準備工事車への方向幕設置などが行われた。弥彦線は1988年10月からワンマン運転が実施されることになったが、これに伴い一部編成に放送装置や運賃箱の設置、EB取り付けなどの改造が施工された。分割民営化直前の1987年3月に長野地区の1000番台1編成3両へ試験的にセミクロスシートをロングシートにする改造を施工した。その後東京都市圏の輸送力増強のため1989年度から1990年度に小山電車区の300番台7両編成のうち、14編成98両にロングシート改造を施工した。1992年3月に発生した成田線大菅踏切事故を受けて、JR東日本は113系電車と同様に1972年度以前に製造された車両にアンチクライマー付きのステンレス板を取り付ける前面強化工事を施工した。当初板は無塗色のステンレスカラーだったが、やがて通常の塗色に戻された。初期車は前照灯のシールドビーム化改造(後述)も合わせて行われた。新潟・長野地区では先頭車化改造車増備によりクモハ115形・114形による2両編成で運行されていたが、この編成にはトイレがないため1992年から新潟地区の車両に、1999年から長野地区の車両に大型トイレを設置する改造工事が施工された。アコモデーションの改善や故障防止、信頼性の向上などを目的としてJR東日本車所属の300番台・1000番台一部車両を対象に1998年から施工された。1990年にJR東日本では、乗務員を対象に定期的に行う異常時の取扱いや応急処置等の教育訓練のため保留車を活用して訓練用編成の整備を行った。2014年現在ではクモヤ115・114ユニットを除き廃車。クモヤ115・114ユニットは上沼垂運転所(現・新潟車両センター)で2000年に改造された。種車時代に行われた冷房改造のため、屋根上に静止型形インバータSC24が搭載されている。当初の訓練車は改造時期の関係で全車非冷房だったため、そのうちのモヤ115-2 - 4は冷房車に置き換えられた。その後小山車両センターのモヤ115-5と長野総合車両センターのモヤ114-1が廃車になり、豊田車両センターのモヤ115-6が残存していたが、2014年に長野総合車両センターに回送され、廃車となった。本系列0番台先頭車の前照灯は白熱灯2基を前面窓下に設置していたが、1973年の300番台以降は小型で耐久性に優れたシールドビームが採用された。そのため0番台車でもシールドビームへの交換が下記2種類の手法で施工された。2008年、最後の大型前照灯装備車クハ115-199がシールドビームに改造されたため、0番台の原型前照灯装備車は姿を消した。残存車はクハ111形改造の605のみとなったが、同車も2008年5月に改造され本系列から白熱灯車が消滅した。老朽化・余剰化を除いた事故による廃車は本系列では以下の5両が該当する。国鉄時代とJR化後に分割して解説を行う。本項では投入された地域ごとに分けて行うものとする。本来の運用とは別に1970年代の一時期はに東北本線・高崎線・中央東線・房総西線(現・内房線)の急行列車(いわゆる遜色急行)にも投入されたほか、通常はEF63形による推進・牽引となる信越本線横川 - 軽井沢間(碓氷峠)での自力走行試験も実施された(詳細は後述)。上野口は本系列が最初に投入された地域であり、80系電車や電気機関車牽引による客車で運転されていた東北本線(宇都宮線)・高崎線普通列車の置換え・新性能化が目的である。東北本線には1963年1月から、高崎線には1964年から投入された。当初の配置車両区は宇都宮運転所・新前橋電車区とされたが、1966年には宇都宮配置車が小山車両区へ移籍。新前橋電車区投入時から両毛線・日光線の運用も担当した。当初は基本4両編成の増結による最大12両編成を組成して運用され、投入開始から2年後の1965年10月には東北・高崎線の普通列車新性能化は一部客車による列車を除き完了。1968年10月のダイヤ改正では上野‐長岡間客車列車の置換えで直通夜行列車にも充当された。1969年からはサハ115形組み込みの7両編成が基本編成、4両が付属編成となり最大15両による運用を開始した。1973年には冷房付きモデルチェンジ車の300番台が投入開始された。製造開始と同時期に上尾事件が発生したため、通勤輸送の改善を目的に1977年まで113系1000'番台とともに当初予定数よりも大量製造された。300番台の大量増備には地方に残る旧形国電置換えの名目もあり、1976年から小山・新前橋の両電車区の基本番台車は、長岡・岡山・広島に転出する車両と冷房改造で引き続き運用される車両に分かれた。1978年10月のダイヤ改正では高崎地区に残存していた旧形国電置換えと東北本線・高崎線規格ダイヤ化による増発のため1000番台も投入開始。1982年には新幹線リレー号にも運用された。その後も増発が繰り返され、1984年2月のダイヤ改正では既に新造車の製造が打ち切られていたために岡山・広島に一旦転出していた基本番台と1000番台が、長岡からはサハ115形1000番台が、1985年3月のダイヤ改正では三鷹・松本・長岡・沼津から運用の見直しによる捻出車が転入。小山・新前橋区合計で859両と本系列のほぼ半分が投入された。しかしこの頃が本系列のピークで、同年12月からは211系電車の投入が開始され、分割民営化直前の1986年11月のダイヤ改正では、広島地区の111系置換えのため基本番台・300番台約60両が広島・下関へ転出となり、状態が悪かった初期車の廃車も実施されたが、それでも分割民営化時には約700両が引き続き運用に投入された。1966年の中央東線松本電化の際に三鷹電車区に既存の客車列車や70系置換え用として投入された。1968年からはローカル列車のみならず急行「かいじ」・「かわぐち」にも投入され、富士急行線河口湖まで乗り入れする運用にも対応した。1975年3月のダイヤ改正では300番台車を新製投入し、一部残存していた客車・70系電車による普通列車を置換えた。なお捻出された70系電車は呉線に転用された。1984年2月・1985年3月のダイヤ改正でサハ115形基本番台が制御車化改造用種車となり各地に転出し、1986年11月1日のダイヤ改正では豊田電車区への移管のため三鷹の配置がなくなった。1976年に上野口への300番台投入で捻出された基本番台で、70系電車の置換えを目的に長岡運転所へ投入開始された。1978年からは1000番台投入により、捻出された基本番台は岡山地区に転出して80系を置換えたほか、1982年には水上以北での減車化(6連→5連へ変更)に伴う運用見直しで長岡運転所所属サハ115形1000番台19両が小山・新前橋の両電車区へ転出した。1984年の越後線・弥彦線電化開業により本系列が投入されることになり、一旦山陽地区に転出した基本番台(先頭車化改造車)や身延線用2000番台が転入したため、現在でも新潟地区には基本・1000・2000各番台が混在した状態が続いている。1977年に80系電車の置換えを目的に松本運転所に新製配置された。その後大糸線の旧形国電も置換えられることになり、36両(McM'T'c、3両編成12本)は1981年より松本運転所北松本支所に配置された。1983年からは短編成化のため電動車に運転台を取り付ける改造も行われた。その際反対向きの制御車が不足するため他の車両区の付随車に運転台を設置した。1985年3月14日に北松本支所は松本運転所に統合され、中央本線・篠ノ井線・信越本線で運用される117両(3両編成39本)と大糸線で運用される31両(3両編成7本、増結ユニットMcM'5組)の計148両が配置された。1986年11月1日に信越本線と篠ノ井線の一部運用を長野運転所(現・長野総合車両センター)に移管・転属となったが、中央西線が分割民営化時にJR東海管轄となるため神領電車区にも転出した車両も存在する。なお、国鉄時代の長野地区配置車両はすべて1000番台新造車で他地区からの転入車は皆無である。1979年、御殿場線用旧形国電置換え用に小山電車区から基本番台4両編成11本計48両が沼津機関区へ転入した。後の減車化(4連→3連へ変更)により車種間改造を含む広域転配が実施された。1981年には身延線用旧形国電置換え用に2000番台が新製配置され32系・42系・40系・51系などの旧形電車は1981年8月に運用を終了。車体更新車のモハ62系も1984年2月のダイヤ改正で運用を終了し、1986年に廃車となった。1986年11月のダイヤ改正で分割民営化に備えて中央西線用車両が神領電車区に、飯田線用車両が豊橋機関区に、また沼津配置車は静岡運転所に配置の見直しが行われた。新潟地区と同様に、1976年から旧形国電置換えを目的に関東地区に新製配置された300番台で捻出された基本番台が岡山・広島に配置された。下関への配置は1984年からである。32系・42系・40系・51系などの旧形車置き換え・短編成化・列車増発・電化開業により新造車も配置された。1978年から、岡山地区向け1000番台と広島地区向け(山陽本線姫路以西の旧形車置き換え名目)2000番台の新製配置が行われた。これらは6両編成が主とされ、一部が4両編成とされた。1982年には伯備線が電化開業することから6両編成1000番台が岡山電車区に追加投入され、電化開業時の1982年7月現在で6両編成61本の306両(0番台非冷房車が20編成120両、1000番台冷房車が31編成186両)が配置された。また、広島地区旧形車置き換えならびに列車増発目的(ひろしまシティ電車)として3000番台の投入が行われたが、こちらは4両編成が投入された。「ひろしまシティ電車」は乗客数6%増と成功を収め、同様の手法が1984年に岡山地区にも導入されることになった。6両編成を3・4両編成に短縮し、奇数向きクハ115形が余剰となって首都圏に転出し、不足する偶数向きクハ115形が新前橋から転入した。1984年の越後線・弥彦線電化開業、1985年の御殿場線短編成化をはじめ関東地区との車両転配も数多く実施されており、分割民営化直前には211系投入により捻出された300番台も転入した。上述の通常運用とは別に落成直後の1963年に粘着運転化された信越本線横川 - 軽井沢間で、電車の自力走行が計画され試験用車両に本系列が投入された。試験の結果、MT54形主電動機は熱容量に問題があることが確認された。その後1980年代に187系電車などが計画されたが、予算等の問題から実現していない。分割民営化後も引続き運用されたが、E231系電車への置き換えにより2000年から廃車が開始され、高崎線では2001年11月30日に、東北本線上野口では2004年10月のダイヤ改正で本系列の運用は終了した。211系電車への置き換えにより、中央本線や長野地区でも2015年10月に運用を終了している。他地区では引き続き運用されてはいるが、状態の良い300番台後期車や1000番台で初期車を置き換えるなどの転配が行われた。また伊豆急行200系電車第3編成以降としなの鉄道115系は、ともにJR東日本が保有していた本系列を譲受・改装したものである。2005年の組織変更による統合で新前橋電車区から名称変更された。2016年4月1日現在では、識別記号『T』と編成に組み込まれるモハ114形車両番号を組み合わせる編成番号を付与された1000番台3両編成11本(33両)ならびに4両編成9本(36両)計69両が配置されている。高崎車両センター所属車は全車両が湘南色塗装である。保安装置はATS-P・Sを搭載。デジタル無線装置を装備し、機器は運転席後方の荷物棚に設置されるほか、リニューアル車は車内の腰掛・化粧板・つり革の交換、補助電源装置は電動発電機(MG)から静止形インバータ(SIV)に更新、電動空気圧縮機はレシプロタイプから除湿機能付きスクリュータイプに変更、屋根上の集中式冷房装置はAU720B形に更新が行われている。また客用扉は、2014年現在では宇都宮線小山 - 宇都宮間を除き通年で半自動扱いとなる。1963年から小山車とともに東北本線・高崎線上野口の普通列車の主力として最大15両編成で運用されていたが、上野口での運用が終了した2016年現在では上越線高崎 - 水上間・信越本線高崎 - 横川間・吾妻線・両毛線・東北本線(宇都宮線)小山 - 宇都宮間で主に3両または4両編成で、朝夕の時間帯では2編成を組み合わせた6両編成で運用される。また同センター所属211系の代走で黒磯まで入線もあることや乗務員訓練などで小山車両センターへの貸出も行われる。さらにかつては小山所属107系の代走運用にも充当された。国鉄時代の1986年11月1日ダイヤ改正で松本運転所から信越本線の運用を移管し配置車両基地となった。かつては3両のN編成と6両貫通のC編成が配置されていたが、N編成は2015年3月14日改正で、C編成は同年10月28日に定期運用を終了した。2016年4月1日現在では、訓練車編成1本(3両)のみが配置されている 。車両面の特徴としてパンタグラフをシングルアーム式のPS35形への交換とATS-Psを搭載。また約半数の車両にはリニューアル工事が施工されたほか、ドア横座席端に風除け用透明仕切り板を設置する工事も実施されていた。JR化後に塗装を白を基調に緑のラインを組み合わせた旧長野色に変更したが、1998年の長野オリンピックにあわせて新長野色(フォギーグレー+アルパインブルー+リフレッシュグリーン)への再変更が実施され、運行終了まで続いた。運用面では、1997年の北陸新幹線先行開通以前は碓氷峠を越えて高崎までの運用が存在したほか、以後は数度にわたり松本車両センターからの移管が実施された。2007年の松本車両センターから中央東線運用移管ならびにC編成転入実施後は大きな変化はなかったが、2013年3月16日ダイヤ改正で2両編成のN51 -54・56 - 58編成をしなの鉄道での運用に転用、同年6月1日付でしなの鉄道への譲渡を実施。また首都圏から211系の転入や2014年3月15日ダイヤ改正でN編成のJR東海飯田線辰野 - 飯田・中央本線塩尻 - 中津川への乗入れ運用が終了するなど活躍範囲が狭まり、廃車や新潟車両センターへの転属が進められた。また、2015年3月14日に信越本線長野 - 直江津間が第三セクター鉄道化したことに伴い、N1・7・12・13・21編成がしなの鉄道へ譲渡された。1999年12月4日のダイヤ改正で長岡運転所(現・長岡車両センター)に配置されていた車両が移管され新潟地区の本系列は当センターに集約された。2016年4月1日現在では、2両のS編成12本・3両のN編成38本・4両のL編成8本と訓練車の計172両が配置されている。2016年7月現在、定期運用を持っているのはN編成のみであり、運用区間は白新線・越後線・弥彦線・信越本線直江津 - 長岡 - 新潟間・羽越本線新津 - 村上間・えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインであるが、2000年代後半以降は臨時運用として諏訪湖花火観客輸送で通常は長野総合車両センターが担当する信越本線運用の一部を代走するケースがあった。なお、2014年度から新型車両のE129系が新潟地区に投入され、置き換えが進んでいる。当センターの特色として塗装が最大で6タイプが同時に存在していたことがある。1次・2次新潟色には塗装の細部が異なる車両も存在したが、現在はすべて統一されている。このほかに弥彦線用ワンマン運転対応車の塗色として「2次弥彦色」(ホワイトとイエローのツートーンカラーにライトグリーンの帯を巻いたカラー 旧Y編成)が存在した。またJR東日本も出資するJリーグ・ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)の広告電車がRN31編成を使用して運転されていたこともあったが、同地区に本拠地を置き地元での人気を博している「アルビレックス新潟」が存在するため、更新時に他の編成と同じ3次新潟色に変更され消滅した。2016年4月現在は「2次新潟色」(白地に黄緑と緑帯 S・N・L編成)に加え、リニューアル工事を施し塗装を「3次新潟色」(白地に淡い青と青の帯、2次新潟色のN編成が塗装変更対象)と呼ばれるものに変更したタイプと湘南色および長野地区から転入した新長野色が存在する。所属車両は訓練車を除き1000番台(改造車含む)と沼津機関区から転入のクハ115形2000番台である。2015年度まではL編成の一部に、1984年の越後・弥彦線電化開業用に転入し耐寒耐雪強化改造を受けた基本番台が残存し、鋼製ドアの車両もあった。一方で新潟地区に新製投入された1000番台や2000番台全車が更新対象から外れており、一部の編成は老朽化が進んでいるが近年は全車が枕バネや軸バネのエリゴバネへの交換や車両内外の低い位置にドアレールヒータに関する注意を促すステッカーが至るところに張られるなどの変化が見られるほか、一部車両にはアコモデーション改良を目的に以下の工事を施工された車両が存在する。所属車両はほぼ全車がATS-Psを搭載するが、ATS-P搭載車も在籍する。全車にEB取付工事を施工している。このほか在籍していたクハ115形2000番台は7両全てが奇数向きだったが、2129を除き方転された。2014年1月までは、300番台による3両編成×12本・6両編成×1本と基本番台4両による訓練車編成x1本の総数46両が配置されていたが、同年夏までに6両編成と訓練車編成が廃車となり、300番台3両編成×12本総数36両に減少。同年12月7日からは、運用を長野総合車両センター所属の211系N編成に移管したため全編成が運用を離脱。2015年1月22日までに全36両が廃車された。所属車両の特徴としては70系電車時代から継続して横須賀線色を採用したほか、近年では先頭車貫通幌を三鷹区時代からの長野方クハ115形装着から、長野総合車両センター所属車に合わせた新宿方クモハ115形装着へ変更。またモハ114形では1998年から集電用パンタグラフをシングルアーム式のPS35A・B形へ交換していた。保安装置はATS-P・Sを搭載し、デジタル無線および運転台への簡易モニター設置が施工済であった。このため運転台後部ロングシート上荷棚部に機器箱が設置されていた。さらに多くの編成が耐雪ブレーキを装備しており、列車番号表示機はLED式を助士席側に設置していた。車内の座席モケットは薄茶色を基調としたものであった。1966年(昭和41年)に宇都宮運転所より移管されて以来、新前橋電車区所属車とともに最大15両編成で東北本線・高崎線の上野口普通列車の主力として運用されていたほか、タウン・アーバンやスイフト・ラビットなどの快速列車でも運用された。当時は基本編成7両・付属編成4両の11両のほか、4両編成2組を繋いだ8両を中心に運用され、2001年12月から2002年7月にかけては湘南新宿ライン運用にも投入された。このため先頭車前面の種別表示器に「横須賀線直通」「宇都宮線直通」などのコマも追加された。また2000年頃から当センター在籍のロングシート車には客室窓下段を固定する(窓戸錠を撤去)工事が施工された。E231系の増備により、2002年7月24日のダイヤ改正で湘南新宿ライン、2003年に高崎線での運用が終了。最後まで残存した東北本線での定期運用も2004年10月ダイヤ改正で終了し、2005年1月にさよなら運転を実施した。その後、4両のY427編成のみが大宮支社管内の予備・訓練車兼用として使用するため残存した。訓練車として宇都宮運転所・黒磯駅・川越車両センター・大宮総合車両センター・東京支社への貸出も行われたほか、

出典:wikipedia

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