『週刊少年サンデー』(しゅうかんしょうねんサンデー、WEEKLY SHONEN SUNDAY)は、小学館が発行する日本の週刊少年漫画雑誌。1959年に創刊。略称は 「サンデー」など。1959年(昭和34年)3月17日に、同年4月5日号として創刊。「サンデー」という誌名は「この雑誌を読むとまるで日曜日のように楽しい気分に浸れるように」という初代編集長豊田亀市が名付けた。当初は毎週火曜日の発売だったが、2016年現在は、毎週水曜日に発行されている。マスコットキャラクターはナマズ。「澱んだ池の底でも辛抱していればそのうち大きくなる」というハングリー精神を表している。企画立ち上げ時のスタッフの中核が学年誌の編集者ということから、創刊前には「小学館の新児童誌」と宣伝され、実際、創刊から10年近くの間、学年誌の延長線上にあり、読み物や付録などが充実していた。1960年代半ばにはSFに力を入れ、当時気鋭の若手筒井康隆が小説の連載を行なっていたこともあった。1960年代にシリアスな漫画で問題を起こすことが多かった一方、比較的ライトな内容のギャグ漫画やコメディ・タッチの漫画にヒット作が多かったことから、俗に「ギャグのサンデー」と呼ばれることになった。1980年代初頭には「ラブコメ」や「パロディ」も加わり、この様な軽快さは雑誌の大きな気風として現在も続いている。とはいえ、1980年代半ばにはギャグ漫画家(パロディ組)が飽和状態になり、サンデー出身作家の『月刊少年キャプテン』(徳間書店)など他誌への鞍替えが目立った時期もあった。担当編集者を介したつながりや誌上企画などに端を発した、師弟関係以外の漫画家間の交流(サンデー内のみではなく、小学館関係の雑誌も含め)が比較的盛んで、中でも1980年代から1990年代初頭の島本和彦を中心としたグループ、1990年代半ばの藤田和日郎を中心としたグループが有名である。1985年に通巻1500号の記念企画としてレコード「WINGS OF FREEDOM」が制作された際には、当時の連載陣の一部が歌を披露している。伝統的に、掲載作品については編集部が企画段階から関与し、その意向が作品の方向性に少なからぬ影響を及ぼす。また、長期連載となるには読者からの作品人気が必要で、雑誌付属のアンケート葉書などのリサーチの結果が編集方針や作品の内容・存続に影響を及ぼすことに、競合他誌と違いはない。しかし、創刊時からの競合誌『週刊少年マガジン』と比べれば編集部主導という姿勢がそこまで色濃いわけでもなく、かといって後発誌『週刊少年ジャンプ』ほどに読者アンケート人気の結果データに極端に偏重したスタイルでもないため、これら競合誌と比較した場合、編集部との折り合いさえ付けば、あとは漫画家が自身の描きたい方向性を自由に打ち出せる傾向がある。編集部・小学館と漫画家との間での作品・制作や作家の取り扱いにまつわるトラブルが表沙汰になり注目を集めた事例では、主なものとして以下が挙げられる。2016年現在の発行部数は、週刊少年漫画誌としては『週刊少年ジャンプ』(集英社)、『週刊少年マガジン』(講談社)に続いて業界3位に位置する。1958年、学年誌編集部の次長だった豊田亀市が、テレビ時代の到来と1950年代半ばから続いていた週刊誌ブームを受けて、漫画を中心に据えた少年週刊誌の発行を社長の相賀徹夫に働き掛け、『週刊少年サンデー』の創刊が決まる。当初は1959年5月5日の発行を予定して諸準備に取り掛かっていたが、『ぼくら』『少年倶楽部』などの月刊少年誌を持つ講談社も週刊誌ブームを受けて『週刊少年マガジン』の創刊準備を始めたことから、徐々に創刊日が繰り上がり、結局ともに1959年3月17日に創刊した。創刊号のラインアップは手塚治虫「スリル博士」、横山隆一「宇宙少年トンダー」、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」、 藤子不二雄「海の王子」、益子かつみ「南蛮小天狗」で、創刊号の表紙に読売巨人軍の長嶋茂雄を起用。巻末には児童心理学者の波多野勤子が祝辞を寄せている。両誌の価格はサンデーが30円、マガジンが40円で、豊田が「もしサンデーがマガジンと同じ値段だったとしたら、マガジンの付録の分お得感で負けてしまう」と判断した事から、両誌の契約している印刷所がともに大日本印刷だったこともあり、「マガジンが刷り始めるのを確認してからサンデーの値段を入れて刷る」という機密漏洩的後だしジャンケンのような裏技を使っている。創刊号の売上げはサンデーが30万部で、マガジンが20.5万部でサンデー側に軍配が上がり、マガジンも5号から30円に値下げした。これ以降もお互い張り合って雑誌の総ページ数を増やしていった。1960年代半ばにはW3事件(「W3」をマガジンからサンデーに移籍)、1960年代末には「天才バカボン」のマガジンからサンデーへの移籍が起きるなど、その後もライバル間の争いは続いた。1960年代のヒット作には、横山光輝「伊賀の影丸」(1961年)、赤塚不二夫「おそ松くん」(1962年)、藤子不二雄「オバケのQ太郎」(1964年)、藤子「パーマン」(1966年)、横山光輝「ジャイアントロボ」(1967年)などがある。1960年代半ばからマガジンが劇画路線・スポ根路線を開拓して、創刊当初の主要読者層(戦後のベビーブーム世代)を離さなかったのに対して、サンデーは少年向けの漫画にこだわった。毎週土曜日に編集部を子供達に開放し、漫画需要を探るという作戦を取り、当時立ち上げを企画していた『週刊少年ジャンプ』(集英社)編集部の協力要請に「一ツ橋に少年向けの漫画雑誌は二つもいらない」と協力を拒否する一方で、青年向けの漫画雑誌「ビッグコミック」(1968年、創刊当初「一流の漫画家しか起用しない」というのをウリのひとつにしていた)を創刊するなどして対応していた。1960年代末になると、「右手にマガジン、左手に朝日ジャーナル」の学生運動の時代が訪れ、学生の他にアングラ・カルチャー層からの支持を得たマガジンが発行部数を伸ばし、一気に追い抜かれることになった。この時期、園田光慶の「あかつき戦闘隊」(1968年)の懸賞問題の影響で、隆盛を誇っていた戦記モノが激減した。『週刊少年マガジン』との争いの敗北を受けて、追随する形で青年向け雑誌(マガジンとは異なり、スタイリッシュな路線を目指した)への方向転換を図り、1970年21号から1年間広告製作プロダクションサン・アドに表紙の製作を受注。「傑作アイデアシリーズ」と称した、昆虫をダイナミックにレイアウトした「怪虫シリーズ」を皮切りに、トイレの便器、マネキン、スキンヘッド、マッチ箱、オール手書きイラスト、編集部宛の投書など表紙としての定義さえも破壊した表紙が次々と登場した。この時期の主な連載にジョージ秋山「銭ゲバ」(1970年)、古谷三敏「ダメおやじ」(1970年)などがある。それらが沈静化した1972年頃からは「月光仮面」、「赤胴鈴之助」などの旧作のアニメ化に伴った漫画連載を展開し、当時作品に馴染んでいた親層の取り込みを図る一方で、「人造人間キカイダー」(1972年)、「ウルトラマンタロウ」(1973年)、「がんばれ!!ロボコン」(1974年)、「ゲッターロボ」(1974年)などの特撮・SFアニメ作品のコミカライズを大挙掲載し、新規子供層を押えようとするなど、「親と子が安心して読める」誌面の展開を目指した。しかし、サンデー、マガジンともすでに青年(あるいはそれ以上)向け雑誌に転じていたため、本来の読者層であるはずの少年の多くが『週刊少年ジャンプ』に流れることになり、1973年にはサンデー、マガジンともに発行部数で追い抜かれることになり、再び少年向けに方向転換(ただし、一部の劇画は残った)。当時の小学館は路線転換の煽りで離れつつあった少年読者層の再度獲得を目指すべく、まず1974年6月に単行本レーベルの「少年サンデーコミックス」(「漂流教室」などが第一弾として刊行)を立ち上げ、続いてサンデーから特撮・SFアニメ作品の部分を引き継いだ『てれびくん』(1976年)、児童向けの『コロコロコミック』(1977年)、学年誌とサンデーの中間の『マンガくん』(1976年)(1979年に『少年ビッグコミック』に改称)、新人作家育成のための『週刊少年サンデー増刊号』(1978年)など次々と新雑誌を創刊。この時期は『週刊少年チャンピオン』の大躍進の影響もあり、発行部数が低迷、第4位になっていた。1977年には編集長が交代し、ビッグコミック系誌から持ち込まれ、現在もサンデーを象徴するイメージキャラクターのヘルメットを被ったナマズが初登場。また1976年から5年間1年ごとに誌名ロゴを変更する体制をとった。1970年代中期から後期にかけては小山ゆう「がんばれ元気」(1976年)、楳図かずお「まことちゃん」(1976年)、村上もとか「赤いペガサス」(1977年)などがヒットしているが、雁屋哲/池上遼一「男組」(1974年)、さいとう・たかを「サバイバル」(1976年)、林律雄/大島やすいち「おやこ刑事」(1976年)などの劇画のインパクトが強く、硬派でかつ重い雑誌と取られがちだった。1980年前後には、『週刊少年チャンピオン』の部数激減の影響もあり、発行部数が『週刊少年ジャンプ』に次ぐ第2位になった。1980年代に入ると、劇画村塾出身の高橋留美子の「うる星やつら」(1978年)と、「少年ビッグコミック」で「みゆき」をヒットさせていたあだち充の「タッチ」(1981年)と、同じく「エリア88」をヒットさせていた新谷かおるの「ふたり鷹」(1981年)のヒットでラブコメブーム(学園もの、青春もの)を巻き起こし、黄金期となった。この3作品のアニメ化により部数を大きく伸ばして、1983年には最高発行部数の228万部を記録した(ちなみに、この記録は現在でも破られていない)。そのため、当時発行部数で首位に立っていた『週刊少年ジャンプ』編集部は猛追を恐れ、「友情・努力・勝利」を「友情・勝利・愛」に変えようとした程であった(但し、これはその直後の「北斗の拳」の大ヒットと、これに伴う発行部数の急激な上昇によって回避された)。また、この時期から増刊組が台頭し、島本和彦の「炎の転校生」(1983年)、ゆうきまさみの「究極超人あ〜る」(1985年)などの特撮のパロディが話題になり、いずれもヒットした。なお、本誌から連載の依頼があっても増刊で描くのが好きだからと断るみず谷なおきのような漫画家もいた。1985年に誌名ロゴを固定化し、その頃から、RCサクセションを筆頭にBARBEE BOYS、爆風スランプなどのロックバンド、あるいはウィラードやガスタンクなどのパンク・ハードコア系のバンドの盛り上がり(第1次バンドブーム)にインスピレーションを受けた石渡治の「B・B」(1985年)、上條淳士の「To-y」(1985年)などの、音楽的かつ青年誌的な漫画が増えた。1985年中盤に「ふたり鷹」が、1986年末に「タッチ」が、1987年初頭に「うる星やつら」が終了したのを皮切りに、それまでのサンデーを支えていた作品の多くが完結し、1980年代前半の勢いが止まる。その後、高橋留美子の「らんま1/2」(1987年)や、ゆうきまさみの「機動警察パトレイバー」(1988年)などがヒットするものの、続くヒット作がなかなか出ずに部数が大きく落ち込み、1987年頃にはマガジンに発行部数を追い抜かれた。1988年から1991年にかけて連載数を増加させ、他社からのギャグ漫画家などの引き抜きや、石ノ森章太郎、楳図かずおら大御所の再登用、漫画家インタビューコラム「オレのまんが道」の連載、既存の枠にとらわれない増刊『サンデーspecial』の発行、プロ・アマチュアを問わずに連載用の第1話を公募して誌面に掲載、読者の人気が高かったものを連載化する「コミックグランプリ」の実施、たまやXといったロックバンドのカラーグラビア掲載などの実験的な試みを数多く行った。この時期は雑誌及び編集部に混乱が続いていて、小山ゆうの「少年」(1989年)の不自然な打ち切り、柳沢きみおの「ウエルカム」(1990年)の打ち切り、単行本が最終巻刊行直後に絶版になる(石森「仮面ライダーBlack」、楳図「まことちゃん(平成版)」)など、中堅・ベテラン・大御所を問わず悲惨な目に遭うことになった。この時期、少年ビッグコミックの対象読者層が創刊当初に予測していた層より上になっていた事を受けて、青年誌『ヤングサンデー』(1987年)としてリニューアル創刊された。1988年から1991年にかけての大混乱の中、若手漫画家の手により、それまでのサンデーの色に無かった新しい漫画が増え始め、「帯をギュッとね!」(河合克敏、1988年)、「うしおととら」(藤田和日郎、1990年)、「今日から俺は!!」(西森博之、1990年、増刊号から移籍)、「行け!!南国アイスホッケー部」(久米田康治、1991年)、「GS美神 極楽大作戦!!」(椎名高志、1991年)などがヒットし、これらはいずれも長期連載となった。これらに加えて、「H2」(あだち充、1992年)、「名探偵コナン」(青山剛昌、1994年〜)、「MAJOR」(満田拓也、1994年)、「烈火の炎」(安西信行、1995年)、「犬夜叉」(高橋留美子、1996年)など中堅・ベテランの長期連載も増え、伸び悩んでいた部数も1994年頃から2000年頃まで上昇を続け、サンデーは再び黄金期を迎えた。雑誌的には一種の安定期に入ったが、その一方で1990年代半ばから後半にかけて若手漫画家が台頭せず、暗い影を落とした(1995年に週刊少年サンデー増刊号を『週刊少年サンデー超』とリニューアルするなどして若手漫画家の台頭を待っていた)。1993年51号で、サンデーは創刊2000号を迎え、その記念として嘉門達夫(サンデー創刊と同じ年の1959年生まれ)によるオリジナルソング「SUNDAY'S DREAM」が発表され、サンデーの懸賞プレゼント用に8cmCDが制作された(歌詞は嘉門の半生を歌った内容に駄洒落的に過去のサンデーの連載作品名を盛り込んだもの)。この時期、『コロコロコミック』と『サンデー』の中間層をターゲットにした『コミックGOTTA』(1999年)、メディアミックス誌『月刊サンデーGX』(2000年)が創刊された。この前後から長期連載や人気作が次々と終了し、部数が低迷。1990年代以上に積極的なメディア展開を行うようになり、「金色のガッシュ!!」(雷句誠、2001年)、「焼きたて!!ジャぱん」(橋口たかし、2002年)、「史上最強の弟子ケンイチ」(松江名俊、2002年)、「ワイルドライフ」(藤崎聖人、2003年)、「結界師」(田辺イエロウ、2003年)、「ハヤテのごとく!」(畑健二郎、2004年)、「絶対可憐チルドレン」(椎名高志、2005年) 、「月光条例」(藤田和日郎、2008年)、「神のみぞ知るセカイ」(若木民喜、2008年)などがヒットするが、その他の連載は伸び悩み、部数の低迷に歯止めが効かず、また、この時期から多くの漫画家がサンデーを離れていくことになり、さらに、2008年、雷句誠がサンデー編集部での原稿紛失を巡って小学館に対し損害賠償請求の民事訴訟を提起するなど、1980年代後半の混乱と同様に安定しない時期となった。2000年に創刊された『サンデーGX』の合同企画コーナーが設置され、一部の作家の入れ替えや引き入れが同じ小学館で刊行されている『少女コミック』・『ちゃお』と同時になされることが多くなった。2008年3月から2009年3月にかけて『週刊少年マガジン』と「サンデー×マガジン 創刊50周年企画」を行ない、共同雑誌の他、数多くのコラボレーション商品を発売。2009年第14号(3月18日号)では、「創刊表紙トリビュート号」と題して創刊号の表紙デザインを再現(創刊号表紙の長嶋茂雄を松坂大輔に、手塚治虫の『スリル博士』のイラストを橋口たかしの『最上の命医』に置換)した。50周年イベント終了後の2009年3月末からは、週刊少年誌としては初のウェブコミック配信サイト『クラブサンデー』を開設。さらに、月刊少年サンデー『ゲッサン』の創刊、『週刊少年サンデー超』(現在は『週刊少年サンデーS』)の月刊化などをし、今まで連載経験のない新人作家を、積極的に連載させるなど、これまで以上に新人育成に力を入れるようになる。また、それ以降連載作品を『クラブサンデー』や『週刊少年サンデー超』に移動させたり、『週刊少年サンデー超』の連載作品を本誌に移動させたりする事例が増え、連載陣の入れ替えの激しさが増していった。この前後から、「アラタカンガタリ〜革神語〜 」(渡瀬悠宇、2008~)・ 「マギ」(大高忍、2009年〜)・「銀の匙 Silver Spoon」(荒川弘、2011年〜)など、他誌・他社の人気漫画家の新作を連載する事例が増え、いずれもヒットし、さらに、『コロコロコミック』関連作品との連動も図られるようになっており、「ペンギンの問題」の出張掲載や「機動戦士ガンダムAGE」の前後編読み切り掲載などが行われているほか、小学館の主力コンテンツである「ポケットモンスター」や「デュエル・マスターズ」を原作とする作品が連載されたり、メディアミックスとして「戦国コレクション」や「ささみさん@がんばらない」、「キャプテン・アース」のコミカライズ作品を連載したりしている。上記3作品以外では、「境界のRINNE」(高橋留美子、2009年〜)・「常住戦陣!!ムシブギョー」(福田宏、2011年〜)・「電波教師」(東毅、2011年〜)・「だがしかし」(コトヤマ、2014年〜)などがヒットし、また、「トキワ来たれり!!」(松江名俊、2015年〜)・「MAJOR 2nd」(満田拓也、2015年〜)・「なのは洋菓子店のいい仕事」(若木民喜、2015年〜)・「柊様は自分を探している。」(西森博之、2016年〜)・「双亡亭壊すべし」(藤田和日郎、2016年〜)などの連載が開始される。雑誌に付録としてクリアファイルやシール・栞・ソーシャルゲームの限定シリアルコードなどを付録に付けることが増え、付録によっては、発売されると瞬く間に本の完売が相次ぐことも多くなった。単行本関連では人気作品において限定版・特別版の同時発売が多く行われるようになっているほか、SSS(サンデーサポーターズショップ)・一部アニメショップでイラストペーパーや栞などを初回特典として同梱・配布するケースが増加傾向にある。さらに、ウェブコミック関連では『クラブサンデー』に加えて、WEB漫画作家を多数起用した『裏サンデー』を2012年4月に、本誌やサンデーSの漫画家を多数起用した『サンデーうぇぶり』を2016年7月に開設する。2013年からは、今まで以上に様々な企画を行うようになっており、「2013サンデーアニメプロジェクト」と称してスピンオフやタイアップ等も含めた8作品のアニメ化を発表・展開したり、著名人である野島伸司や五味一男が原作の漫画の連載、「サンデー夏の大感謝祭!!!爆サン」と称して2013年33号のみ17年ぶりに200円で販売、2014年には、少年サンデー創刊55周年を記念して、関連雑誌も含めて55本の新連載を始めたり、『アニサン』と題して7作品をOVA化、2015年には、初の単独イベント『サンデーフェス』を開催したりしている。2015年35号より、市原武法が編集長として就任してからは、新人作家の育成を絶対的な使命とする大改革を行うようになっている。本誌の傾向としては、特にラブコメディと恋愛漫画にノウハウと強みを持っていることが挙げられる。特に、中長期連載となった作品ではその傾向が強く見られる。また、主なジャンルがそれでなくても作中のエピソードなどで恋愛及びラブコメ的な要素を色濃く匂わせる作品も多い。その一方で、少年漫画雑誌とは思えない社会を絡ませた重厚な内容の作品が掲載されることも時折見られる。また、作品が打ち切りになった場合、『週刊少年ジャンプ』など他誌のように唐突に終了することは少なく、ある程度物語がまとまった形で終了させてくれる傾向にある。少年漫画誌の中では読者の年齢層が高く、高校生以上の読者が全体の約6割を占めている。更にラブコメや恋愛漫画に強みを持っているため、少年誌でありながら女性の購読者が非常に多いことでも知られている。そのためか、他の少年誌と比べて女性漫画家が多いのも特徴である。『週刊少年ジャンプ』とは異なり、表紙にグラビア(『週刊少年マガジン』なども同様)が付いている号がある。ただ2013年に入ると前述のアニメプロジェクトもあってかグラビアは減少している。また、グラビア以外でも女性キャラクターを前面に押し出す表紙イラストがしばしば見られる。その他、2001年よりアンケートや読者投稿コーナーがハガキ以外にもインターネット(ウェブサンデー)からも応募・投稿できるが、これは週刊少年誌で最初に始まったものである。読者コーナーの節やサンデー青春学園も参照のこと。また、2008年より週刊少年漫画誌としては初めてウェブコミック配信サイト「クラブサンデー」(リンク)を開設。2012年からは「裏サンデー」(リンク)も開設。2016年からはサンデーうぇぶり(リンク)が開設。2016年10月19日(2016年47号)現在連載中の作品。休載中の不定期連載作品も含む。2016年10月現在のもの。"斜体"は地上波全国ネットでの再放送が行われている作品。2000年代中期には週4 - 5本程度のテレビアニメ作品が放送されていた。2011年から翌年にかけてアニメ作品が『名探偵コナン』関連のみとなっていた時期もあったが、その後持ち直し本数を回復させている。1990年代半ばまではアニメ化される作品の大半がフジテレビ系列(FNS)で放送されていたが、以降は読売テレビ制作・日本テレビ系列(NNN)で放送されることが多い。2000年代に入るとテレビ東京系列(TXN)でアニメ化される作品も多くなっていた。他の週刊少年誌の作品と比較するといわゆる「UHFアニメ」として新作が放送されたのは『美鳥の日々』・『うしおととら』・『競女!!!!!!!!』程度に留まっており、もっぱらキー局や準キー局での制作・放送が基本となっている。近年ではサンライズやトムス・エンタテインメント、ブレインズ・ベース、A-1 Pictures制作でアニメ化されることが多い。いずれも「サンデー」ではアニメと並行して漫画版を連載。1995年から、連載作品の中でまだアニメ化されていない作品をテレビCM用にアニメ化して放送している。これらは公式ホームページで、一部を除き過去分も含め視聴することができる。アニメ化された作品の場合はテレビ放送が開始した時点で放送を終了しているが、『ハヤテのごとく!』ではアニメ開始後も放送をしばらく続けていた。近年ではCM劇場の形をとらない形態でCMが放送される作品も増えている。※ただし日本作品が全て掲載されているわけではない。「ジャンプ放送局」の『週刊少年ジャンプ』や「マガジン7」の『週刊少年マガジン』に対抗して、巻末に読者コーナーが設置された。当時の人気アイドルだったおニャン子クラブ出身の高井麻巳子、渡辺美奈代、吉沢秋絵などがいたが、特筆すべきは当時人気絶頂だったとんねるずが最初の読者コーナー「サンデーファン」を担当していたことである。現在の読者ページは2001年春に始まった。週刊の少年誌の中で「サンデー青春学園」が初めて読者からのインターネットでの投稿を受け付けた。
出典:wikipedia
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